Prapatanのマンションと手工芸Dekranas
プラパタンの本屋GenungAgungの前は海兵隊であるがその海兵隊とチリウン河の間にDewan Kerajinan Nasionalと書かれた看板が立つ邸宅がある。
住所はPrapatan No.42、ここを1858年に訪れたAugust Willem Philip Weitzelは“1858年のバタビア:首都の映像スケッチ”と言う著作を著し次のように述べている。
“我々はKoningsplein(現在のモナス)からプラパタンの橋にやって来た。チリウン河がここウェルトフレーデンからノルトウワイクへ曲がりくねっていく。この左手に美しい別荘が立ち並び中でも左手の大きな”Kwitang住宅“がある。ココナツの葉が和やかな風にゆっくり上下して、多くの果樹の濃い緑の葉の中に青い雲が巻き上がる”
WeizerはDen Haagに1816年に生まれたドイツ系の男で1846年に第10歩兵連隊中尉、1857にウイレム軍事政権でナイトに叙されランプンの反乱鎮圧に参加。1873年でデフリース内閣の軍事大臣である。1896年中将となっていたが敗北している。
この邸宅は正面ギャラリーに双つの柱が8本、ドアが4つ、後ろには5つのドア窓、内部の間仕切りのドアーが11ありその上部のに取り付けられた結果20もある明り取りファンライトが美しい。
建設は1850年頃でオランダ人が住んでいたが独立後1950年に政府が取得した。何時からかは知らないがこの邸宅は第2代の副大統領のハメンクブオノ9世の住宅となり、後ろの建物は1980年に設立された政府の全国手工芸品協議会Dewan Kerajinan Nasional (DEKRANAS)が使用していた。スハルト失脚後、アクバール・タンジュン官房長の時代にこの邸宅を明け渡す話が出て、ハメンクブオノIX世が亡くなった後の40日経たないうちに、息子X世達はここを政府に明け渡した。Dekranasはスハルトの長女のTututが理事長をやっていたが今は大統領夫人のようである。3月6日がDekranasの日。実際の手工芸品に興味があればIndonesia-handicraft.comに沢山出ている。
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