Mohammad TohaはJibakuか
Muhammad Toha はインドネシアの国家革命期の1946年3月24日バンドン火の海事件で身を捧げ殉教した英雄である。そのとき、彼は日本軍の武器倉庫を破壊する為自ら爆弾を仕掛けて自爆した。
彼はバンドンのSunjaraja村に1927年生まれたが1929年父親が亡くなり母親は父親の弟と再婚したがすぐ離婚、父親筋の叔父に引き取られた。日本の占領時代は青年団に入り軍の世界を知ることになった。彼は日本軍の自動車を修理する工場で働き日本語もうまくなった。
インドネシアが独立した後、インドネシア人民攻撃隊のトハの叔父のBen Alamsyahが率いる隊に入りその後、Anwar Sutan Pamuncakが率いる突撃隊に合体した。このラスカルで1個小隊隊長となった・
1945年11月21日、連合軍はインドネシア側としてバンドンの北部を29日迄に明け渡すよう最後通牒を発した。我々の勇士が日本軍から取り上げた武器を引き渡さねばならないとされ、従わない場合連合軍は徹底的な攻撃を加えるというものであった。これはインドネシア軍にとって忘れられるものではない。以来連合軍との闘いが交されたが武器が少ないTKRはバンドン北部を維持できなくなり最後は連合軍が支配することとなった。
1946年3月23日連合軍は第2回最後通牒を発しバンドンの南部も明け渡すよう要求した。
1946年1月24日よりTKRは既にその名前をTRIに変更していたが、従い政治的に又人民の平穏を願い政府はTRIと全ての他の戦士に引き上げバンドン南部を引き渡すように命じた。協議の末TRIは政府の命令に従うが南部をのまま全て引き渡すことは望まなかった。
住民もバンドンからの引き揚げに従い、全てのTRIの兵士も辛い気持ちを抑えながらバンドン南部を後にした。バンドンを引き揚げる時、TRIの戦士はバンドンを焦土化した。この事件はBandung Lautan Apiバンドン火の海事件として知られている。
Mohammad Toha、このインドネシアゲリラ民兵はオランダ軍本部の近くのDayeuh Kolotにあった日本とオランダ軍が守っている大きな爆薬庫にダイナマイト棒を仕掛け爆破し自らも爆死した。それがバンドン火の海事件の最中であったかは定かではない。今この近くのメイン道路はMohammad Toha通りとなってバンドンでは英雄であるが政府の英雄認定は未だのようである。
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