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2008年8月11日 (月)

Nastion邸も博物館へ

Teuke Umar通りの変わった建物があったのを思い出し出かけてみたが、そういえばナスチオン大将の自宅もあったなと探していると前庭に何か塔を建てている家にぶつかった。彼の自宅は40番地であると記憶していたのであるが覗き込むと迷彩服の兄ちゃんに誰何された。 尋ねてみるとやはりここがナスチオン大将の家でその銅像を建設中、自宅もミュージアムにするべく改装中であった。ナスチオン大将の略歴を記すと;
Abdul Haris Nasution は1918年北スマトラ、コタノパン生まれ、1938年先生を目指しバンドンの師範学校卒業したが、オランダの陸軍士官学校に入学、日本時代はバンドン市役所勤務し青年活動を行う 45年第3師団長、バンドン火の海事件を経て46年シリワンギ初代師団長の時代に領域福祉活動の芽がみられた。48年国軍副司令官、マデウン事件を力で制圧、国軍再編後の1948年12月のオランダの第二次侵攻のときはスデルマン最高司令官の下でジャワ方面軍司令官(スマトラ方面司令官はヒダヤット)、ゲリラ戦を指導。50年陸軍参謀長を勤めたが52年10月17日事件に関連し解任される、55年に陸軍参謀長に再任、59年国防相兼陸軍参謀長、60年国防相兼国軍副司令官、62年国防治安相兼参謀総長、63年国防治安調整相兼参謀総長、G30Sでは命拾いするもスハルトの機敏・才知にリードを許す。66年から72年まで暫定国民協議会の議長、最終スハルトとの争いに敗れ軍籍も退任、政治的浮浪となる。以降は80年のPetisi50などスハルト批判活動をしていたが 1993年和解に至り2000年になくなる。1997年に元帥に叙される。キラビヤカナ経歴であるが53歳で定年前軍籍離脱、失意の人生の方が長いという哀れさも感じる。

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