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2008年8月21日 (木)

バタヴィア号の惨劇と救出劇

8月9日にバタビア号の惨劇を紹介したがどのような惨劇であったか、買い抓んで見たい。
17世紀初頭、東インドへの航海ルートは季節風を受ける南回帰線ルートが発見されたが、オーストラリアの西側にはサンゴ礁の島々がありバタビア号はこれに乗り上げ沈没、幸い予備艇があり乗員300名強の内250名程度が近くのサンゴ礁の島に別れて窮乏生活、1628年10月に出航、沈没は翌年6月最終救助を受けるのは9月であるが沈没までの死亡者は50名で残りの殆どが救助を受けられる計算になるのであるが、この中に反社会的性格異常(サイコパスOr異端者)の男が反乱団を結成、120人にも及ぶ無差別殺人を繰り広げる。飢餓死亡を計算し他の島に送り出された約50名は防衛団として団結、その島に水を発見、生き延び反乱団との戦いにも勝利し首謀者を確保した。先に予備艇で救出応援を求めてジャワに向かった船団長以下50名も1,000マイルを11日間で7月にはバタビアに到着する。応援の帆船はバタビア号沈没点を探し求め9月には発見するもその7月~8月で殺人の惨劇は終わっており、残存反乱軍との最後の戦いの寸前に救助船が現れたのである。反乱軍は救助船乗っ取りを図るが防衛団のためあわやの所で阻止できた。反乱団約40名は残酷な拷問と車轢きや獄門で処刑される。これらの話は航海日誌、尋問・裁判記録、証言で克明に事実化されているが肝心のバタビア号残滓の発見は1970年で今では豪州フリーマントルの博物館に展示されているそうだ。
1年にもなる船上・無人島での窮乏生活と死の恐怖、中世が残る残酷な時代の話の数々は何度も本を畳んでしまった。

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