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2008年8月の投稿

2008年8月31日 (日)

Kimia Farma のキナ工場

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バンドンで市中心からスティアブディに向かうときCicendo通りの角に異様な建物があったので車窓から急ぎ写真をとった。看板にKimia Farmaとある。Kimia Farmaはジャカルタのフリーメースンの館などオランダからいいものを多く受け取っているがこのバンドンの建物が一番のものかもしれない。この建物はマラリアの生薬キニーネ生産工場で現在でも生産を続けており世界トップの生産のようである。キニーネはキナの木の樹皮から作るものでこのキナの木はペルーなどのラテンアメリカ原産で木の栽培含め大昔から門外不出のモノポリーを守ってきたそうで、ジャワにこの木が齎されたのはオランダ政庁勤務のドイツ人医師Junghuhnが靴に隠し持ち込んだという。最初はチボダスで栽培し、更にバンドン高地PanglaenganのMalabar 山の麓をが最適なることを発見し以後オランダ政庁の大切な輸出品となった。1852年ごろの話で会社はBandoengsche Kinine Fabrik NV、建物は1896年築、設計GneligMijlingのアートデコ スタイルである。
* バンドンのレンバンでは一面キナの木 原生林が広がっている。街の街路樹としても使われている。ペルーでは既に殆どキナの木は切り倒されてしまっている。
* 現在でもアフリカ中心に年間200万人がマラリアで死す。
* キニーネは副作用がある。現在はクロロキンなどが開発されたが又キニーネ見直しもある。
* トニックウオーターには苦味剤としてキニーネが使われる(欧米では)


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2008年8月29日 (金)

Nillmij保険はJiwasraya 続

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7月27日のNillmijのジャカルタ本店のブログの続きであるが、このオランダの生命保険会社Nillmijの蘭領インドで最初の保険会社で設立者はC.F.W. Wiggers van Kerchemで彼は蘭領インドで最初の一般銀行を設立し又、ジャワ銀行(De Javasche Bank 1863 – 68)の総裁でもあった。支店はスラバヤ、ジョグジャの他にバンドン、スマラン、メダンにもあった。
Nillmijは1957年下記の8つの保険会社と共に国有化され、た国営保険会社、当時の名前はPT. Pertanggungan Djiwa Dharma Nasional と言う名前で合併させられた。
既に倒産していたアルゲメーネ保険会社の名前はないのでこれは当時の全ての生保会社であろうがNillmijが1859年設立とあるが(上記の名前はリストラ?)他にも会社名から1845年や1879年設立がある。後者は本国での設立年であろう。Nillmijは設立1859年で政庁から年金や税金の徴収の独占権を与えられていたが1883年、政庁の中央集権の地方分散政策で生保も自由化された。自由化後はむしろ保険会社の信用が薄らぎアルゲメーネ保険会社などは倒産していったものである。この合併後のPT. JIWASRAYAに改称されている現在の国営保険会社(写真)である。
バンドン支店はAlun-alunにあったが大モスク建設で破壊されたのであろうか

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2008年8月28日 (木)

Siliwangi師団とカルトスウイルヨ

1948年1月のレンビル協定はオランダ占領地からのインドネシア軍の撤退条項がありインドネシアにとって非常に不利且つ危険なものであった。このとき3,500人のシリワンギシ団は西ジャワから東ジャワへ撤退を行わなければならず、その後をオランダが完全に押える危険があったのだ。移動命令を不服として抵抗した軍人達を集めてDI/TII(イスラム国家/インドネシア・イスラム軍)運動を立ち上げたのが、中央に不満を持っていたカルトスウイルヨであった。その集団はカルトスウイルヨ隊とよばれたが、49年8月にはオランダの支援も受けて建国を宣言する。更にハーグ円卓会議後の51年頃からもこの運動は南スラウエシ、スマトラ、アチェ、カリマンタンにも広がったが結局62年1月シリワンギ師団と民衆の協力によってカルトスウイルヨは逮捕され死刑となった。(志村龍太郎著 ヌサンタラ古代史より) これがシリワンギ師団の“シリワンギは西ジャワの民衆であり、西ジャワはシリワンギなり”の師団モットーとなった。Bandung_aug08_017
カルトスウイルヨ殲滅のバラタユダ・オペレーションは凄惨を極め当時の写真がシリワンギ博物館に展示されている。偶々写真に取った正面の大きなレリーフの浮き絵もそうなのかもしれない。死体をアナに投げ込む戦場の絵である。拡大してみた下さい。

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2008年8月27日 (水)

「ヌサンタラの古代王国」 出版

先日「ジャカルタ道路の英雄・偉人名」の出版についてお知らせしたが、同じ頃小生の先輩志村隆太郎氏も掲題のタイトルの著作を出版(私家本)しており昨日一冊頂いた。副題に「読んでみて訪ねてみたインドネシア古代史」となっており実際にUIのハッサン教授とも親交のある氏は情報交換しながら、またカリマンタンのクタイ王国、スンダのタルマネガラ王国、スマトラのスリウイージャヤ、ジャワのマタラム・パジャパヒット等々の遺跡を訪ねて、写真も満載の堂々350頁の研究・紀行誌に仕上がった。古代史だけでなく第6章にオランダの侵略からオルデバルまでの歴史も纏められているのでインドネシア通史である。小生の値踏みをすれば相当なものであるが、限定期間割引でインドマルコでRp500,000で販売している。良かったらどうぞ k2433@attglobal.netに連絡下さい。

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2008年8月26日 (火)

紅河事件当時の華僑たち

インドネシア華人の迫害の歴史の中で最初に起こったのが1740年の紅河事件が有名である。
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紅河と言うのは殺された死体から流れ出した血で河が真っ赤に(Angke)の染まったということで今でもその河はSungai Angkeと言われる。当時のバタビア近郊には既に1万人以上のシナ人が住んでおりオランダ人の飲む茶を中国から輸入する茶船に乗って移民してくるシナ人が後を立たずバタビアの町はこうした浮浪者で不安を高めていた。オランダは彼らをセイロンに労働者として送りだしたが途中海上で投げ捨てられるという噂を鎮めようともせず、居住許可書発給の賄賂を吊り上げる始末であった。市外に浮浪者が終結し緊張が高まる中、市内のシナ商店から火が出たのを蜂起の合図と見たオランダ官憲はいっせいに中国人狩に出動、奴隷や土人も加わり略奪と殺戮が1週間続きシナ人5千人から9千人が犠牲となった。中部ジャワにも多数のシナ人が住んでおりバタビアの事件を聞くや激昂し軍隊を組織し進軍、スマランを囲んだが最後は敗北した。中国人に付いたり、オランダに泣きついたりしたマタラムのパクブオノIIはオランダの要求でジャワ北海岸全てを放棄せざるを得なかった。オランダは清の乾隆帝に謝罪を入れたが 帝は国禁を犯した出国シナ人に一顧だにしなかったという。
事件後残ったシナ人は市外に居住地を与えられたがそれが現在のグロドックである。Angke河は現在では治水で大きく変わっているはずでMuaraとTubagasの二つがある。写真はTubagas Angke の方である。

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2008年8月25日 (月)

Siliwangi師団のミュージアム

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バンドン軍都の続きで国軍第3師団であるシリワンギ師団はバンドンに独自の博物館を持っている。名前はMuseum Mandala Wangsit Siliwangiである。独立戦争時代に大衆と肩を組み共に戦ったことを後世に伝えるとして1966年にオープンしている。場所の名前はLembong通りである。このLembongと言うのは1950年オランダの残党のウエターリングのバンドン侵略に戦い的の一斉射撃に倒れた中佐(Letkol)である。ウェスターリングはジャカルタへの転戦したがこちらもシリワンギのSutoyo少佐に阻止され失敗マラヤに逃亡した。街の中心のブラガをブラブラ歩いて見つけたものである。
ブラブラ歩けるバンドンはいい。ここは開門され自由に入れたが内部は時間もなく割愛した。

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2008年8月24日 (日)

華僑と華人

華僑とは不本意な気持ちを込めた海外で生活する中国人の意味で海外で生まれ根を生やした世代は華人といわれる。インドネシア国籍も取得した華人を呼ぶには英語ではChinese Indonesian (国籍を離れ、民族として言う場合は特にethnic Chinese、華僑はOverseas Chinese)となろうが
日本語ではさしずめ 中国系インドネシア
マンダリンでは: Yin du ni xi ya Huaren (印度尼西亞華人)
インドネシア語では: Tionghoa Indonesia
Keturunan Cinaと言うことも聞くがこれは厳密に言うと第二波移民までの子孫を言うと思われる。Peranakanも混血土着した人々をいうが混血が前提ではない。華橋と言われた人々の中で中国に顔を向けた人々をCina Totokと言いインドネシアに顔を向けた人々をCina Baba とか Peranakanと言う。Ali-BabaのBabaである。

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2008年8月22日 (金)

Santa Maria Fatima Church中国教会

金徳院寺院の裏手に当るのだろうかToa Se Bio寺からも遠くないところに中国人のための教会がありSaint Maria Fatima Churchと名付けられている。
当初はマンダリンしか利用できなかったが今は全ての人にオープンである。この教会のつくりはユニークで元々これは中国人のTjioeと言うLuitenantの為の住宅であったものである。中央の住宅に両サイド二つの建物で左右対照なつくりで前面に二つの獅子像が置かれ屋根はツバメの尾のスロープを示し真ん中に十字架が立っているのやっと教会であることがわかる。中庭にはけばけばしい壁画が作られていた。Toa Se Bio寺も裏の川から見たものだろうと見当をつけるも再度確認St_maria_de_fatima_glodok_060_2
に行くのには一寸腰が引ける大変な地区である。

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2008年8月21日 (木)

バタヴィア号の惨劇と救出劇

8月9日にバタビア号の惨劇を紹介したがどのような惨劇であったか、買い抓んで見たい。
17世紀初頭、東インドへの航海ルートは季節風を受ける南回帰線ルートが発見されたが、オーストラリアの西側にはサンゴ礁の島々がありバタビア号はこれに乗り上げ沈没、幸い予備艇があり乗員300名強の内250名程度が近くのサンゴ礁の島に別れて窮乏生活、1628年10月に出航、沈没は翌年6月最終救助を受けるのは9月であるが沈没までの死亡者は50名で残りの殆どが救助を受けられる計算になるのであるが、この中に反社会的性格異常(サイコパスOr異端者)の男が反乱団を結成、120人にも及ぶ無差別殺人を繰り広げる。飢餓死亡を計算し他の島に送り出された約50名は防衛団として団結、その島に水を発見、生き延び反乱団との戦いにも勝利し首謀者を確保した。先に予備艇で救出応援を求めてジャワに向かった船団長以下50名も1,000マイルを11日間で7月にはバタビアに到着する。応援の帆船はバタビア号沈没点を探し求め9月には発見するもその7月~8月で殺人の惨劇は終わっており、残存反乱軍との最後の戦いの寸前に救助船が現れたのである。反乱軍は救助船乗っ取りを図るが防衛団のためあわやの所で阻止できた。反乱団約40名は残酷な拷問と車轢きや獄門で処刑される。これらの話は航海日誌、尋問・裁判記録、証言で克明に事実化されているが肝心のバタビア号残滓の発見は1970年で今では豪州フリーマントルの博物館に展示されているそうだ。
1年にもなる船上・無人島での窮乏生活と死の恐怖、中世が残る残酷な時代の話の数々は何度も本を畳んでしまった。

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2008年8月20日 (水)

Siliwangi師団司令本部付近

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バンドンのJl.KalimantanのSiliwangi師団の分遣隊(Detasmen)を紹介したが本部と遠く離れている分遣ではない。その対角線のJl.Acheにあるのが師団司令本部(Makodam)である。こちらは豪壮な構えの宮殿作りでR.L.A.Schoemakerの設計である。Makodamが取る前は蘭印軍最高司令官の公邸であった。その先の西側のJl.Sumatraには陸軍士官の事務所、現在は陸軍会計局IIが使用している。その隣はパスンダンの協会(Paguyuban)、更にその先が師団法務部と師団領域参謀が入っている建物が続く。 銃を向けられて逃げるほどであったので写真はMakodamだけである。

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2008年8月19日 (火)

GDPに対応しない日本企業

フォーチューン誌の世界のLargest 500社でトヨタがGMを抜き自動車部門1位、全体でも
5位に食い込んだ。その他の産業でも幾つか世界に顔を向けた企業は上位にあり、又日本の世界2位のGDPに対応し上位に食い込めるのであるがそれが活かされていない産業も多い。特に銀行部門はそうである。日本のトップの三菱UFJは世界では20位であり、29位30位に住友・三井とみずほが顔を見せる。世界のトップは何とオランダのINGで2位はFORTISとか、3位Citi、5位HSBCで相当荒れている。 その他に全く日本勢がいない産業は宇宙・航空機部門(ボーイングがトップ)、飲料(コカコーラ)、建材、エネルギー、建設、食品、映像(タイムワーナー)、半導体(INTEL)、鉱業、医薬品、証券(全て米国御4家)、通信機器(Nokia トップ )などとなる。

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2008年8月18日 (月)

軍都バンドンはSiliwangi

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昨日・今日とバンドンの古い建物を求めて写真を取りまくった。バンドンの中心部、それもかなり広い範囲でオランダ時代の建物が軒を並べており撮った写真の枚数は296枚にもなった。これを解説していけば1冊の本になろうというものである。解説本に載っているものがあれば追々出して行こう。バンドンはオランダ時代の軍の大本営が置かれた場所であり、現在はシリワンギ師団の本拠地である。オランダ時代の蘭印軍総司令部の立派な施設が、今は1地方の師団が当然の如く接収しており、シリワンギ師団はどの師団より特をしていることになる。
カリマンタン通りはシリワンギ師団の特別分遣隊が使っている建物も群を抜く。こちらはバンドンを首都とする予定で先行して本部を移した省があるが、その一つのDepartemen Peperanganの建物である。戦争省と言うのであろうか 軍需省とか陸軍省に相当するのであろう。こちらは軍の総司令部がバンドンだからでもある。Gedung Sabauともいい、敷地面積0.7haである。
車に戻ろうとしたとき、小生が近づく前に車が発進したので乗り込んで難詰したら運転手が言うには、衛兵が詰め所から出てきて小生に銃の照準を合わした為慌てたと言う。主人をおいて慌てて逃げ出したのであろうか。小生は写真をとっているときに衛兵の存在には気が付かなかったが危ない話だあった。


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2008年8月16日 (土)

「ジャカルタ道路の英雄・偉人名」の出版 

出版と言うと大げさだが書き留めた英雄・偉人の伝記をジャカルタの道路に探索した私家本で値段をつけたところが出版といえる。 出てくる英雄・偉人はワリソンゴの9人を含め凡そ120人、ワリソンゴも道路名にでてくるのである。 インドネシアは国家英雄叙勲があり、今まで130人程度で、これが又英雄なのに人数がはっきりしないが、この本でかなりカバーした。付録に国家英雄リスト、英雄偉人のインドネシア歴史年表、バンテン少史やジャカルタ国際空港小史をつけた、Rp260,000+VATでお申し込みはインドマルコ社(k2433@attglobal.net)へどうぞ。

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2008年8月15日 (金)

7月インドネシア投資環境ニュース

* 日本・インドネシアEPA発効、日本では6ケ国目、特別免税制度
* 又々おせっかい、やきもちのFPIミス・インドネシア、ビキニ姿に文句、増長続く
* 電力不足で工場操業時間規制、月~金の就業日の内の二日を土日に振り替えること
* リッポー・ニアガ両行の合併、10/1までに法務手続き終了の見通し
* 所得税法改正国会通過:法人税率引き下げ(29%、2010年には25%)、NPWP保有者出国税免除、個人所得税の最高税率5億以上30%、非課税所得額引き上げ
* 貧困人口、今年3月時点で3,496万人、貧困率15.42%、前年比1.16%減少。
* 電力不足:工業界にバイオ燃料の使用を義務付けへ、総消費の2.5%
* 公務員給与、来年15%アップ:国会作業委が承認。

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2008年8月14日 (木)

Bandung燃える

最近バンドンが燃えているのであろうか 知り合いで今週来週で3組も行く話しがある。
Indonesia's New Hot Spotというブログにも出くわした。
どうもバンドンが燃えているいるようだ。国内はもとより海外からの観光旅行が見直されてきたということのようだ。
バンドンが燃えているといえばLautan Apiである。
1946年3月24日 連合軍のバンドン占領でインドネシアはバンドンの南側へ撤退したとき市民20万人も自宅を焼き払い又再度の取り返しを誓ったバンドン火の海(LautanApi)事件である。
この焦土作戦はパラヒアンガン議会の決定により当時地区司令官であったA.H. Nasutionが指導した。 この前連合軍はスラバヤにもスマランにも上陸、砲火を交えているがBandungはABCD(Anak Bandung Cinta Damai)といってOTISTAが外交交渉を進めていたがLaskal Hitamに誘拐され前年末殺されている。 又Mohammad Tohaが爆薬庫の爆発で死亡している。
焦土作戦のその時の気持ちを歌ったのがイスマイルマルズキが作曲したHallo Hallo Bandungであるが、歌って撤退したのではない。

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2008年8月13日 (水)

Jl. BankのEscomptobank

Escomptobank
7月30日の銀行通りの大昔Escompto、昔BDN、今Mandiri銀行を紹介した。
ここは1857年設立のNederlandsch Indische Escompto Maatshkappijと言う会社の建物で2代目である。設計はFermonto &Cuypersで1921年建設開始、会社は1949年にEscomptobank NVに改称したが、1960年インドネシアの国有化政策で国営銀行Bank Dagang Negaraとなり、現在Mandiri 銀行所有Archiveとなったものである。行った日は日曜日であった為か閉まっていた。Jl.Bankの1番地、隣は6番地までの棟は売りに出されていたが車の通行が多くまぁ売れないだろう。道の前はBIミュージアムでコリント式列柱が美しい。

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2008年8月12日 (火)

PrasastiのMiss Riboetの頃

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何かの中でこの名前に行き当たっていたので、 昔、プラサスティ墓石記念公園で写真を撮っていた。墓石には1900年生まれ1965年亡くなったとあり、それ程古いものではないのに何故かひびが何条にも入っており字がはっきりとは読めない。 彼女は戦前の歌姫である。 インドネシアの謂わば近代的舞台ショーの初期に活躍した人でその前のスタンブールやバンサワンの流れに劇を取り入れたトニールからサンジワラといわれる時代に差し掛かっている。1925年と1926年に二つのグループが生まれている。一つはこのMiss Riboet Orionでバタビアに、後一つがスラバヤのDardanellaで、二つは激しく競争しジャワ巡業で駆け巡った。
ORIONの座長はTio Tek Djien Juniorでプリマドンナが彼の妻Riboet、つまり二人は華人であった。 その後記者家業のNjoo Cheong Seng とその妻のFifi Youngが参加して更に人気のグループになった。ヨンも美しい女優でNyooが台本を書いた。 中でもSaidjah、R.A. Soemiatie、 Barisan TengkorakやSingapore After Midnightが有名である。Dardanellaの女優の中にもRiboetの名前があり、裁判で争った。最終的にはNjooとFifiがDardanellaに移るが程なく両者とも長くはなかtった。この時代は又クロンチョンの歴史や日本軍政とも絡んで触れることがあろう。

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2008年8月11日 (月)

Nastion邸も博物館へ

Teuke Umar通りの変わった建物があったのを思い出し出かけてみたが、そういえばナスチオン大将の自宅もあったなと探していると前庭に何か塔を建てている家にぶつかった。彼の自宅は40番地であると記憶していたのであるが覗き込むと迷彩服の兄ちゃんに誰何された。 尋ねてみるとやはりここがナスチオン大将の家でその銅像を建設中、自宅もミュージアムにするべく改装中であった。ナスチオン大将の略歴を記すと;
Abdul Haris Nasution は1918年北スマトラ、コタノパン生まれ、1938年先生を目指しバンドンの師範学校卒業したが、オランダの陸軍士官学校に入学、日本時代はバンドン市役所勤務し青年活動を行う 45年第3師団長、バンドン火の海事件を経て46年シリワンギ初代師団長の時代に領域福祉活動の芽がみられた。48年国軍副司令官、マデウン事件を力で制圧、国軍再編後の1948年12月のオランダの第二次侵攻のときはスデルマン最高司令官の下でジャワ方面軍司令官(スマトラ方面司令官はヒダヤット)、ゲリラ戦を指導。50年陸軍参謀長を勤めたが52年10月17日事件に関連し解任される、55年に陸軍参謀長に再任、59年国防相兼陸軍参謀長、60年国防相兼国軍副司令官、62年国防治安相兼参謀総長、63年国防治安調整相兼参謀総長、G30Sでは命拾いするもスハルトの機敏・才知にリードを許す。66年から72年まで暫定国民協議会の議長、最終スハルトとの争いに敗れ軍籍も退任、政治的浮浪となる。以降は80年のPetisi50などスハルト批判活動をしていたが 1993年和解に至り2000年になくなる。1997年に元帥に叙される。キラビヤカナ経歴であるが53歳で定年前軍籍離脱、失意の人生の方が長いという哀れさも感じる。

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2008年8月10日 (日)

首都の歴史上の建物の崩壊

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首都政庁は古い建物の保全をコミットしているがそれは1999年首都条例第9号で規定による。284件の古い建物を文化遺跡(Cagar Budaya)に指定したが10件のみが首都政府の所有であり、残りは個人或いは国営企業の所有に属する。その中でそれらの所有者に保存リノベをお願いしているのは7件のみで、それはCipta Niaga、Kerta Niaga、Bank Mandiriの二つの建物、Jasindo の二つの建物それにJakarta Lloyd.だけである。首都政庁の所有物件はファタヒラ博物館、ワヤン博物館、海洋博物館及び芸術劇場があるそうで、成るほDKI所有物件の保存建築は進んでいるが国営企業保有物件はマンデリ銀行を除いて進んでいないようである。
上記の基準は何処にあるのかは知らないが放置物件は7件のみではない。今までにこのブログに登場したのはSamudraの事務所、Kwitangの気象庁、Mantangの憲兵事務所、Kunirの保険会社事務所及び前回のEskomptobanki-BBDと間違ったCipta Niagaがあり次に考えているのはDasaatの事務所である。
写真は2月ごろ崩壊したSamdura、大富豪であるがご主人はその前に亡くなった為か未だこの状態である。

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2008年8月 9日 (土)

オランダ香料貿易時代の大帆船

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15世紀の大航海時代から17世紀の香料貿易の時代にかけた帆船による航海は、大きなリスクがあり、その惨状の例はオランダのバタヴィア号に尽きるかもしれない。Mike Dash著の鈴木主税訳の「バタビア号の惨劇」によると、オランダと東インドとの香料貿易は目的地に達せず失敗したのは相当な割合に上り、航海の日数も東インドに到達するのに9ケ月以内なら報奨金が出たというから押して知るべしである。(最短記録は4ケ月もあるが、平均時速は2.5マイル)、1628年就航のバタビア丸は1,200トン長さ160フイート、甲板4層、マスト3本、大砲30門、工費10万ギルダー(艤装のみで10億円か)、往きの積荷は都市・住宅用石材、レンガ及び大量の銀貨である。乗船者340名、食糧等備蓄品数千樽、調理用薪水、生きた豚、弾薬等積み込んだ。距離は1.5万マイルで地球の半周以上を風任せの航海でどよんだ船底、汚泥にまみれ、病害虫と闘い、汚水・腐乱の食事であった水兵たちの生活は地獄としか言いようがない。青い空と海原を行く勇壮な絵画を見ると心躍るが当時はそのようなものであったのであろう。蒸気船が現れるのは1807年である。
写真は関係ないが、「ビジュアルでわかる船と海運のはなし」も参考になる。(拓海広志著 sailing_hellosea@chime.ocn.ne.jp)

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2008年8月 8日 (金)

Rini 国産単車に続き衛星放送事業も

元商工大臣であったリニ・スワンディ(Rini Mariani Soemarno Soewandi)さんが北京オリンピックを機にスポーツ中心の衛星放送を開始する。来年1月までには50チャンネルまで増やす予定だと親族のオンキスマルノ社長は述べている。リニは煌びやか成功の職歴を持ち、最近ではインドネシア・ローカルブランドの2輪車カンゼンを軌道に乗せている。彼女は1958年USAメリーランド生まれでマサチューセッツ・Wellesly Collegeまで海外の教育を受けて、帰国後は財務省の研修、24歳から7年Citibank勤務、スルヤジャディにスカウトされアストラインターの財務担当取締役から社長まで上り詰めている。その間にユニバーサル銀行・ユナイテッド・トラクター社・ジャカルタ証券取引所・アストラアルゴの役員を務める傍ら、金融危機後のアストラの再生に手腕を振るった。2001年メガワティ内閣で商工大臣に抜擢されている。リニさんもプリブミの誇りである。

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2008年8月 7日 (木)

BRI プリブミの誇り

国立銀行についてのブログを相当記載したが、金融危機を一人乗り越え昔の名前のまま営業を続けているBRIについてはオランダの銀行を接収した訳でもないので、最後になってしまった。
BRI、バンク・ラキャット・インドネシアは1895年にプルオケルトの知事Raden Arya Wiriatmadjaが創設したそうである。
国営銀行になったのはBNIと同じ独立後であるが当初はプリアイがお金を出し合って庶民に貸付したものらしく銀行といえるかは疑問が残るが、それが今のBRIであるということはプリブミの事業で唯一の成功物語かもしれない。シナールハラパン誌の頭取のインタービューで庶民をCengkeraman Lintah Darat(吸血鬼??)から救うとの表現があったが誰がLintah(蛭)であったのであろうか

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2008年8月 6日 (水)

Gambirガンビールの謂われ

モナス広場は昔Lapangan Ganbirとも言われたが今や思い出か歴史だけになり辛うじてKelurahanの名前と駅の名前に残っている。このGambir地区は北はベテラン通り、西はマジャパヒット通り、南はクブンシリー通り、東はチリウン河の一帯である。
昔の住民がそこに多くのGambirと言う名前のつる草(或いは木)が生えていたからとの謂れがある。1658年Anthony Paviljongと言う人が中国人に賃貸していたという史実もあるようで古い絵に牛を狩る農民の絵を見たことがある。
加納啓良先生によるとGambirの謂れに別の節もあり、それに拠るとダーンデルス提督の下で此処を開発したフランス人の名前から来ているとのことである。1809年ダーンデルス総督がコタから政府の中心を移して以来オランダ時代はウエルトフレーデンとなり広場自体はコーニクスプレインの名前であり、日本時代はイカダ広場と呼ばれた。イカダは何も筏ではなくIkatan Atlet Djakarta(ジャカルタ体操連盟)の略でオランダ時代のBataviaasche Sport Club (BSC)やBatavia Buitenzorg Wedloop Societet (BBWS).の流れで市民のスポーツの場であったようである。その後も夜店や博覧会などもも世をされた時代はあったが今はモナスに一回上った後は行くこともなくなった。


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2008年8月 5日 (火)

Cipta Niagaの建物似の元BDNコタ本店

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7月30日のブログでJl. Bankの昔のBDNだとして写真をアップロードしたが左手のBIの建物がBIの物でなくBank Megaの看板もあったので間違いではないかと確かめに行ってきた。 やっぱりそれは他の建物であることが判明、急ぎ修正した。間違った建物には何の表示もなく、トッカン・パルキールに聞いたところ、Cipta Niagaだと答えて呉れた。Cipata Niagaならオランダの商社の国有化した後の名前であろう。ファタヒラー広場のカフェ・バタビアに入る所で左手に見る角度である。その運河沿いは2本の塔のある大きな建物があるがその裏手になる、繋がった一連の建物である。塔のある方もCIPTAのものだと言うのでその場では納得し帰ってきたがトッカンの言うことだから又間違いかと心配である。これも又確認に行かねばなるまい。

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2008年8月 4日 (月)

オランダ企業国有化の背景

ニューギニア問題
旧オランダ支配地域からの独立と言うこと、リンガルジャティ協定でも連邦共和国の一部として認められていたものがハーグ円卓会議で一転論争の一つとなり一旦1年後再交渉にたなあげ、
49年12月27日主権移譲、7ケ月後には共和国への合邦が進み、オランダは裏切られた感情で国内の反対が強く再交渉は平行線をたどった。3年の討議は実を結ばず国連の有用性に着目したアリ首相は国連提訴へ踏み切った。国連の審議は最終過半数は得たものの国家問題に必要な2/3には達せず否決となった(その後も1957年まで4回提起・否決、日本は賛成、米国は中立投票)。この後インドネシアの取る道は1956年にはハーグ協定の破棄(連合破棄・債務取り消し)、1957年対蘭強行措置(蘭人48,000人の国外退去・領事館閉鎖、蘭語新聞雑誌の禁止等)、1958年オランダ企業253社の国有化(事後承認的)1960年外交関係断絶、1961年武力解決発動へと進んだ。その間国連審議で米国の賛成を得られなかったインドネシアは賛成するソ連に近づき軍事を増強した。1961年西イリアン開放三大司令(トリコラ)を発しスハルト少将のマンダラ司令部設置。 アルー海戦では敗北を喫したが両国の緊張が高まり、ウタント事務総長の仲介(失敗)のあと、アメリカの仲介によりパプアを国連施政下に置き2年後にインドネシアへ施政権を移しその後住民選挙で決定さす自由を与えるというものであった。これに対しオランダはパプアの自決権が薄れるとして反対するもインドネシアはメラウケにも降下部隊を派遣、西側からの軍事支援が得られぬオランダは譲歩し1962年7月戦争を回避し合意に達した。1963年1月1日の一番鳥の啼く前に西イリアンを解決すると豪語していたスカルノは1962年8月の独立宣言記念日の演説で高らかに植民地主義オランダへの勝利の年を宣言した。

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2008年8月 3日 (日)

Nationale Handelsbank の最初と最後

Mandiri Bankのコタ支店はBBDでありその前はNationale Handelsbankであったが、これの前身はNederlandsch-Indische Handelsbank(NHB)である。
1863年Nederlandsch-Indische Handelsbankが設立され、1920年代までにはアジアの各地に支店網を張り巡らした。1950年Nationale Handelsbankと改称し、この頃の国内支店はJava ではBandung、Banjuwangi、Gambir (Weltevreden)、Malang、 Probolinggo、Semarang、Surabaya、Tegal、Cirebon、Pasuruan、Cilacap、Pekalongan がありSumatraでは Jambi、Medan、Palembang、Telok-Betun、ボルネオでは Banjarmasin、Pontianak、Makassar、セレベスでは Manado、Tanjong Balei、Gorontaloがあった。又1953年カナダにMercantile Bank を設立した。
1959年インドネシア国内資産は国有化されBank Umum Negaraとなった。
本体の方の動きはバンコク、香港、シンガポール、東京支店をChase Manhattan Bank.に売却、マーカンタイルバンクはCitibankに売却、最終AMRO Bank(Amsterdam-Rotterdam 現在はANB AMRO)に吸収された。

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2008年8月 1日 (金)

FPI等に手こずるインドネシアのお手並み 

7月29日世界のムスリムリーダーがジャカルタに集まった。 世界の各地の民族的衝突の解決に向けてイスラムの役割を討議するもので世界64ケ国からのムスリムの代表350人が集まるという。
会議名はICIS(国際イスラム学者会議)でインドネシアのナフダトゥール・ウラマが主催する。
1ケ月後には今度はムハマディアーが主催する「世界平和フォーラム」が行われる。
そうしたジャカルタの足元では狂信的ムスリムが暴れている。
先週末ムスリム住民がプロテスタント教系学校(STT SETIA)を襲撃し265名の学生が負傷した。
ここはKampung Puloで1987年からこの学校はある
背後にムスリム狂信者の煽動があった模様で以前からここの学校の教会は建設の許可を得てないとしてずっと反対していたもので、昨年もFPIが学校の寮拡大に反対し襲撃した。煽動イマムは学生がムスリムのバイクをと売ろうとしたなどとの噂を流し、学生側もスリッパを家に投げたり、ムスリムもモロトフカクテルを投げたりの喧嘩が続いていた。
欧米主導では地球的問題は解決できなくなってきた。一度ひがみ根性のイスラムに地球の将来を任せると称してSustainable Globeの青写真を書かせてみたらどうだろう。今日からジャカルタ入りをするが、お墨付きを貰ったと誤解しているFPTが暴れる季節だと思うと気が滅入る。

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