« Nastion邸も博物館へ | トップページ | Jl. BankのEscomptobank »

2008年8月12日 (火)

PrasastiのMiss Riboetの頃

Riboet_2
何かの中でこの名前に行き当たっていたので、 昔、プラサスティ墓石記念公園で写真を撮っていた。墓石には1900年生まれ1965年亡くなったとあり、それ程古いものではないのに何故かひびが何条にも入っており字がはっきりとは読めない。 彼女は戦前の歌姫である。 インドネシアの謂わば近代的舞台ショーの初期に活躍した人でその前のスタンブールやバンサワンの流れに劇を取り入れたトニールからサンジワラといわれる時代に差し掛かっている。1925年と1926年に二つのグループが生まれている。一つはこのMiss Riboet Orionでバタビアに、後一つがスラバヤのDardanellaで、二つは激しく競争しジャワ巡業で駆け巡った。
ORIONの座長はTio Tek Djien Juniorでプリマドンナが彼の妻Riboet、つまり二人は華人であった。 その後記者家業のNjoo Cheong Seng とその妻のFifi Youngが参加して更に人気のグループになった。ヨンも美しい女優でNyooが台本を書いた。 中でもSaidjah、R.A. Soemiatie、 Barisan TengkorakやSingapore After Midnightが有名である。Dardanellaの女優の中にもRiboetの名前があり、裁判で争った。最終的にはNjooとFifiがDardanellaに移るが程なく両者とも長くはなかtった。この時代は又クロンチョンの歴史や日本軍政とも絡んで触れることがあろう。

|

« Nastion邸も博物館へ | トップページ | Jl. BankのEscomptobank »

インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: PrasastiのMiss Riboetの頃:

« Nastion邸も博物館へ | トップページ | Jl. BankのEscomptobank »