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2009年5月18日 (月)

バタビアの中心はMiddelpunt 

バタビアの古き時代からバタビア市庁舎があったFatahilah広場が、バタビアの中心であると思っていたが、昔の地名を見ながら此処こそがバタビアの中心だと気が付いた。それがMiddelpuntでMiddelとはMiddle、PuntはPointとであるから中心点となる。Abmay_09_batavia_136
現在のJln. Kopi(当時のUtrecht 通り)からFatahilah広場の北の端に至る道のKali Besarに架かる橋がMiddelpunts Brugと言われたもので昔「ジャラン・コピは兼松のふるさと」(07年9月10日)でこのブログで紹介したこともあった。
ガジャマダ通りを北上しピントゥ・ブサールからコタ駅前、マンディリ博物館前の道へ、其処から更にカフェ・バタビアに向かう道がバタビアの東西を分ける中心線だと思うとファタヒラー広場が中心になるわけであるが、この通りでなくカリ・ブサールが中心線である。カリブサールの東側にはワヤン博物館のある並び、それから歴史博物館のある縦のならび、及びその東隣のセラミック博物館のある並びと三つのブロックに分けることが出来るが、カリブサールの西側(Jl.Kopi側)も三つのブロックはあまり有名な史跡は残ってないが確かにある。
南北の中心はこのMiddelpunt Brugで北にはバタビアホテルの前の吊橋、南はチャータードバンクに出てくるJl.Bankの橋がありなるほど真ん中であることが確認できる。
この東西の三つのブロックは少し東側が南にずれている為、Middelpuntは真ん中でなく東側では北と錯覚する。東側には南にグロドックの袋状地区が、西側には北海岸にZeeland砦があるからでもある。Abold_batavia_1650_2
MiddelpuntをMPと記入した地図を掲げたがこれを見るとよく判る。但し東側のバタビア城はずっと北にあり、Bの歴史博物館の北側の綺麗なブロックは今は、バタビア城と共にその形をとどめるものは残っていない。

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インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事

コメント

西見様

お久しぶりです。相変わらずの各地探索と健筆に敬意を表します。
Jl. Kopiに入る橋が、Middelpunt Brugと呼ばれていたとは、初めて知りました。
ところで、参照されている古いバタビアの地図ですが、西暦何年頃の地図でしょうか?
実は、私の手許にある1650年当時のバタビアの地図とほとんど同じなのですが、橋は現在のJl.Bankの橋のみで、通りの名前は、Brugstraat(Bridge Street)となっています。
この頃のバタビアの発展は著しいようで、1627年の地図では、Kali Besarの西岸は、まだ開発段階の様相です。
それが、30年足らずで、地図に見るバタビア市街になっています。
その意味で、Middelpunt Brugが記されている地図は、1650年より若干後の17世紀後半ではないでしょうか?。
西見さんがご指摘されたバタビアを東西に分ける中心線はKali Besarというご意見は、17世紀前半に東岸の市街が整備され、1650年前後に西岸の市街が建設されたという歴史から判断して、ごもっともと思います。

投稿: 広沢 勉 | 2009年5月20日 (水) 17時08分

広澤様

ご訪問有難う御座います。あの地図はHeukenの書籍からのスキャンでご指摘の通り1650年となってますが、計画図かも知れませんね。他に1619年のものをジャカルタ歴史博物館から昔もらったのがありますが、こちらは未だ
市の形になっておりませんので其処からみても貴殿の1627年の姿はやはり急速な進歩があったのでしょう。
次回アップしてみます。
ブログのコメントはセミオープンにしました。すみません。

投稿: 西見恭平 | 2009年5月21日 (木) 11時10分

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