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2009年3月 9日 (月)

Husein Sastranegara 飛行場

バンドンにHusein Sastranegaraと言う名前の飛行場がある。スカルノハッタ飛行場にダーン・モゴット通りからアクセスする道に付けられた名前もHusein Sastranegaraである。かれはインドネシアの空軍の創設に貢献した若き英雄である。バンドンのこの飛行場は1921年オランダがこの地CibeureumのAndir地区にオランダ空軍用に建設したものであるが、1949年円卓会議後この飛行場PAU Andirはオランダから移譲された最初の空軍施設となった。1950年6月インドネシア側は、スルヤダルマ参謀長 配下の空軍少佐Wiwiko Soeponoが受領した。Huseinはパラヒアンガンの貴族の出身で出生は1919年チアンジュールである。父親は蘭印政庁の役人で14人の子供の8人目であった。彼は先ずバンドンのオランダ系ELSに入学、更にHBSジャカルタを経てTHS(現在のITB大学)に進んだ。1939年にオランダ本国がドイツに占領されたときオランダはインドネシア青年に空軍での訓練を始め、HuseinもKalijatiの空軍学校に転校した。
第1期生ではHuseinの他Iganatius Adisutijiptoなど5名がライセンスを受けた。
1941年にはスカブミの警察学校に移り、日本占領時は警部補として警察行政を担当した。
独立宣言が発せられると彼はボゴールのDidi Kartasasmitaが編成したBKRの一つの司令官となったが上司との折り合いからバンドンに移りSuryadi Suryadarma (KSAU)から呼び出されPAU Andirを担当した。残念ながら十分仕事をする前にPAU Andirはイギリス軍命令による日本軍に支配された。Huseinはジョグジャの新制TKRに参加、1946年4月9日TKR空軍は共和国空軍(AURI)に変更されHuseinは空軍学校のインストラクターとともに作戦将校に就任した。その頃、Huseinは日本が残した破壊された飛行機“中連”や“中級”、爆撃機“隼”を修理し使用準備していた。5月にはジョクジャのMaguwo飛行場からセランのGorda飛行場に飛行した。1946年9月HuseinはMalangに行くシャフリル首相の為中級機の試験飛行をしていたときエンジンが故障し墜落炎上した。
彼の死亡の13日前Tarsono Rujito飛行士の埋葬のとき中連機を駆って花を撒いたばかりであった。彼は少佐から大佐に昇進、ジョグジャのSemaki英雄墓地に埋葬された。
Andir飛行場は1952年に彼の功績を記念して彼の名前が付けられた。若干27歳の若き命であった。


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