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2008年10月 5日 (日)

日本占領とオランダ人収容

ジャカルタのShahab氏のTempo Doeloeシリーズに日本占領期の収容所(Kamp internir)の話がある。
日本軍はインドネシアに上陸占領するや当時いたオランダ人は10万人の規模であった。数百年も一等国のステータスを誇示していたオランダは大日本の軍隊に逮捕され悲惨な目にあった。Kemakmuran Asiaアジアの繁栄のスローガンの下、ドイツ人以外の欧米人の運命は収容所で終了した。男女を分けたのはいいが却って同性愛がはびこった。それ以上に看守と女性収容者の間にも性関係は起こった。又あるオランダ女性は書いている。日本の憲兵隊は私の父を捕らまえ叔父を証人として焼いた椰子殻の火で赤い棒を付きたてた。その他長い間父の顔にスタンプを押した。
Grodok_112
ジャカルタではSluiweg(現在マトラマン)の契約苦力の宿泊所には3,000人規模のオランダ人が収容された。その他Jl Jagamonyet (現在 Jl Suryopranoto)の元KNIL司令本部にはマルク兵士が、又ジャティネガラのBukit Duriや現在HarcoとなっているGlodok収容所(英豪人主体)やGrogolの病院、タンジュンプリオクのKojaやカンプン・マカッサールの収容所が主なものであった。
日本への降伏で長いオランダの占領は終わったはずであったが独立宣言後直ぐ植民地軍NICA (Koninklijk Nederlands Indisch Lager)を展開させインドネシア民衆の厳しい抵抗を受けることになる。彼らは未だ植民地として継続できると思っていたに違いない。と言うのはオランダ人用住宅地クバヨランバルーが建設され1948年に完成したのである。
日本は1899年に東インド在住の日本人に欧州人と同じ法的待遇を与えるとの条約をオランダと締結していた。1900人の日本人のうち500人は遊興関係であった。VOCの初めにも出島からの多くの遊女がいてクーン総督の後釜のJacques Specx総督もSaraと言う名の日本女性との同棲の結果の娘を持っていたという。
第2次世界大戦の始まる1940年日本人は急激に増加し8,000人となっていた。かれらは一般には静かに生活していたが多くの人は日本上陸時短期間に勝利した日本の占領に彼らが貢献したと見ている。
1941年7月、オランダは未だ中立を守っていたが、日本が南インドシナに侵略するや経済封鎖を実施、1942年1月に日本軍(Balatentara Dai Nippon)が蘭領インドに武士道精神で侵略するや2ケ月で1942年3月8日KNILは打ちのめされた(bertekuk lutut)
これは2004年10月12日の同氏の寄稿であるが、別のリポートではCipinang、Cideng、Raden Saleh、Bidaracina、Unie Kampung (Tanjung Priok) Batalyon Xが書き足されている。
写真はグロドックの裏。何時ぞやGlodokの収容所を写真に取りに行っ時のものだ。ここは収容所と言うよりオランダ時代からの刑務所で20世紀の初めハッタもそれ以前のマルンダも入れられているから相当古い。写真を撮ろうと思ったのはここで日本軍人が逆に収容され戦犯として銃殺に処せられたことが頭にあったからである。無念の銃殺については「桜チャンネル」に詳しい。

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