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2009年3月の投稿

2009年3月31日 (火)

マドラサー・アスラマ・プサントレン

先日、高校を調べていたときに省略形のMAと言うのがあったが、これはイスラム系の学校 マドラサMadrasah Aliyahである。Aliyahとは高校のことでジャカルタには公立MA Negeriが14ある。
似たものにPesantrenと言うものがあるがマドラサでコーラン読誦を学んだものが更にイスラム教義書キタブを学び指導者になろうとするものが行く寄宿制の学校である。此処では一人の指導者キアイがおり生徒はサントリと呼ばれ自給自足を旨とした生活を送っている。卒業はなく各地のプサントレンを遍歴する事も多い。寄宿舎アスラマを持ちポンドク・プサントレンとも言う。マラドーサやアスマラと間違いやすい。
プサントレンは規模もまちまちであるが学校組織を持つものもあり、学校組織のマドラーサがプサントレンを持つ事もあり全国で1万を数えるという。インドネシア一の宗教団体NUは中部東ジャワのこれらプサントレンを基盤としている。プサントレンでの教育の基本原則は①神への奉仕、② 布教、③ 簡素な生活、④ 自己救済、⑤ 自由思考である。と中村敦夫氏の著作にあった。

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2009年3月30日 (月)

Kemang VillageもAncolも着々と

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クバヨランからクマンに行く時プラパンチャで左に曲がらず真っ直ぐ下るとアパート Griya Prapancaの先に塀で囲んだ地区及びモール的な建物があったので寄ってみた。
モール風建物の中は住宅の展示販売しかやっておらず写真だけ取ってきたが、此処は一寸前にインドネシア情報ラインで読んだことがあるスーパーブロックKemang Villageで未だ進行中の案件であった。Lippoグループが手がける案件でそう言えば管理棟のデザインはSt.Moritzを思い出させる。構想ではこのアンタサリ通りに面する12haの土地にモール、アパート3棟、Pelita Harapan学校、Aryaduta Hotel、それにお得意のSiloam 病院などを建てるものであるが、モール・アパート位はやらざるを得ないだろうが、夢の住宅地にこのまま進めるのであろうか。この地区には昔お墓があったり、即席野外フードセンターなども記憶になるが、何処にどれだけのものを作ろうと渋滞に拍車をかけるだけである。昨日のジャカルタTVでは世界同時不況何処吹く風と、グリーンビレッジやアンチョール マリーナ・コーストやスルポンテラスなど高級住宅地の購買を煽っていた。

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2009年3月29日 (日)

地球時間2009キャンペーン

土曜の夜、9時半に街の灯りを見ていたが微かに今まで消していたビルのネオンサインなどが点灯されたようだ。
今日は地球温暖化防止のキャンペーン運動である消灯運動で8時半から1時間、市民が出来る範囲で消灯することのようである。世界野性保存基金WWFが提唱するこの地球時間2009 (Earth Hour 2009)キャンペーンにジャカルタ市が参加し市民の意識向上を願っている。
幾つかのホテルやビルが賛同して参加しているがThe Grand Hyatt Jakartaも外部の照明を1時間消すことにしたそうだ。Sheraton Bandara Hotel (Soekarno-Hatta)も消灯やその他の省エネ手段をとると発表している。市ではモナス、HIのサークル、市役所、若人の塔、アルジュナ噴水を対象にしている。
観察していたのであるが、高速の照明が消えていたのが付いたように見えたがそんなはずはないだろう。錯覚だと思う。

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2009年3月28日 (土)

Situ Gintungダムの決壊で200人以上死亡

金曜日の早朝決壊したダムによる死者の捜索は土曜日夕刻も続いて又明日に持ち越すようだ。死者は99名、未だ行方不明者は126名、全壊住宅は318戸。ジャカルタの南、行政的にはタンゲランに属するこの地区にこんな大きなダムがあるとは知らなかった。湖畔の西側にISCI国際スポーツクラブがあるので知っている人は知っているようだが。
ジャカルタには大きな河川が13ほどあり全て南のボゴール山地から北の海に流れている。このダムはPesanggrahan河の流域の調整池のようであるが、南北直径1kmほどもあるダムでその北壁が、早朝のぐっすり眠っている時刻午前2時に崩れた。濁流は土砂流となり家々を押し流し、低地は未だ洪水状態で捜索に時間が掛かっている。ここの地区はチプタート地区、ポンドクチャベ・チネレの北、チランダクの南にあたる。このダムはオランダ時代の1933年のものらしいので補修・警戒を怠った人災だ。

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2009年3月27日 (金)

アリ・サディキン元市長の家も将軍町に

ゲシュタプの犠牲者MT Haryono将軍の家を紹介したがこの一帯は多くの将軍の家がある。Menten_mar_15_023
パンチャシラ大学の正面入り口の前はこんもりと茂る木立の奥に見える邸宅が元ジャカルタ市長、故Ali Sadikinの自宅がある。丁度角地にもなっているところで2ケ所の入り口がある今時珍しいオープンな作りである。サディキン氏も確かに中将(海軍)であったので将軍の一人である。彼の事跡は昨年5月23日に書いたが、その2日前の21日に81歳の生涯を終えていた。彼のお墓はハッタ元副大統領と同じタナクシールの一般墓地にある。

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2009年3月25日 (水)

UKIの本部はここ

インドネシア独立後間もなく、クリスチアン中国人の中でインドネシア教会協議会(DGI)を設立の希望が出てきた。Halim_kaum_2008_mar_031
それは1950年のことで最初の活動として、実業界で必要とする人材の育成の為の教育が焦眉の的であった。そこで大学の設立を視点にしたProf. Dr. I.P. Simandjuntak MA.を長とする調査会が設置され、このリポートのもと、1953年にDGIとして大学設置の決定が下された。
インドネシアの教会はクリスチアンに募金を呼びかけられ早くもその年の10月に公式に発足した。
チャワンに教育・文学学部と経済学部でディポネゴロに本部が敷かれた。デポネゴロに法学部が設置されたのは1956年で医学部は1962年その他政治学部まで7学部編成である。

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2009年3月24日 (火)

Hotel Formule 1 チキニの大プール

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大企業の出張者でなく自営業者の業務来イには格安のホテルが出来ている。チョクロアミノにある方、昔メンテン・プラザを改造したHoterl Formule 1 Mentenは出来たての頃ブログで紹介したが、この第2号が Cikini Raya にオープンした。どちらも新品の清潔感あるれる設備である。デラックスとかスペリアとか区別もなく画一料金のようだ。(聞き方が悪かったからかも知れないが。。)MentenがRp320,000、Cikiniが Rp299,000である。 
Menten_mar_15_038_2
このCikini のホテルの場所はオランダ時代にプールがあり、多分その残骸の写真をとり、こちらもこのブログで紹介したが、このプールが生き返ったわけである。ヤンダルマディグループがオーナーでホテル運営はAccordである。ジャカルタ市のオランダ時代の遺産指定があったのかどうかは知らないが、昔の通りの形で堂々50m、このビジネスホテルには似つかないほど立派なプールである。ヤンダルマディグループに敬意を表したい。
Formule 1 Cikini、Cikini Raya No.75 TEL:3190-8188:良心料亭菊川およびSYURIに近い。
Formule 1 Menteng、H.O.S.Cokroaminoto 79 Tel:391-8007:Batik Kris及びHeroが便利
Accordグループ:Novotel、Mercure、Ibis Slipi、Tamarind、Arcadiaなど運営

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2009年3月23日 (月)

こんなところにもオランダの建物

旧財務省(EKUIN)の裏手に小さな1車線程度の道がワヒディンからブディウトモ通りに向かって、且つグヌン・サハリ通りの小さな川(グヌンサハリ通りのチリウン河に合流する)添いの道には幾つか目を引く建物がある。
De_bus_garden
写真がその一つである。既に誰も居らず放置されているが数年前は住んでいた。Odyssay氏によるとWoonhuizen型の家とMnetenスタイルの折衷と言う。この辺りは 昔は"Tuin Du Bus" (Du Bus Garden)と言うらしい。
正面の玄関は張り出したギャラリーになており、天蓋は竹製の蓋いでペディメントに唐草模様的なデザインで彫りぬいた板で覆っている。家主は賃貸に出していたようであるが古くなりテナントも去ったもよう。市の保護遺産指定の看板は見当たらなかった。 
Woonhuis(Oct.25, 07)はモナス南側の副大統領官邸が代表である。Du Bus(My Brog Jan.7,08)は19世紀中ごろのカトリックカセッドラルの基礎を作った総督である。
このブログ内でWoonhuisを検索するともう消え逝くWoonhuisの写真が見られる。


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2009年3月21日 (土)

Siswono Judo Husodo、私の住宅の恩人

1943年生まれのカリマンタン出身で大学はITBのシビルエンジニアリングを専攻した。学生時代、スカルノの末期に当たり学生行動隊の副指令を勤め、Dscn9850
卒業後1969年最初の事業会社Bangun Cipta Sarana社を設立し、WCの建築から始めたほどった。青年期はインドネシア青年実業家協会の会長を務めた(1973~1977年) 又不動産経営者協会会長(1983年~1986年)、スハルト時代は国民住宅担当国務大臣(1988~1993) 、移住森林開発大臣(1993~1998) と2期大臣を務めた。
2004年の大統領選では副大統領としてアミン・ライスとコンビを組むことを請われた。彼はKKN(汚職、癒着、贔屓)のない人物としての評価を確立してる。政治面では農業を代表する国会議員である傍らTry Sutrisno、Edi Sudradjat、 Sarwono Kusumaatmajaと統一正義党(PKPI)を設立している。
実業の世界ではBangun Cipta Sarana社とArtha Guna Cipta Sarana社 (Jakarta Design Center, Apartemen Semanggiを保有)、2007年、資産1.7億ドルでインドネシアでは78位の富豪となっているが現在では二輪車でサワンガンの羊牧場に出かけるなど、農夫を任じているとのこと。写真はアパートの横のJDCとBCSの本社。


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2009年3月18日 (水)

MT Haryono将軍の家 大樹を挟む家2軒

昔何気なく取っていた家がMT.Haryono将軍の家であることが判った。ディポネゴロ通りをサレンバ方向に向かい、チリウン河を越える手前で右に折れる小さな道があるが、この辺たりで尋ね尋ねた所が将軍の家である。
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昔取った写真は月刊誌「インドネシア企業経営」2004年11月号を飾っているが、今回取った写真よりこちらの方が綺麗なのでこちらをアップする。但し真ん中の大樹は今はない。道路名Prambanan通りがBorobudor通りに変わる角地にある。この通りは退役将軍達の家が並び、或いは政府高官の豪壮な建物が並んでいる。MT Haryonoの家の両隣も将軍で空軍Soeseno大将、陸軍Hairuru Basri将軍だった。維持に金が掛かるので売りに出している物件も2軒もある。高くて手が出ない。

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2009年3月17日 (火)

Ilham とTareq Habibieも金持ちに

あの元Habibi大統領ハビビの登場する記事が二つほど続いたが、彼には二人の息子がおり当然と言うが如く富豪にランクされている。今年46歳のイルハムと44歳のタレクである。実業家であるが、二人でインドネシア富豪の112位、1.05億ドルの資産家である。彼らはPT.Ilthabi Rekatamaの投資会社を保有し航空エンジニアリング、航空サービス、貿易、鉱業、オイル&ガスに投資している。

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2009年3月15日 (日)

Eijkman研究所は古くて新しい

先日のブログ、PSKD-1・UKIの丁度前、チプト・マングンクスモ病院の敷地内にあるので同病院の病院施設だと思っていた建物が実はアイクマン分子生物学研究所であることが判った。Eijkman_sep07_salemba
インドネシア語ではLembaga Biologi Molekul Eijkman。アイクマンといえば日本では鈴木梅太郎が発見したオリザニン(今のビタミン)の同時代のオランダ人研究者で当時アジアの風土病であった脚気の治療法として米ぬかであることを突き止めた人である。
アイクマン(Christiaan Eijkman)は1858年生まれで、1888年から1928年までバタビアの病理学研究所の所長で後ユトレヒト大学の教授となったが、バタビア時代に脚気ベリベリ(Beriberi)病の原因を米ぬかのない白米という事を突き詰め、1910年の鈴木梅太郎のオリザニン発見より先駆し、ノーベル賞を受けた人である。その少し遅れてイギリスのフンクがビタミンと名付けこちらが通用するようになっている。
この研究所は1945年からの記録はないが1965年に閉鎖に追い込まれていたもので、1993年ハビビ科学技術長官のイニシアティブで再開している。写真では一番左端の建物である。

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2009年3月14日 (土)

キャセイのサービス評価

2度目のキャセイによるジャカルタ行きである。前回ジャカルタから戻るとき香港トランジットでの手荷物再検査に1時間も時間を取られたが、日本から香港乗り継ぎには彼らのOne World Partnerで再検査しないものだと書いたが今回やはり検査は行われていたことがわかった。割りと空いていたので手早く終わった事がそう書かしめたのかも知れない。それにしても検査機は1台、小生が引っかかったのは鼻毛抜きで、見せたら照れながら通してくれた。
ジャカルタは機内乗り込む前にゲート毎でやっているが、香港は80番もあるゲートに数台の検査機である。込むはずである。乗り継ぎゲート案内もネオン表示がなく(1ケ所のみ)人力で係員が数人でやっていた。
日本からの到着は43番ゲートに出てくるのでJKT行きのゲート50番まではすぐである。
ジャカルタからの乗り継ぎのときは確か1番?から80番ゲートまで延々2km程度歩かされたが。。 
機内食はJALに比べ立派である。茶そばまであり、乗り継ぎで2回も食事がでる。乗務員もきびきびとサービスしてくれる。免税品を買ってまけてと言ってみたら本当にまけてくれた。
ジャカルタ行きは99%の乗車率で、ガラガラだった日本からの便を比べると国の若さの差を見るようであった。キャセイは4月からジャカルタ便を増やす。現在1日2便もある中、さらに週3便増便するとの事である。上海行きも増便で週3便にするとの事である。ただしA330機はごめん蒙りたい。最後尾にあるはずのお手洗いがなくて最後尾に座っている小生はトイレを探しすごすご帰る乗客を沢山みることになった。今回の出来上がり往復チケット代7.7万円のみ。

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2009年3月13日 (金)

Sintong Panjaitan元中将の出版記念

昨日スディルマン会館で出版記念会が催された。退役中将 Sintong Panjaitanを描く「幕領・ある兵士の軌跡」とでも言おうか520頁で著者はHendro Subrotoである。ABRIの歴史において重要な事件の中で民衆の生活と軍の職務を描いて忘却の中で消え去さろうとしている事件を記録したが、事件では間違いもあるがそれを非難するのでなく二度と起こらないよう教訓を学び取ることが重要だとSintongは挨拶した。オルデバルでは国民を分離する為多くの虚偽が横行したが、それは事実と異なっても何とでもいえるもので、それに巻き込まれなかったためこうして生きられた、これらの事件を正確に記録することが将来に真実な証拠を残せるものであると語った。彼は元ウダヤナ師団長で又ハビビ大統領の特別補佐官でもあった。
イベントは多くの警察の他に赤ベレーの特別憲兵隊が警護する中、ステイヨソ、アクバル・タンジュン、リザール・ラムリ、ワヒッド元大統領、憲法裁判長官マーフッド、国会法律委員会長トリメディア・パンジャイタンが来場、会場の献花にはイルハム・ハビビ、バクリー、国防研ムラディ、青年スポーツ国務大臣ダウルトなどがあった。
どんな事件がどう語られているかは知らないが、ハビビ側の補佐官を勤めたことで、ハビビの息子の名前が目を引いた。
追記(3月17日):ジャカルタ新聞によると、彼はコパスス(陸軍特殊部隊)司令官であった。この本は暴露本で特に5月暴動を一時放置したウイラント国軍司令官を非難又プラボオに関してはスハルト時代の活動家拉致の頻発事件は独断で行った行為であると批判している。

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2009年3月12日 (木)

PSKD-1/UKIは同住所

昨年4月24日のブログでデポネゴロ No.80の建物はインドネシアキリスト教大学(UKI)だと決め付けていたが此処にはSMAも同居しているはずだ。Pskd_uki_jan_31_086
中央正面玄関付近にUKIの幟がたなびいているが両サイドの一階建てが一つのGalleryで繋がっている。UKIの住所はJl. Dipenegoro No.86であり、PSKD-1はJl. Dipenegoro No.80である。PSKD(Perkumpulan Sekolah Kristen Djakarta)というのが「ジャカルタ キリスト教学校連盟」で、この他に NO.2 (Jl.Slamet Riyadi)やNo.3 (Jl. Kwini)、或いはPSKD Mandiri(Jl.Sam Ratulangi)等幾つかある。
この通りがSalemba Rayaに突き当たる所に堂々たる高層建物のUniv.Persada Indonesia(UPI-YAI)があり、又チキニ寄りのUniv. Bung Karnoと共にデモがない日は喧嘩をしているようだ。写真は左端のチリウン河沿いからその長さをアピールしたがガイセルス設計の正面のファサードは4月24日のブログを参照下さい。

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2009年3月11日 (水)

HSBCまでイスラム金融へ

最近イスラム金融のニュースが多い。この世界的金融危機の中、まさかと思う欧州からまで、救世主の如くもてはやされているようだ。Hsbc_sampoerna_004
フランスでは昨年秋口にはイスラム金融(以降Syariahと言おう)に関する税や会計基準の整備が行われている。この3月初めにはここジャカルタで世界イスラム経済フォーラムが行われたが、そのときのユドヨノ大統領の基調講演をジャカルタ新聞から引用すると次のようである。
「イスラム金融は世界の金融界でより主導的な役割を担うことができる。従来型の銀行と比べ、金融のメルトダウン(溶解)の影響はずっと少ない。というのは、シャリア(イスラム法)銀行は、有毒な資産やレバレッジが高いファンドへの投資に資金を委ねることはないということが明確で、より実体経済に即したものだからだ」更に大統領はインドネシアはシャリア金融のモデルとなり将来そのセンターになることを希望するとまで言った。
又2月にはインドネシアで初の個人向けシャリア債の発行があり1.7兆ルピアの資金調達に成功している
Susukはイスラム法に従い金利を付けられないので投資家は商品売買或いは不動産の賃貸収入からの所得から賄なわれる。インフレも沈静してきつつありsusukの需要は高まる。一方BI金利も下がる見込みである。大手専門銀行も3行あり又Unitを持つ銀行の中にHSBCもある。

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2009年3月10日 (火)

インドネシアの高校教育前史

2007年7月20日のブログ「オランダ時代のAMSは今はSMUN-1」の続きであるがこの学校のWeb等によると次のようにも纏める事ができる。
現在のBudi Utomo通り7番地にあるSMAN-1という学校は、オランダの時代、今で言う中学・高校レベルのAMSと言われた学校で名称は "Hogere Burger School - Prins Hendrik School (PHS)"、設立は1889年である。
Dutch_schoolsman
日本占領期はBudi Utomo No.7は日本軍の軍需品の備蓄倉庫として使われた。代わりに高等教育はチキニの現在のカニシウス高校の所にSMTとして設立された。
1946年最初のインドネシア政府の学校が設立されたが、最初は未だSMTの名前を使用し、その後SMOA (Sekolah Menengah Oemoem Atas)となった。現在のデポネゴロにあるPSKDの建物を使用していた。
1947年オランダの侵攻が始まると、この学校は解散しその活動は先生達の自宅で続いた。
1950年、インドネシアに主権が移譲された後、これらの自宅からこのBudi Utomo No. 7 に統合された。名前はSMA Kiblik(共和国SMA)からSMA 1-A とかSMA-ABCとかSMU-1 Jakartaとかの変遷を経て現在のSMAN-1 Jakartaとなったものである。
此処に出てくるカニシウス高校もディポネゴロのPSKDも名門であり三つの学校が絡まる歴史は補足説明がないと一寸不可解な気がする。

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2009年3月 9日 (月)

Husein Sastranegara 飛行場

バンドンにHusein Sastranegaraと言う名前の飛行場がある。スカルノハッタ飛行場にダーン・モゴット通りからアクセスする道に付けられた名前もHusein Sastranegaraである。かれはインドネシアの空軍の創設に貢献した若き英雄である。バンドンのこの飛行場は1921年オランダがこの地CibeureumのAndir地区にオランダ空軍用に建設したものであるが、1949年円卓会議後この飛行場PAU Andirはオランダから移譲された最初の空軍施設となった。1950年6月インドネシア側は、スルヤダルマ参謀長 配下の空軍少佐Wiwiko Soeponoが受領した。Huseinはパラヒアンガンの貴族の出身で出生は1919年チアンジュールである。父親は蘭印政庁の役人で14人の子供の8人目であった。彼は先ずバンドンのオランダ系ELSに入学、更にHBSジャカルタを経てTHS(現在のITB大学)に進んだ。1939年にオランダ本国がドイツに占領されたときオランダはインドネシア青年に空軍での訓練を始め、HuseinもKalijatiの空軍学校に転校した。
第1期生ではHuseinの他Iganatius Adisutijiptoなど5名がライセンスを受けた。
1941年にはスカブミの警察学校に移り、日本占領時は警部補として警察行政を担当した。
独立宣言が発せられると彼はボゴールのDidi Kartasasmitaが編成したBKRの一つの司令官となったが上司との折り合いからバンドンに移りSuryadi Suryadarma (KSAU)から呼び出されPAU Andirを担当した。残念ながら十分仕事をする前にPAU Andirはイギリス軍命令による日本軍に支配された。Huseinはジョグジャの新制TKRに参加、1946年4月9日TKR空軍は共和国空軍(AURI)に変更されHuseinは空軍学校のインストラクターとともに作戦将校に就任した。その頃、Huseinは日本が残した破壊された飛行機“中連”や“中級”、爆撃機“隼”を修理し使用準備していた。5月にはジョクジャのMaguwo飛行場からセランのGorda飛行場に飛行した。1946年9月HuseinはMalangに行くシャフリル首相の為中級機の試験飛行をしていたときエンジンが故障し墜落炎上した。
彼の死亡の13日前Tarsono Rujito飛行士の埋葬のとき中連機を駆って花を撒いたばかりであった。彼は少佐から大佐に昇進、ジョグジャのSemaki英雄墓地に埋葬された。
Andir飛行場は1952年に彼の功績を記念して彼の名前が付けられた。若干27歳の若き命であった。


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2009年3月 7日 (土)

ジャカルタの高等学校

工員採用の際、応募者の学歴に色々な学校の種別があることに気付くと思う。あるペイジにジャカルタの高等学校のリストがあったが685校あり、東京都の450校を凌ぐ数である。東京都には9つの国立、201の公立、240の私立高校がある。685の内訳は判らないが多分数が多いだけ規模が小さいのであろうか。分類分析してみると、種別にはSMAが425、SMKが92、STM が62、SMEAが52、MAが18でその他SMKK、SMPS、SMT、SMTA、SMF、SMIP、SAAと何と12種類ある。種類とまで行かないものがあるかも知れない。
この中でNegeriと名前が付くのがありこの合計が国立(公立)であり、他に政府省庁運営もあるから公立の数は東京都と変わらない。
わかる範囲で短縮語をもどすと;
SMA:Sekolah Menengah Atas
SMK:SM-Kejuruan 職業学校とでも? 専門学校
SMEA:SM-Ekonomi Atas さしずめ商業高校
STM:Sekolah Tinggi Menengah 工業高専か
SMKK: Sekolah Menengah Keterampilan Keluarga さしずめ女学園
高校進学率は5割と言うところであろう。

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2009年3月 6日 (金)

Kunstkringの変遷

Buddah Barの建物は20世紀初頭のオランダの建築家巨頭モーエンが設計した芸術院事務所で、90年代はトミースハルトが所有していたが、小生自身My Brogで建築博物館のアイデアを出したものである。Bopro_imigrasi_2
このブログ内検索でKunstkringをキーに検索すると5/9、2007と7/9,2008に出てくる。
その3回目として今回はMy Odyssayからその変遷を補充する。
この建物はネオロマネスク風であるがインドネシアの熱帯気候に合わしている。先行模範はジュアンダ通りにある生保のNillmij(7/28,08)やSemarangの鉄道NIS-Lawang Sewu(5/18,08)であった。
1914年に完成し、1階はなんとレストランであった。又1925年になんと最初の建築展示会をやっており、36年にはシャガール、ゴッホ、ピカソの展示会などもやっていた。その時代はジャカルタ市(Gemeente)が保有していたが、Madjlis
日本占領時代はミアイ(MIAI)が入っていた。写真はMy Odyssayから拝借した。屋根の所にMajelis Islam Aalah Indonesiaと書かれている。1950年代から1997年までがイミグラシ、トミーの手を経て2002年からDKI観光局の管理下にあった。なるほどスティヨソに近くなる。
昔は正面窓と階段窓に綺麗なステンドグラスがあり、それが盗難?に遭いMissing Stained Glassと騒がれていたそうだが市の手で返却されたであろうか。

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2009年3月 4日 (水)

最近の投資環境トピックス

*自動車部品、電器部品など11セクターの関税を政府負担、景気刺激策73.3兆ルピア承認得る
*UAE企業、東カリマンタンで鉄道建設9億ドル、バリクパパン製油所拡張にも伊藤忠と
*空港使用料値上げ、国際線、ジャカルタは10万ルピア→15万ルピアへ
*一夫多妻、事実婚、契約婚に罰則:婚姻裁判法案。
*今年の公務員給与14-15%引き上げ:政令。
*新会社法のCSR義務規定の無効求めてイ商工会議所が憲法裁に提訴。審理始まる
*BBC世論調査、日本の好感度が前年の74%から70%に低下。順位は3位から同率首位に。
*英バークレイズ、イ地場アキタ銀株99%取得完了。
*ホテル・インドネシアはケンピンスキーホテル再デビュー、ホテル・マリオット、メダンも
*日本、二国間通貨スワップを倍増$120億に合意、$15億サムライ債にJBIC保証
*輸出入銀が発足へ、 貿易金融強化で7月に
*ロータリークラブとライオンズクラブはユダヤ系? イスラム団体が禁止を求める。
*トミー再始動。バリでのリゾート開発再開。連続無罪判決。スハルト不正蓄財も責任不問
*国内の携帯電話加入者は124,865,871件に到達:情報通信相
*インフラ開発促進で政府が専門会社設立。ジャワ横断高速、首都空港鉄道
*イ初の個人向けイスラム国債、目標1.77兆ルピアを3.14倍上回る5.556兆ルピアの応募。

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輸入規制、保税、通関関連規定の変更

月刊誌「インドネシア企業経営」2009年2月号に出ている内容である。
その他インドネシアの会計・税務・会計等下記の記事の1月号($100 or RP800,000/月)が発売中である。詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。
今月の税務法令アップデート
今月の経済法令アップデート  
会計原則 117(投資不動産その2)
事業悪化納税者の09年度PPh25減額申請
輸入規制関連規定の変遷 2008年アップデート
会社の海外借り入れ
電子形態による税務申告手順
保税蔵置所向け輸入品の税関地区よりの搬出
会社設立・定款変更の承認申請等手順見直し
出国税の空港でのフローチャート
通関関連権限の委任
銀行リスト
企業の一般的会計基準その2
2008年国会可決法案と2009年審議予定法案
今月の労働関連トピックス
2009年1月度 下旬 政治・経済トピックス
2009年2月度 上・中旬 政治・経済トピックス
08年GDP速報、物価・貿易統計09年2月発表
「明日の街角38~春の木-椿と変革」 
「最近の気まぐれレビュー(9)」
「オランダ建築遺産 アール・デコ」
橋本政彦 「明日の街角38~春の木-椿と変革」 
柘海広志 「最近の気まぐれレビュー(9)」
西見恭平 「オランダ建築遺産 アール・デコ」
今月の月次経済指標 2007-2008トレンド
今月の会計・税務用換算レート
今月の為替株式金利の動き

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2009年3月 3日 (火)

Buddah Barには残念

MENTENのオランダ時代のKunstkringと言う由緒ある建物で、昔イミグレーション事務所として使われたのでイミグレーションオフイスと言う方が通りがいい建物が大改装されラウンジ・レストランとなっている。良く見ると屋根の辺りに昔のイミグラシの名称の看板が掛けられている。Buddah_bah
名前がBuddha Barで内部に仏陀も鎮座させていることから非難を浴びていたように思う。いつか行った時も一寸中に入るにはその厳しさに躊躇する。近寄って来たサトパムもその筋の人、あるいは接客業で訓練を受けた人のようで割と軽やかな応対で駐車場を示した。駐車場は高架鉄道の下で昔、鉄条網で仕切られ雑草で真っ暗だったところが、今は刈り払われ、コンクリートで舗装された駐車場が延々500メートルと続く。相当大きなイベントが予想されているのであろう。警備員の話だと元?大統領やスティヨソも来たと言う。
後で調べてみると、ここはフランス・パリで人気を博しているBuddah Barのフランチャイジーでどうもスティヨソの娘がやっているようだ。ここのコンセプトは広い客席で金色の大きな仏陀像を中心に、アジアミックスの雰囲気と、料理そしてサウンド音楽も東欧から中近東、インド、アジア、ラテンまでのフュージョンに浸れる場所を狙っている。パリのBUDDAH BARのサウンド・プロデューサー・DJのRavinは多くのCDを出して人気を博しているようだ。
おおもとのBuddha Barはレコード、スパ、レスト産業のGeorge Vグループの Raymond Visanが1990年代初めに始めたもので今やデュバイ、ケエフ、ダブリン、ニューヨーク、サンパウロ、ロンドンと展開している。ジャカルタはその一つである。
何故オリエンタルの本場にオリエンタルを輸入せねばならないのか、仏教を冒涜するにも程がある、仏陀は決してこのような振る舞いを許しはしないだろう。洪水に何も出来なかったスティヨソは今度は娘がこの貧困と危機の時代に贅をつくしていると批判の声は大きい。由緒ある建物がこのような使われ方をしているのは残念だ。
ジャカルタのセレブリティが集まると踏んでいるのかここは座席が240、テラスや中庭も入れると700席も収容でき、深夜まで水曜から土曜はなんと朝の3時まで営業やっている。行く場合は3900899に電話をしてから着飾って、札束を詰めて行くと良い。

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2009年3月 2日 (月)

日本食品とEPA イクオール・パートナー

多分ジャカルタの日本スーパーは今以て日本からの商品がなくなっているものと思う。商品棚は見せかけの現地品を薄く広く並べているだけである。西さんの「インドネシア情報ライン」を見るともう
絶望的である。曰くBpom

*ML未取得商品を売っている店は国を侮辱している
*何と言おうが飲食品も輸入規制の対象
*没収されたML未取得商品は100億ルピア超
*エスニックスーパーの次は外国系ファーストフード
である。小生などは単純にメンバー制のスーパーにしたらと思うもののここに来て個々の店では対応出来ない感がある。背景はインドネシア人固有の先進国・非イスラムに対する、被虐感覚に根ざしているようだ。少なくとも我々にとってはイリーガルではない。日本で流通が許可されているものを何故EPAの相手国が問題とせねばならないのか。現地生産品に切り替えて行くことが今後の手立てであろうが、少なくとも日本国代表者もEPA、イクオール・パートナーとして自問しつつ付き合っていただきたいものだ。この1月にJalan2している時、張本人の食品薬品監督庁を見つけたのでアップしたが、ここはPercetakan Negaraで保健省はここに大きな地所をもっている。写真をアップしたいばかりに一寸無理したブログになった。

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2009年3月 1日 (日)

ナガボナール将軍

日本国際交流基金の企画であるがアジア映画祭が来る3月14日及び15日に赤坂OAGホールで行われるがそこにナガボナール将軍と言うタイトルのインドネシア映画が上演される。小生はその前に出発のため見に行くことが出来ない。
この映画は同名の1987年の映画の第2作で、第1作は1945年頃スリで浮浪者であった青年がインドネシア独立戦争に紛れて持ち前の口のうまさでみるみる出世をしたコメディ風映画で、同年のあらゆる映画賞を獲得したが第2作は第1作の主演デディ・ミズワルが監督したもので隠退した将軍とビジネスマンになった息子との葛藤を描いている。ナガボナール将軍とは聞きなれない名前で歴史書には登場しないが実在の人のようである。 将軍或いはJenderalと言っても大中小 准将まで含めた将官のクラスであるにしても歴史に出てこないのは何故なのか Sudirman0_jtim
探し回ったが合えることはなかったので スディルマン通りに建つスディルマン将軍像をアップしたが、北に向かって敬礼しているのは、あれは大統領府に敬礼しているのであろうか

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