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2008年10月 3日 (金)

Rafflesとライデン

又プラサスティ墓碑公園であるが、幾つかの墓名をメモして出かけ、その時ライデンの名前もメモしてあったので、安心していたのであるが、今日花崎泰雄氏のホームペイジでライデン(レイデンとも)に再会し、アルバムをチェックすると写してないことがわかった。あの時Soe Hok GieやDr. Brandesの墓は何とか撮ったが案内人が蚊に食われ、嫌がられたのが失敗の原因である。004olivia1
ジョン・キャスパー・ライデンはラッフルズの無二の友人であり、一緒にバタビアにやって来てラッフルズの夫人オリビア共々この地で果て、この墓碑公園に埋葬されているのだ。
二人の出会いは1805年でラッフルズは既にペナンの東インド会社に赴任していた。偶々マドラスの東インド会社の医師であり、詩人でもあるライデンはペナンに転地療養に来ていたが、ラッフルズ夫人のオリビアはライデンを献身的に看護し、三人はお互いを敬愛する中となった。オリビアは35歳、ライデン30歳、ラッフルズ25歳という大人の情愛に包まれていたと言える。ラッフルズのジャワ侵攻案をライデンが強く押し、ミントー総督の決断で1811年ジャワ侵攻がなったが、ライデンはジャワに付くや間もなく病に倒れ、ラッフルズがこの地に埋葬した。オリビアもその後献身的にラッフルズに仕えながら1814年になくなり、ラッフルズがライデンの墓の横に埋葬した。ラッフルズの後ろ盾ミントー総督も既に無くラッフルズはこのとき以降最初の人生の大きな転機を迎えることとなる。写真も花崎氏より無断拝借、手前がレイデンの墓である。1817年ラッフルズは31歳のソフイアと再婚したが彼女はラッフルズ伝を記すが、オリビアやライデンについては既述は少ない。ラッフルズのオリビアに対する愛への嫉妬の為とも感じるが、オリビアとラッフルズの生活9年と同じ9年後、ラッフルズは45歳で往くことになる。

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