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2008年8月 6日 (水)

Gambirガンビールの謂われ

モナス広場は昔Lapangan Ganbirとも言われたが今や思い出か歴史だけになり辛うじてKelurahanの名前と駅の名前に残っている。このGambir地区は北はベテラン通り、西はマジャパヒット通り、南はクブンシリー通り、東はチリウン河の一帯である。
昔の住民がそこに多くのGambirと言う名前のつる草(或いは木)が生えていたからとの謂れがある。1658年Anthony Paviljongと言う人が中国人に賃貸していたという史実もあるようで古い絵に牛を狩る農民の絵を見たことがある。
加納啓良先生によるとGambirの謂れに別の節もあり、それに拠るとダーンデルス提督の下で此処を開発したフランス人の名前から来ているとのことである。1809年ダーンデルス総督がコタから政府の中心を移して以来オランダ時代はウエルトフレーデンとなり広場自体はコーニクスプレインの名前であり、日本時代はイカダ広場と呼ばれた。イカダは何も筏ではなくIkatan Atlet Djakarta(ジャカルタ体操連盟)の略でオランダ時代のBataviaasche Sport Club (BSC)やBatavia Buitenzorg Wedloop Societet (BBWS).の流れで市民のスポーツの場であったようである。その後も夜店や博覧会などもも世をされた時代はあったが今はモナスに一回上った後は行くこともなくなった。


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