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2008年8月 4日 (月)

オランダ企業国有化の背景

ニューギニア問題
旧オランダ支配地域からの独立と言うこと、リンガルジャティ協定でも連邦共和国の一部として認められていたものがハーグ円卓会議で一転論争の一つとなり一旦1年後再交渉にたなあげ、
49年12月27日主権移譲、7ケ月後には共和国への合邦が進み、オランダは裏切られた感情で国内の反対が強く再交渉は平行線をたどった。3年の討議は実を結ばず国連の有用性に着目したアリ首相は国連提訴へ踏み切った。国連の審議は最終過半数は得たものの国家問題に必要な2/3には達せず否決となった(その後も1957年まで4回提起・否決、日本は賛成、米国は中立投票)。この後インドネシアの取る道は1956年にはハーグ協定の破棄(連合破棄・債務取り消し)、1957年対蘭強行措置(蘭人48,000人の国外退去・領事館閉鎖、蘭語新聞雑誌の禁止等)、1958年オランダ企業253社の国有化(事後承認的)1960年外交関係断絶、1961年武力解決発動へと進んだ。その間国連審議で米国の賛成を得られなかったインドネシアは賛成するソ連に近づき軍事を増強した。1961年西イリアン開放三大司令(トリコラ)を発しスハルト少将のマンダラ司令部設置。 アルー海戦では敗北を喫したが両国の緊張が高まり、ウタント事務総長の仲介(失敗)のあと、アメリカの仲介によりパプアを国連施政下に置き2年後にインドネシアへ施政権を移しその後住民選挙で決定さす自由を与えるというものであった。これに対しオランダはパプアの自決権が薄れるとして反対するもインドネシアはメラウケにも降下部隊を派遣、西側からの軍事支援が得られぬオランダは譲歩し1962年7月戦争を回避し合意に達した。1963年1月1日の一番鳥の啼く前に西イリアンを解決すると豪語していたスカルノは1962年8月の独立宣言記念日の演説で高らかに植民地主義オランダへの勝利の年を宣言した。

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