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2009年4月の投稿

2009年4月30日 (木)

Asian Philanthropy 慈善家はAltruist

Forbes誌には色々なランキングがあるが標題もその一つである。AltruistとはEgoistの逆の利他主義者のことである。12ケ国から48人が選ばれているがインドネシアからは以下の人達である
Hsbc_sampoerna_028

* CHERIE NURSALIM :Executive director of GITI Group.
* JAMES RIADY :Chairman of Lippo Group.
* PUTERA SAMPOERNA :Former cigarette business
* GEORGE AND SJAKON TAHIJA: Austindo Nusantara Jaya
写真はサンプルナ社の憩いの公園で、市民が自由に利用できるとは未だ思われていない。
日本からは
* Kazuo Inamori:京セラ・グループの総師、1982年に設立した稲盛ファウンデーションは日本版ノーベル賞で科学・芸術・哲学の分野で毎年3人に20カラットの金メダルと54万ドルを贈呈する。
* YOSHITAKA KITAO : SBI Holdingsのトップ エクゼクティブ
* KAGEMASA KOZUKI :コナミグループ総師、ジュウクボックス修理技術者から身を起こしビデオ
ゲームのKonamiグループを創設、若手スポーツマン育成に力を入れている。昨年、オリンピック授賞者31人を含む55人に各$6,500を贈呈した。
* SHOJI UEHARA :大正製薬ゴッドファーザー、毎年20百万ドルをメディカル分野に支援
* Yoko Nagae Ceschina :夫イタリヤの実業家遺産をカーネギーホール活動など芸術分野を支援。

投機金融倒壊で大損失を蒙り悔やんでいたが、日本のどなたかのドーネーションの1/200にも満たない計算であった。

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2009年4月29日 (水)

「旧朝香宮邸のアール・デコ」とソニーデジカメ

バンドンはアール・デコの宝庫と言うことで一文を纏めたことがある。アールデコとはdecorative Art装飾芸術ということから来ており建築ではコンパスと直線の幾何学と左右対称性が特色と結論付けていた。Photo
日本のアールデコと言えばその代表がここであるといわれている。写真で見てもそれほどその感覚は湧かないがむしろその特色はインテリアーにあるようだ。朝香宮(伏見宮の第4王子久邇宮朝彦親王の第8王子、久邇宮邦彦親王や梨本宮は兄家にあたる)がフランス留学中の1925年パリで行われたアールデコの展示会で感銘を受け、フランスから装飾家ラバンを招聘、玄関、客室、書斎など主要部分を設計され建物は宮内庁の建築家権藤要吉が担当し1933年に完成したものである。
アールデコ流行の前の1890年から1910年までにヨーロッパを席捲したアール・ヌーボーがあるがどちらもその装飾のイメージから混同する。こちらは大正モダニズムのファッションや挿絵を思い出してもらえば判る通り、植物や動物などのモチーフを用い寓意を幻想的に描くもので建築では鉄線などの曲線とガラスを多用した過剰装飾の芸術である。アールデコは此処から過剰装飾を取り除いたより機能性を目指したものである。折角持っていったソニーのデジカメに不具合があり、写真が取れなかったので、掲題名の小冊子から借用した。

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2009年4月28日 (火)

Bamabang Rachmadi、スダルモノの娘婿

10日程前、インドネシア銀行はIFI銀行の閉鎖を発表したが現在預金保証機構Lembaga Penjamin Simpanan (LPS)による精査が行われているようだ。この作業完了後閉鎖は完了する。所でこの銀行のオーナーはスダルモノ元副大統領の娘婿のBambang H. Rachmadiである。 彼は1995年この銀行の73%を買収し、1999年にはジャムソステックを巡る400億の横領罪で訴追を逃れるため返済後逃亡したことがある。彼はインドネシアでのマクドナルドレストランのフランチャイズ権を持っており又ベタウイ兄弟フォーラムという青年団体の経済アドバイザーもやっている。
IFI銀行は全インドネシアの銀行125校の中で105番目、日本円で50億程度、全体のシェアでは0.01%程度である。彼は未だ富豪リストには届いてない。失敗続きだからだろうか。

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2009年4月27日 (月)

Gaja Tunggalのジャワハウス

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クマンにあるジャワ ハウスについては2月16日にブログで紹介したがこれに触発されて眼に付く似たような建物はジャワ ハウスだと思って写真を取った。
ジャワ・ハウスと言っても以下のような5つの形式があり夫々に10種類内外の種類があるそうだ。
1. Joglo (atap joglo) ジョクジャ
2. Limasan (atap limas) ソロ
3. Kampung (atap pelana)鞍
4. Panggang Pe
5. Mesjidan/Tajugan
一番有名なのはジョクジャカルタの代表的形式で全面にお客用、儀礼用のプンドポを有し後ろに居間などを配しているジョグロ形式である。リマサンはソロが代表であるほか
夫々の特徴は未だしである。スンダクラパにあるVOC倉庫の中庭にプンドポ風建物がある。ここはガジャ・トゥンガルの保有するVOCカフェ・レストランの中庭である。これには壁がありびっしり彫刻が見ごたえがあった。Arcs_houseApr_11_044

以下の二つはアークスハウスとパンダン ヒジャウ レストランである。前者はタムリン通りとサバン通りの間のリアウ通りにあり、後者はプロガドン工業団地に向かうプムダ通りにあった。いずれもジャワ風に最近建てられたもので、古い由緒あるものではなかろう。

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2009年4月25日 (土)

人的資源に依存する国家建設をとWardiman Djojonegoro

元教育大臣のワルディマン氏がJakarta Globe誌のインタービューを受けていた。ワルディマン氏と言えば90年代始めJJCの奨学金制度だったか教師派遣事業だったかそのお披露目に何度も呼んだ当時の教育大臣である。スハルト・ハビビ元大統領と共に閣外に去ったが、現在はHabibie Centerの会長を務めて74歳で健在である。天然資源に依存しないで人的資源に依拠すべきだと、国家の発展は教育に存するとの信念で現在の教育の不完全を嘆いている。現在義務教育は当時の85%から改善されておらず僻地には学校が建設されていないし教室当たりの学童数も40人と多い。彼はドイツ流学時にハビビと知り合い、又アリ・サディキンジャカルタ市長(1966 年から1977年)の秘書を務めている。アリ・サディキンはジャカルタをエンジョイアブルな街にすることをモットーとしたが、現在はモットーがない。毎日1.5時間も通勤渋滞で時間をロスしており、まだまだ60%の人々が水道のないスラムに住んでいる。

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2009年4月23日 (木)

Hansipの実際、Siskamling

最近眼にしなくなったSiskamlingと言ったがやはり今もあるようだ。これもHansipである。Hansipは今は Linmas (society protection)となったというが昔言いなれたHansipの方が通りが良い。SiskamlingとはSistem Keamanan Lingkungan、隣組安全システムの略である。
隣組のRTなどの部落・村毎に組織され1ケ所を除き道路を封鎖し1ケ所に詰め所を設ける。夜11時から明け方5時までつめて、毎時、町内を練り歩き警棒で電柱を叩く。これは安全であるという合図である。Hansipは現在のシステムから言うと住民から任命され、軍事訓練を受け、内務省のルールに則り村の役場の管理監督を受けるが、実際は隣組が村の壮年を中心に組織して賃金をを払う。
賃金は1ケ月Rp150,000程度で住民は1ケ月Rp5,000を負担する。これでも100家族で500,000ルピアしか集まらないし5,000ルピアの値上げは限界だそうだ。代わりに親族が村で夜鳴き蕎麦ど商売を許されているからお金をもらえない村もある。
彼らは家に帰り11時まで睡眠の後、建設現場などで日給Rp30,000程度で生活を維持する。住民の結婚式や最近は選挙などで警備を依頼される事も多い。Rp100,000程度お金をもらえる事もあるが食事だけの場合も多い。住民同士の喧嘩など仲裁に入ってもそれがHansipの仕事かというとセンシティブである。最大の役目はヨソ者のドロボーなど侵入防止である。犯罪で多いのは単車ドロボーでジャカルタでは月1,000台に近い数字に上るという。(以上ジャカルタポストより要点借用)

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2009年4月22日 (水)

最後のMajor Khoaw家の繁栄

Petamburanの墓地にひときわ大きなお墓がある。墓碑からKhoaw Kim An夫婦のものだと分かった。
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Khoaw Kim An(1897年-1945年)は最後のバタビアの中国人社会のリーダーMajorで1910年から
1942年まで2回勤め、又 1921年から1931年まではVolksraadの議員でもあった。その住宅は現在のコタのCandra Naga一帯のコンプレックスであった大富豪である。Candra Nagaは18世紀にKim Anの祖父のKhouw Tian Sekがその3人の息子Khouw Tjeng Po,、Khouw Tjeng Tjoan、Khouw Tjeng Keeの為に建設したようであるが明確ではない。Khouw Tjeng TjoanがKim Anの父である。現在のCandra Nagaは小さい建物であるが、古い写真を見ると後ろに大きな建物が続いている。 3人が中庭続きの家に住んでいたようで、元の中国大使館やSMUN2の敷地を含めKhouwファミリーのものであった。
なにせKim Anには14(或いは40人とも)の妻たちと24人(?)の子供たちがおりここに100の部屋があったという。(再度このプタンブランのお墓を観察しなければならない)
1945年に死亡後この住宅はSin Ming Huiに寄贈され(或いは前面だけコミュニティのクラブとして使用に供じた。?)シンミンフイ新民会は住民福祉分野で活動し後のTarumanegara大学やSumbur Waras病院の建設と繋がっていった。Sin Ming Huiの会館即ちCandra Nagaは既にこのブログで取り上げたが、これが1992年にModern グループの手に渡りモデルン・グループはこの市指定保存史跡を覆いかぶさるような形で保存できるようにしてアパートを建てた。金融危機で長く放置されていたが既にアパートは完成している。
Kim Anは日本が占領したあと強制収容所に収容され、1945年にどうも収容所で亡くなったようであるがそれがそうなら、プタンブランの墓地の日本人墓地の春・秋の供養祭のとき、参集した日本人はこの大きなKim Anのお墓に目礼くらいすべきかなと思った次第。

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2009年4月21日 (火)

責任重い世界トップ企業 トヨタ

今日の新聞ではトヨタの2009年国内生産が300万台割れと予想され正社員雇用雇用に影響すると報道されていた。予想は280万台で1978年時代の数字に劣るようで惨憺たる感じではある。世界のトップ企業で何年も兆円規模の税後利益をためてきたはずの企業が正社員首切りを率先して予告する、このていたらくは経営者も労働組合にも責任があろう。 考えて見ると自動車が生まれて100年、機能は昨日のままで、それなら逆に昔の自動車に乗りたい気にもなる。
この4月のフォーブス誌によると自動車部門世界第1位のトヨタは全業種では昨年の5位から3位になり、GMは9位からなんと844位に転落している。序でにこのランキング上位で気が付くところを上げると、今年のトップはGE(昨年12位)、6位はHSBC(昨年20位)、7位はAT&T(昨年29位)で全てが急進しており昨年トップのウオールマートは8位に転落、他は石油メジャーがその他の10位までのランクを競争独占している。中国企業がトップ25で昨年ゼロが今年は4社が合格、まあ先般的には修羅場といえようか。

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2009年4月20日 (月)

昨日は Hansip の日

80年代、工場の総務担当の日本人から名前をよく聞いたが、現在はHansipはLinmasとなっているという。
HansipとはPertahanan Sipilの省略形で市民治安活動の意味になるが、ちゃんと法定された組織である。国家を守る国民の権利を認識し各村毎に住民が参加する治安防衛組織を設置する1982年法律2号によるものである。Hansipは州長官、県知事の指揮権に属し、内務省が管轄する、いわば人民軍でその外に次のようなものも設立された。.
Wanra (Pelawanan Rakyat):外部からの敵に対応するもので軍司令官に属する。
Kamra (Keamanan Rakyat):紛争に対処するもので警察に属する
Pam Swakarsa:義勇軍、Satpol PP (Satuan Polisi Pramong Praja)
Kotib (Kota Tertib), Banpol (Bantuan Polisi), Potmas (Potensi Masyarakat).
スハルト時代は彼らの存在は怖いものがあった。彼らは必ずしも常設のものでなく総選挙など政府の行事の円滑実施のため失業者から徴用されることが多く失業対策のためもあった。日本占領時代の青年組織と同じ目的があるいわば、警防団、自警団である。ジャカルタの各部落には夜は道路を封鎖して侵入者をチェックする住民当番の夜警ポスト(Siskamling)があったが最近はこれも眼にしなくなった。本稿は現地再調査を必要とする。

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2009年4月19日 (日)

Toa sei bioと土地公

PancoranからCideng運河を上っていくと左手に龍が踊る中国寺院の屋根が見える。これが多分Toa Sei Bioなるお寺だと確信し、正面に回ると丁度St.Maria Fatimah教会の前辺りのようでSglodok_058
其処に河西宮なる小さな祠がありその奥にその同じ屋根があったので、てっきりそうだと紹介した(1/8)ことがあった。数ケ月後、訪れてその河西宮の横の小道を奥を100メートルも入っていくもToa Sei Bioには忽然と消えて、其処には二つの祠があるだけだった。河西宮と書いたが宮とは書かれてなく河西への門であり門の上が例の同じ龍が踊っていただけであること、又其処は正面に回った積りであったが135度ほど回っただけであることが判った。今度いつか又行き Fatimah教会からますこし先にあるだろうToa Sei Bioを見つけねばならない。Pluit_060
しかし此処で見た小さな祠 三つは、今日サーフイングで台湾に多く祭られる「土地公」の祭壇であることがわかった。真ん中の祠には土地伯神位なる文字が刻まれている。横浜の関帝廟のウェブによるとこれは福徳正神の俗称で、中国古代の原始的な農耕社会から生まれた自然神の地神であり、五穀の豊饒または、蓄財祈願の信仰に基づいてできたものだそうだ。又土地公は複数の神明であり、その土地で生前に功徳があった死者の内から玉皇上帝が神明として任命するとある。Pluit_058
他で眼にすることのなかった土地公がここに三つもあることはここには功徳を積んだチナの富裕が3人もいたことになろうか インドネシア語では土地公はDewa Bumiと言うが、祠の下の方に「誰でも賽銭など盗むとDewa Bumiの神霊により災害、混乱、病魔ののろいがあるだろう」と判(誤?)読される文字が彫られていた。プリブミへの警告だろうか

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2009年4月17日 (金)

昨日はKOPASSUSの日

昨日4月16日は陸軍特殊部隊KOPASSUSの日であった。 赤ベレー隊とも言われモットーは勇猛、真実、戦果Berani, Benar, Berhasilで、エリート部隊である。現在はアンティ・テロの職務を負うDetasemen81部隊が有名であるが、インドネシアの歴史の中で数々の好悪の戦歴を残している。1952年4月16日、RMS南マルクの分離独立運動の最中、シリワンギ部隊の中でアレックス・カウイララン大佐はスラメット・リヤディ中佐と共にKesatuan Komando Tentara Territorium III/Siliwangi(KeskoTT)を設立した。隊長はIdjon Djanbi.を任命した。これがコパススの誕生の日である。翌年シリワンギ部隊から陸軍参謀部に指揮権を移し名称もKKADさらにRPKADと改称、1962年スハルトの西イリアン・マンダラ作戦の際、若い将校のベニームルダニの陸軍特別降下連隊として勇名を馳せた。1965年10月以降の共産党狩りにはSarwo Edhy准将のRPKADが活躍、1971年さらにサンデイ・ユダ特攻部隊Kopassandhaと改称、タディン・カルプアルディ大佐は1975年9月チモールに兵士のRI 軍バッジを外し侵入、豪人5人を殺害するバリボ事件を引き起こしている。(国軍司令官ムルダニ、現地ヨスフィア大尉)、以降チモールやアチェはコパスス兵士の訓練の場であり、将官の出世への活躍の場となった。現在の名称になったのは1986年のABRI改革の時である。現在のコパススは5グループあり教育グループ、Detasmen81がその一つで本体のグループ1及び2は2大隊を持つ。
グループ1はセランに、2はカルタスーラ、教育グループは西ジャワBatujajarに、4と5(サンディユダとアンチテロ)はジャカルタCijantungに所在する。現在のコパスス軍司令官はPramono Edhie Wibowo准将である。嘗ての幹部にW. Arismunandar、Sintong Panjaitan、Yunus Yosfiah、Agum Gumelar、 Hendropriyono、Subagio、Prabowo Subiantoと見るように軍の最高ポストへの登竜門であった。

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2009年4月16日 (木)

Kapitan Cinaの歴史

"Kapitan Cina in Batavia 1837-1942". と言う著作がある。作者はMona Lohandaと言う女性である。
カピタン・チナとはオランダ東インドの非公式な役職で、特にバタビアにあったが、植民地統治の産物であるので植民終了の1942年までのものであった。
キャピタンはシナ部族の行政リーダーであったが商業活動に責任を持つ準軍事的栄誉でもあった。最初のキャピタンは早くも1619年10月11日に設置されている。VOCはSouw Beng Kongを任命した。
1818年に行政改革を行なわれ現地の非欧州・アジア海外勢を分離するものでアラブやモーア人にも適用された硬直的なものであった。突然シナ人は欧州人の下に立つこととなるこの計画を拒否している。1837年はオランダが最初のバタビアの長を推進した年である。その後の長は以下の通りである。
Tan Eng Goan [1837-65]
Tan Tjoen Tiat [1865-1879]
Lie Tjoe Hong [1879-96]
Tio Tek Ho [1896 – 1908]
Khouw Kim An [1910-18, その後再選で 1927-42] 最初のKAPITANはBeng Congと言う名前でこのブログに過去登場させた。最後のKAPITANも現代にその名前が残っている。

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2009年4月15日 (水)

今日はZeniの日

よく街を走ると軍の施設にZeniだのYonだのと言う名前の看板にお眼に掛かる。YonとはBattalion 大隊の略である。
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Yonと違ってZeniは省略形でなく工兵隊の事である。
Zeni とは特殊才能 geniusから来たものであろう。この部類に属する言葉としてはinfanteri 歩兵隊(infantry)、artileri砲兵隊(artillery), 騎兵隊:機甲隊kavaleri(cavalry)がある。
Zeniはインドネシア独立の年からあり、1945年11月12日にはAchdiyat Soeparmadi.によってBatujajarでSekolah Genie が設立されている。正式には1950年4月15日にオランダの施設の委譲を受けてMayor Suratin PurwowikartoがDepot Pasukan Genieを持ったのがZeniの日、正式にはPUSDIKZI(Pusat Pendidikan Zeni)の日である。北からジャテネガラに向かうMatraman Raya通りのサンタ・ヨセフ教会の前にこのZeniに本部があり、
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又以前この地区の奥のSlamet Riady通りの紹介の時アップした写真がZeniのベンケル(補修庫)である。

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2009年4月14日 (火)

香港空港の奇怪

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香港はいつも曇天である。行きは到着後雨となり帰りは小雨の中飛び立った。昨年末から6回立ち寄ったが何時もスモッグで煙っていて写真を撮るチャンスはない。今回は少し全体のお客が少ないのか手荷物再検査が20分ほどで済み、時間が出来たので空港探検を行うこととした。飛行機の到着ゲートは何時も違うようだ。今回は35番に出てきたが乗り換えのゲートは未だ決まらない。掲示ボードも少ないが、情報デスクが偶然あったので尋ねると電話で照会し数分後やっと28番と判明。 構内にはゴルフカートが少し動いている。30分で数回出合う程度で、タクシー並みに手を上げると止まってくれるとは思得ないがその前に残念ながら全て客が乗っている。ステーションがある訳でもなくゲート20番の先にやっと一つカウンターがあったが料金が此処で判明、HK$50で高い。その前に残念、カート自体がない。その前に、35番から20番ゲートまで行くのにカートを使いたいほど遠いのである。又20番のところに地下にトレイン設備があるのを見つけた。下りエスカレーターの所には係りはいないしやっと見つけたマップも要領を得ない。33-80とあるので33番ゲートと80番ゲートに止まるだけなのか、これが判らない。マップを見るとトレイン・ラインは20番から35番まで線が引かれているが80番の方までは行っていない。その前にマップに80番が描かれていない。奇怪さはこの程度にして次回の参考をメモしておこう。JKT-HKGは3,261km、4時間の航程、HKG-NRTは2,963km 3時間半の航程、時差は日本ー香港―ジャカルタで1時間ずつ遅れている。マネーチェンジャーは20番のところにやっと一つあるが、買い物ショップで¥でも買えそうだがお釣りはHK$となる。HK$表示なのでこれに10を掛けてその半分を加えればよい。一寸した砂糖ケーキ詰め合わせがHK$160なので10掛けて\1600円、これに半分の800を加えれば2,400円となる。計算間違いしたかな?? 成田なら\600程度のものである。成田の安さと物の豊富さを実感する香港空港であった。

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2009年4月13日 (月)

Jakarta Post /CSISの見る選挙の行方

選挙が終わって開票1日目でユドヨノ率いる民主党が第1党に躍進、2位以下を引き離してリードしている。2位或いは3位のPDIPは選挙が終わった翌日、プラボウオのthe Indonesian Great Movement Party (Gerindra) とウイラントの People's Conscience (Hanura) Partyと提携のため三者が会談した。選挙のゴールはあくまでも7月の大統領戦でありPDIPのメガワティは一緒にペアーとなる副大統領を物色しているのであるが、この辺まで来ると将にStruggleである。そうなるとユドヨノは自動的にゴルカールのユスフと言うことになるのであろうか Apr_12_003
2月ごろCSISの予想したとおりである。ジャカルタポスト誌でOranges for votes at prisonsと言う記事があった。インドネシアでは囚人にも選挙権があり所内投票所でオレンジがもらえるので投票率が一般の60%に比べ90%だという話であるが、日本には囚人にまでは選挙権はないはずである。選挙権は生存権たる人権ではないのである。そう言えばCSISもJakarta Postも新築なったJakarta Postビルである。

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2009年4月10日 (金)

ポンドク・グデー・モールの謂われ

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ポンドック・グデーとはジャカルタ南東部の交通の要所でチカンペック高速にその名前の料金所があるのでここから近いはずであるが、小生はミニ・インドネシア公園の所からパンチャシラ・サクティ公園に向かう道を行く方が楽しいドライブになる。途中ハリムゴルフ場の裏手に当るところまでもう渋滞であるがそれほどの距離ではない。この道こそポンドク・グデーラヤと言う道路名となっているのでこちらの方が正道であろう。ポンドク・グデーとは大きな家の意味で昔それこそ大きな作りのカントリーハウスがあったところで、1980年代初めまで建っていたはずであるが現在はショッピングモールと近郊バスターミナルが同居する雑踏地である。Heukenの案内ではパンチャシラ・サクティの前の道(ポンドク・グデーラヤ通り)をポンドク・グデーに向かって進むと右に急角度で曲がるところにその家はあったようであるが、現在は急角度に曲がる地点は判らず その一帯が将棋の駒の形をした大きな左周りのサークルでその内部にモールがいくつも立て込んでいる形となっている。Taman_pondok_gede_046
近くにTaman Pondok Gedeと言う入り口を見過ごしたので或いはと思うが。。。ポンドク・グデーは1775年にプロテスタントの理事官Johannes Hooymanが建設した巨大な屋根の家で写真で見ると幅50メートル見当である。1800年代には国立文書館も手にしたLeendert Mieroの手に渡ったようで彼の墓があったと述べているがやはり確認に再度行くべきであろうか Pancasila_sakti_026
その巨大屋根の面影はパンチャシラサクテイ博物館に見ることが出来ると勝手に思っている。

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2009年4月 8日 (水)

Joko Sutono 行って見ないと判らない本当

昔道路シリーズでクバヨラン南東部の道路名を書いてみたがそのときJoko Sutonoと言う道路名を取り上げたが、いくら調べても誰なのか不明であった。その時はSutomoと一字間違ったんだろうと、スラバヤの英雄ブントモではないかとお茶を濁したが、Wijaya_028
先日行ってみて驚いたことにBapak Sutonoの銅像が建っていたのである。この地区はクバヨランの東西を分けるようなイスカンダルシャー道路の東側で広大な土地に50に喃喃とする新築の煌びやかな建物群が建っていた。そこに大隈重信然とした銅像が建っており、近くの人に聞くとその名前を答え、更に誰だと聞くとその建物群の創設者だという。後で調べるとこの建物のコンプレックスはPTIKと言う警察の大学(警察大学院大学)であった。此処でJICAの専門家が市民警察思想(インドネシアではポルマス)のセミなどを行っていたようである。それは日本政府が協力するプロジェクトでインドネシア国家警察改革プログラムの一環であった。
この大学はいわば警察アカデミーに当たるのかとおもわれる。インドネシアの警察大学の歴史は独立直後からあり、最初はジョグジャに作られ1950年にジャカルタはスカルノハッタ独立記念公園の裏側当たりのTambak地区に移転し更に、CiputatやSukabumiの変遷を経てこの地になり、名称もPTIK (Perguruan Tinggi Ilmu Kepolisian)になっている。
この土地は1971年にProf. Djokosoetono, SH.が土地を提供し、始めて大学(Institusi:Sekolah Tinngi)のステータスで獲得した形となっている。Djokosoetono氏は1954年から 1965年に学長を務めている。
PTIK の住所はJl. Tirtayasa Raya No. 6 (Telp : 021-7222234 )であるが彼の名前の道路も近くに走っている。
ここからWijaya通りに向かい少し東に取るとジャカルタ鳥元がオープン急ピッチの工事をやっていた。

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2009年4月 7日 (火)

大司教ClaessensとStallも仲良くプラサスティに

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Caroli Claessensは1847年に同僚のJ.Lijnenと共にバタビアにやって来たカトリックの司祭である。1874年にバタビアの司教に任じられた。1年後大司教(Archbishop)となった。1893年までの彼の在職期間はカトリックがジャワの各地チレボン、ボゴール、マゲラン、マディウン、マランなどで盛んになった。彼の事績で大きいのは1890年に崩壊したバタビアのカセドラル教会の再建である。しかしながらこの再建が完成する前の1893年彼はこの世を去り後継者の手にゆだねられた。
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この後継者がMonsignor Wakterys Jacobus Stall である。彼は1839年オランダ・アルンハイムの近くで生まれ、1875年バンカの父親を助ける為にやって来てバンカでの10年は、中国人社会の為に献身した。又カリマンタンのシンカワンで最初の牧師区を設置した。1893年に前任のClaessensの後を継ぎカセドラル再建を完成させた。彼は又ヌサンタラの各地、特に外島、バンカ、ヌサテンガラ、ケイ・アイウランド、ミナハサ、アンボンを旅し布教した。彼は1897年バンダに向かう船の上でなくなった。日本人には何の感興も沸かないが二人の墓がプラサスティ墓地公園にある。

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2009年4月 6日 (月)

Mohammad TohaはJibakuか

Muhammad Toha はインドネシアの国家革命期の1946年3月24日バンドン火の海事件で身を捧げ殉教した英雄である。そのとき、彼は日本軍の武器倉庫を破壊する為自ら爆弾を仕掛けて自爆した。
彼はバンドンのSunjaraja村に1927年生まれたが1929年父親が亡くなり母親は父親の弟と再婚したがすぐ離婚、父親筋の叔父に引き取られた。日本の占領時代は青年団に入り軍の世界を知ることになった。彼は日本軍の自動車を修理する工場で働き日本語もうまくなった。
インドネシアが独立した後、インドネシア人民攻撃隊のトハの叔父のBen Alamsyahが率いる隊に入りその後、Anwar Sutan Pamuncakが率いる突撃隊に合体した。このラスカルで1個小隊隊長となった・
1945年11月21日、連合軍はインドネシア側としてバンドンの北部を29日迄に明け渡すよう最後通牒を発した。我々の勇士が日本軍から取り上げた武器を引き渡さねばならないとされ、従わない場合連合軍は徹底的な攻撃を加えるというものであった。これはインドネシア軍にとって忘れられるものではない。以来連合軍との闘いが交されたが武器が少ないTKRはバンドン北部を維持できなくなり最後は連合軍が支配することとなった。
1946年3月23日連合軍は第2回最後通牒を発しバンドンの南部も明け渡すよう要求した。
1946年1月24日よりTKRは既にその名前をTRIに変更していたが、従い政治的に又人民の平穏を願い政府はTRIと全ての他の戦士に引き上げバンドン南部を引き渡すように命じた。協議の末TRIは政府の命令に従うが南部をのまま全て引き渡すことは望まなかった。
住民もバンドンからの引き揚げに従い、全てのTRIの兵士も辛い気持ちを抑えながらバンドン南部を後にした。バンドンを引き揚げる時、TRIの戦士はバンドンを焦土化した。この事件はBandung Lautan Apiバンドン火の海事件として知られている。
Mohammad Toha、このインドネシアゲリラ民兵はオランダ軍本部の近くのDayeuh Kolotにあった日本とオランダ軍が守っている大きな爆薬庫にダイナマイト棒を仕掛け爆破し自らも爆死した。それがバンドン火の海事件の最中であったかは定かではない。今この近くのメイン道路はMohammad Toha通りとなってバンドンでは英雄であるが政府の英雄認定は未だのようである。

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2009年4月 5日 (日)

投資環境未だし 9年3月


* NEC、ジャカルタ~スラバヤ~香港光海底ケーブルシステム受注、総延長4,300km、1億ドル以上。
* コメ10万トン輸出へ、4-6月の収穫期に:食糧公社Bulog。
* スラバヤ~マドゥラ橋(総延長5.44km)、今年6月12日に開通予定。
* イ輸出保険機関が日本貿易保険と再保険協力協定調印。
* チプタットのギントゥン・ダム湖が決壊、周辺住民ら99人が死亡、126人が行方不明に。
* 首都のビルに機能適正証明(SLF)の取得義務付け、2010年めどに。
* 世界経済フォーラム(WEF)の旅行・観光競争力ランキング:イは81位、昨年よりランク下げ。
* 首都政府が義務付ける就業時間外保険加入、憲法裁は無効との判断:経営者協会。
* AEB企業、東カリマンタンで鉄道建設9億ドル、バリクパパン製油所拡張にも伊藤忠と
* 空港使用料値上げ、国際線、ジャカルタは10万ルピア→15万ルピアへ
* 一夫多妻、事実婚、契約婚に罰則:婚姻裁判法案。
* 自動車部品、電器部品など11セクターの関税を政府負担、景気刺激策73.3兆ルピア承認得る

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2009年4月 3日 (金)

インドネシア景気刺激策 税の政府負担??

月刊誌「インドネシア企業経営」2009年3月号に出ている。
その他インドネシアの会計・税務・輸出入手続き等下記の記事の3月号($100 or RP800,000/月)が発売中である。詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。
今月の税務法令アップデート
今月の経済法令アップデート  
会計原則 118(投資不動産その3)
所得税源泉徴収実施指針(1)
2009年度輸入関税の政府負担
法務省の法人管理システム停止
仕入税VATの経費計上
鉄鋼輸入の一時規制
2009年総選挙・大統領選挙の行方
個人所得源泉徴収税PPh21の政府負担
自由貿易地域物品搬出入の通関・税務便宜(1)
工業団地規定
輸出のL/C決済義務規定の見直し
年次申告書提出延期通知状の邦訳
シャリアとイスラム金融
今月の労働関連トピックス
2009年2月度 下旬 政治・経済トピックス
2009年3月度 上・中旬 政治・経済トピックス
物価・貿易統計09年2月発表
橋本政彦 「明日の街角39~アイデンティティ」 
西見恭平 「ジャカルタの高等学校」
今月の月次経済指標 2007-2008トレンド
今月の会計・税務用換算レート
今月の為替株式金利の動き

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2009年4月 2日 (木)

Dewi夫人の邸宅

後ろを追跡したその車は“大統領私邸のある通り”に入り、“右側の私邸には関心を示さず、真っ直ぐ前方に走りぬけた”“先行車は約200メートル走るとT字路に行き当たり右折した”急ぎ“右折すると直ぐ”の所にその車は停車して降りた後であった。そこは“高い椰子並木の道”でその家は“黒っぽい屋根瓦で前庭にはブーゲンビリア”が咲き誇っていた。中村敦夫氏の「ジャカルタの眼」の中の描写である。 Monas_menten_034
小生もこの車の後を付けて、それと思われる家を突き止めたのがこの写真である。
大統領はスハルト大統領のことであり、高い椰子の並木道とはJln.Suwiryoである。この家とはスカルノの名誉も回復された後の1984年頃デウイ夫人が住まわれた家のことである。丁度その頃はベニームルダニ将軍が治安を守っていたが毎日ヤクザ殺しが起こっていた頃である。これが敦夫氏の題材になっていた。慈恵のママに聞くと、Jln Sumateraにも家があったとか、そういえば1月末ごろデウイ夫人とは慈恵でお会いしたが、差しさわりがあるといけないので伏せていたが夫人のブログを見るとちゃんと公にされていた。

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2009年4月 1日 (水)

スカルノ臨終のとき

墓石公園にスカルノとハッタ故正副大統領の棺桶がある。スカルノは1970年6月21日 朝7時、ガトットスブロト陸軍病院で子供達のグントール、メガワティ、ラーマワティ、スクマワティ、グルーに見取られ最後の息を引き取った。Dscn0157_2
ご遺体は湯浴みされ、白い木綿で包まれて納棺された。その後11:30 Abdul Rachman通りからPejambon、Merdeka Timujr、Thamrin, Sudirman通りを多くの自動車の群れを引き連れガトット・スブロトのヤソー宮殿に運ばれジャカルタ最後の別れのあと、翌日ハリムからブリタールに運ばれ埋葬された。ハッタはその10年後1980年3月14日、チプタ・マングンクスモでなくなりタナクシールの一般墓地(TPU)に葬られている。どちらも国葬でスカルノにはマラダン・パンガベアン国軍副司令官が、ハッタの時はアダム・マリク副大統領が葬儀委員長を務めた。イスラムの埋葬は“Dari Tanah ke Tanah”土に帰ると言われ遺体(jenazah:Jasad)と土を隔てるものは遺体を包むさらし(Kain Kafan)以外はないのが決まりのようである。
スカルノ臨終の時、デウイさんとハルテニィさんはスハルトにお墓をボゴールにしてくれと頼んだ話があるので二人はその場にいたことになるがファトマワテイやハルヤティさんがどうだったのだろう。

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