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2009年6月の投稿

2009年6月29日 (月)

モスキート音とLG エレクトロニクスの強み

未成年の若いひとには不快音に聞こえる高周波のモスキート音の発生装置で深夜公園にたむろする若者を退散させる装置を設置した足立区で逆に装置が破壊されたというニュースがあった。ソマリア海賊撃退にも使われる事もあったが最近では携帯着音にも使われ先生には聞こえず授業中にメールする学童もいるそうだ。其のニュースを読んだ日、NNAでLG インドネシアが家電トップになった記事があり、モスキート音で蚊を撃退するエアコンや鳥インフルに殺菌力を持つエアコンを販売した企画力が紹介されていた。同日また日本のテレビでは果し合い場所を示す為に使われるナビゲーターのコマーシャルが流れていた。
LGはMM2100に大きな工場を持っている。インドネシアは2工場で4,800名以上を雇用、1990年来200億円以上の投資をやってきたそうだ。ポストBRICsを睨んで社会貢献など現地化にも力を入れており、サービスセンター計177カ所、取り引き店舗1,204カ所という、トップクラスの流通網も確保し現地の学校などにエアコンやパソコンを寄贈するなど、現地での社会貢献活動も忘れない。
LGエレクトロニクスは、世界各国に110拠点を展開している多国籍企業。 エアコンでは7年連続世界No1,テレビも1位のサムスンに次いで健闘している。液晶モニターやドライブなど技術力も高そうだ。 LGの名前はつい最近の1997年からで、それまでは1958年設立の金星社(GOLDSTAR )でそのGoldstarと合併したLucky(トイレタリー)の頭文字から来ている。今年からF1の公式スポンサーにもなっている。
複雑な気持ちであるが教訓とするところ大である。

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2009年6月28日 (日)

Kota-Tanjun Priok線は間もなく開通

アンチョールの運河沿いに使われてない鉄路がある。コタとタンジュン・プリオクを結ぶ線で線路上には不法住宅が建っていたり、遊び場になっていた。昔タンジュンプリオクに行きオランダ時代からのタンジュンプリオク駅を訪問しこのブログにも書いたが、駅も使われてなくもったいないことをするなと思ったものである。このあいだ此処を通って線路の整備工事を眼にした。運ちゃんによるともう直ぐ汽車も走る予定だという。Aancol_kemayoran_038
写真1は5月末、クマヨラン付近で線路を渡った時のもので立派に完成した部分である。タンジュンプリオク線はアンチョールで真っ直ぐコタに行くものと、南のクマヨランのラジャワリまで行く線(こちらはそこで東線に乗り換えジャティネガラに繋がる)がある。Ajuand_ancol_tanjung_028
写真その2はアンチョール遊園地入口付近からコタを望んだものであるが、使われていたのであろうか?タンジュンプリオクとアンチョールの近くのパデマンガンまでは既に使用可能(写真1)となっており、パデマンガンからラジャワリには4,000の不法侵入者がおり、7月から追い立てが始まる。
一方でタンジュンプリオク駅はリノベが完成しているようで、試験運転がBekasi、Cikanpek向けに実施されたニュースもあるが不思議な話だ。タンジュンプリオクから東に伸びる線路はないはずでBekasiに行くにはアンチョールに戻りそこから不法占拠者がいるラジャワリ経由ジャティネガラを出発しなければいけないはずだからである。以前にも日曜にはタンジュンプリオクからとジャティネガラから2本、アンチョールまで観光列車が走っていたというがこれも何処を走っていたのか不思議である。ジャカルタ鉄道事情はAsian Railway PlazaさんやYopieさんが詳しい。

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2009年6月27日 (土)

市制482年のジャカルタの反省

先にZeeburgで足を入れたLuar Batangはジャカルタで最も貧しい地区である。この貧しい地区を案内するNPOがあり、豪州の人達が此処を訪問していた。ここを見学するにはやはり何がしかの金を置いていくものらしい。ジャカルタはこの6月22日でジャカルタが誕生して482年の誕生日を祝っているが、まだまだ多くの進歩に取り残されたものがある。洪水問題も古い問題である。交通渋滞、水不足、空気・河川の汚染問題も深刻さを増している。Akota_2008_mar_057
トランスジャカルタというバスウエーも問題を抱えているようである。快適、便宜、信頼、安全が感じられない限り人々は乗用車から離れられない。特にカバー範囲、接続の点から不十分である。バスは冷房があるが駅にはないので接続駅ではごった返している。1日の利用者は24.5万人というが、ジャカルタ人口が夜間800万、昼間1,200万から考えるとこれでは足らない。地下鉄の建設が急務である。但しファタヒラー見学にはバスが良いと思う。とバスの女性ドライバーが笑って言った。

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2009年6月26日 (金)

このHSBC古写真は今のこれ?

HSBCがインドネシアに支店を設けたのは1884年である。 Forbes Asia誌の最後のペイジはA Look Back in Timeと言うペイジで古い写真付きのコメントがある。6月号にはHSBCの最初の支店の写真である。特徴的な部分があるので小生のアルバムに探しに出かけた。最初の感が見事に当たり見つけたのが下の写真である。Ahsbc_batavia_branch Asep07kali_besar_barat067


19世紀、蘭領インドネシアは今までのスパイス貿易の重要性が落ちてくると政府はこの植民地への民間投資をオランダ以外に開放自由化することにした。この結果、砂糖、コーヒー、ゴムのプランテーションが注目され繁栄した。HSBCはこれらの産業に融資を行い好成績を挙げた。19世紀アジアの金融界でSir Thomas Jaksonに率いられたHSBCは最大の地位を占めるようになった。20世紀の終わりにはHSBCは世界的企業となりこの国にも支店網を持つ125年の歴史を誇っている。写真は何でも取っておくものだ。

PS 2017年3月13日 このビルはその後商業会社が入ったりしたが現代(?)タンボーラ郡の税務署となっている。
ブログ タンボーラ税務署を参照。

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2009年6月25日 (木)

これも大発見のBenconの墓

Benconとはバタビア中国社会の最初のカピタンである。総督クーンがバンタン・イギリスを駆逐してバタビアを宣言した1619年の早くも10月11日に指名したもので、その伝記は昨年9月7日にブログした。Amay_09_batavia2_048
シオン教会からパンゲラン・ジャヤカルタをグヌン・サハリに向かって走る道の少し道が右にカーブする所の小さなGang Tarunaを見つけられず諦めたが今回はゆっくり1軒1軒確かめて人に尋ねたところが入口だった。貧しい中国人などが住む暗くて臭い家の間を50メートルほど中に入り右に折れるところにその墓はあった。Abencon_may_09_batavia2_044
墓銘は左がオランダ語、真ん中中国名、右はオリジナルの中国語のようである。写真を拡大してみたところ左の下にKhouw Kim Anとの名前が読めたがこれは小生の大発見である。 BenconことSouw Beng Kongは最初のカピタンで1644年になくなったが、Khouw Kim Anはこのバタビア中国の最後のカピタンなのである。これもつい4月22日のブログで紹介したが、Heuken の記述にはBenconの墓は1909年に発見され1929年に中国ビジネスマンにより修理されたとのみ書かれている。
Khoaw Kim Anは1897年生まれで1910年から1942年までKapitan(Mayor)を2回勤め、又 1921年から1931年まではVolksraadの議員で、1945年に日本軍に囚われ亡くなっている。

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2009年6月23日 (火)

意外なるインドネシア・オープン

先日のブログで中国一色との感のあるバトミントンの世界に、何か起こりそうな気配を感じて感想を述べたが結果は意外なる結果であった。
中国は5つの種目の内1個だけの金メダルしか取れなかったのである。又インドネシアは最大の願いのホープも世界NO.1 の前に金メダルゼロである。
結果は
男子シングル:金:マレーシア、Lee Chong Wei 世界ランク1位でインドネシアのTaufik Hidayat.を下す。
Chong Weiは準決勝で中国のChen Jinを下した。 インドネシアのTaufik 28歳、
インドネシアの最強プレーヤーで6個のタイトルを持っている。(準決勝はインドネシアの
Sonyであった。)
女子シングル:金:インド、Saina Nehwal、19歳、世界8位のランクが、世界3位、中国のLin Wanと対戦し下す。インドは初優勝。
男子ダブルス:金:韓国、Lee Yong Dae / Jung Jae Sungで対戦は中国のFu Haifeng / Cai Yun中国に。 インドネシアのMarkis Kido-Hendra Setiawan は準決勝でLee Yong組に負け。
女子ダブルス:金:マレーシアChin Ee Hui / Wong Pei Tty 、対戦相手はオリンピック銀メダルの中国
Lee Kyung Won / Lee Hyo Jung。
混合ダブルス:金:中国 Zheng Bo/ Ma Jin)、対戦相手は韓国。中国は3年連続のタイトル

タバコの Djarum がスポンサーとなりnational indoor stadium Istora Senayanで行われた。今後も世界戦に向けた闘いが続くので関心を持ち続けたい。

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2009年6月22日 (月)

北の砦ZeeburgとGroningen 新観光スポット

昨日登場させた、プラサスティのポルチコ・ホールの墓名版に出ていたBollanが立てたであろう倉庫を見つけた。Pluitからこのスンダクラパに出てくると正面に大きなアパート(Mitra Bahari Apartmen)が見えてくる。
ここは昔のパッサール・イカンの奥まった外れに位置するので何かあるはずだとこのアパートの裏手(海と思われる地域)に回ってみた。Alingkar_batavia_jun_609_030
少しスンダクラパの方向を覗き込みながら進むと崩れた壁の一角から大きな倉庫群が見えた。なんと其処は海洋博物館の西のはずれが見えるのでオランダ城壁都市の北の砦Zeeburgであった。とするとさっきアパートの横を入ってきたその入口辺りはこれまた西北の砦Groningenに当たる。そのような解説は何処にも見つからないが小生が見つけた新しい観光スポットとなる。このBolanが建てた場所にある倉庫は西端倉庫(Westzijdsche Pakhuizen)と呼ばれたがその背中側がバタビアの城壁となり更にその向こうにはパッサールイカンの方からの運河(海の侵入部)がある。その向こうがLuar Batang地区である。この倉庫の右側には同方向に並ぶ四つの倉庫の2連がある。その間は低地となっているのか300年来水が引いた事もないような沼地となっている。こんな所にどのような人が住み着いたのか知らないが、この沼地にボートを漕ぎ出す住民もいたり、或いは入口辺りでは道の半分をケバケバしく飾り立てた結婚式の会場を設置していた。A
何処から住み着いたのかと疑問が湧くのはつい最近1990年代央でも、この一帯は海洋博物館からこのアパートに掛けてこれら倉庫群以外は何もなく真っ黒な腐った土がごろごろしていた地であり、この倉庫の写真を除きまわりは開発されているのであった。

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2009年6月21日 (日)

Jaques de Bollanもプラサスティ

プラサスティのポーチコホール(Portico:柱廊式玄関)には多くの墓石板が埋め込まれている。Ajaques_de_bollan_dscn0126
玄関に入って中央の木製ドアー入口に向かって右側の一番目にあるのがベルギー人商人のJaques de Bollanのものである。彼は1663年ごろバタビアの最北端のZeeburg砦の西側に丁子や胡椒用の倉庫(Pakhuizen)を所有していたそうだ。紹介板には彼は孤児院(Yatim-Piatu)を経営していたともある。
この倉庫は現在も2代目か3代目かの倉庫として繊維会社の保有していたが、完全倒壊を待つばかりである。これはZeeburgとして別途紹介しよう。
1684年71歳で亡くなったとある。彼の墓はプラサスティ墓地公園の中で古い方に属する。

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2009年6月20日 (土)

究極のノスタルジー バタビアのレストラン

Asbbmay_09_batavia_037
コタ・バタビアで食事するなら有名な所はCafé Bataviaでここは24時間営業だったと思う。次にはホテル・バタビアのレストランだが、一寸前はパッサール風であったが今やそのような雰囲気は失われている。横のディスコの方が面白いかもしれない。或いは大昔の造船所跡にたつ幾つかのシーフードである。皆規模が大きいが其の中でVOC Galanganはバーもあり入りやすいだろう。小生の究極はバタビア城内にあるシーフード・バンダール・バタヴィア(SBB)である。 お昼、外に出てきた男にここはバタビア城跡かと聞いたがキョトンとしてガッカリしたが、此処はJln. Tongkolの真ん中にあるまさにバタビア・ダイヤモンド城の丁度真ん中に当たるはずである。お城はオランダ語でKasteel、インドネシア語でBentengというがCastleと英語で叫んだので通じなかったのであろう。勿論建物なども新しくお城の名残は何にもない。 深海鮮と銘打っているので深海魚でも食わせてくれるのであろうか。

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2009年6月19日 (金)

面白くなくなったかバトミントン インドネシア・オープン

なぜかバトミントンのニュースが入ってきた。今インドネシアオープンをやっているのだ。ここで世界NO.1のマレーシアのLee Chong Weiや中国のオリンピック優勝者のLin DanベテランWong Choong Hann、等が順調に勝ち上がっているというものだが、インドネシアではSimon Santoso やSony Dwi Kuncoro も勝っている。マレーシアで強いのも中国名でバドミントンの世界は今や完全に中国人に握られている。前回の北京ではインドネシアは男子ダブルスでMarkis Kido-Hendra Setiawan が金を取ったが他は中国勢であった。2年置きのトマス・ユーバー杯では中国が男子は3連続6年間、女子はなんと6連続12年間優勝しているのである。トマス・ユーバー杯は2008年ジャカルタで行われたが2010年はクアラルンプルで行われる。その間の2009年は世界バドミントン連盟(BWF)がスーパーシリーズをやっている。1月から順次マレーシア・オープン、コリア・オープン、シンガポール・オープン、インドネシア・オープンなどやってきておりこれからもフランス・デンマーク・ジャパン・チャイナ・オープンから年末のファイナルが行われる。又8月には世界選手権も行われる。日本のオグシオや佐々木、石井、佐藤選手などもいるので少し関心を持ってみてみよう。

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2009年6月18日 (木)

禁煙どころでないインドネシアタバコ産業

インドネシアタバコメーカー大手のBentolがBAT(British & Ameriican Tabacco)に其の85%を奪われたニュースが流れた。
85%の取得は6月15日の株価Rp730 の2割アップで購入、総額US$ 4.94 億の投資である。この購入はPT Rajawali Korpora等が保有していたもののほか8月までにTOBは完了する予定である。BentoelはStar Mild,やSejatiというブランドで年間177億本の生産を行っている。.これはインドネシアタバコ市場の7%、第4位にランクする。インドネシアは世界第5位のタバコ消費国で年間2,500億が消費されている。第1位のサンプルナはPhilip Morrisの軍門に下っっており、いずれ全て米国資本に取られてしまうのではなかろうか。そう言う中で官憲は首都で禁煙条例の徹底の為、各ビルの検査が強化されているが、少し背伸び過ぎの嫌いを感ずる。
小生はタバコの吸い過ぎによるタバコの謂わば被害者ではあるが、禁煙も、何でも行き過ぎはよくない。

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2009年6月17日 (水)

ジャカルタの活況は一見の値

ジャカルタフェアーが始まっている。7月12日までの1ケ月間、クマヨランのEXPO会場で、インドネシア語ではPekan Raya Jakarta (PRJ)ある。昔はモナスで行われていたもので第1回目はスハルト時代の1968年7月20日であった。これもアリ・サディキンのイニシアティブによるものであった。
原形はオランダ時代のガンビール広場(モナス)でのNight Marketであるが、KADINとの協賛による産業博覧会としたもので、又このときからジャカルタ市の誕生を6月22日としてこのお祝いの毎年の行事としたものであった。モナスで行われた時代は若い時だったからか、何度か行ったことがあるが1992年に変わったPRJには1度程度しか記憶がない。モナスのときは7haであったがPRJは44haの広さである。
Ajiexpo_019
近代産業・貿易博と銘打っているが同時に遊覧博でもある。期間中4百万の来訪が計画されているが、相当な混雑でチケット購入、食事場所、会場案内不足、便所、駐車場と問題が沢山あるようだ。
入場料はRp15,000(平日)と据え置き、シャトルバスもあり毎日有名なアーティストがでる。新聞では以下の人達の名前が出ていた。
Iwan Fals、Nidji、Padi、Mulan Jameela、Kuburan、Efek Rumah Kaca、Slank、Tony Q Rastafara、 Peterpan、 Shaggydog、Alexa、Ello、Maliq & d'Essentials、Changcuters.、Ungu
博覧会での契約成立額は毎年増えてきており昨年はRp2.7兆であったが今年は世界金融危機の中でも3兆ルピアを見込んでいる。元気なジャカルタである。写真はゴルフ帰りに見た会場の遠景である。

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2009年6月16日 (火)

突き止めたTanda Bhaktiの正門

コタのピントゥ・クチールのTambora通りを南に下ると立派な中国寺院の屋根が見える。1650年からあるVihara Tanda Bhakti寺院である。Apetak_sudirman_049
此処は最初に勝手に証献寺と名ずけ昨年11月7日に紹介したが、運河沿いに見える側がお寺の裏側なりとしてその正門への行き方はSanta Maria Fatima教会に面する祠(河西門)の奥だと説明していた。1月21日その奥を訪ねたが其処にはあるはずの証献寺はなく小さな祠が二つあるだけだった。このミステリーを暴く為再度Fatimah教会に行き、尋ねて尋ねてやっとわかったことは、まだ正門まで回ってないことと、運河側に見える屋根はお寺の裏側でなく正門だったことである。正門に回った積りのFatimah教会の道を進み左に回りながら運河沿いをUターンして正門に行けるのである。しかし車は1台がやっと通れるくらい細い道で辿り着いても駐車場はない寺院で意外と小さくその日は人一人いない寂しい日であった。或いはTambora通りに駐車して車は禁止の木橋を渡ればよい。ピントゥクチールからは運河の左側を構わず進んでくると此処である。運河を渡ってしまうと又Tambora通りとなる。寂しいと書いたがこの寺院は最近リノベされたものか彩色鮮やかな明るい寺院である。

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2009年6月15日 (月)

香港空港事情 その5

ジャカルタ行きをキャセイにしてから3回、其の都度香港空港の事情を書いた。2/9、3/14、4/14、5/17のブログである。前回まで香港での成田乗り継ぎ時間はたっぷりありすぎた記憶だけあり、今回その積りでゆっくりしていたら危うく乗り過ごすところであった。ジャカルタ発CX718は以前より早くなり8:20である。朝4時起きの睡眠不足で香港トランジット便の時刻を見ていなかったが、それは14:10着でトランジット便の出発は15:00だったのである。従い成田着も以前より1時間早く20時となっていた。
今回は荷物再検査後出てきたゲートは20番近辺、乗り継ぎ便のゲートは66番である。今回のゲート番号は前回までのあやうやさはなく機内テレビでちゃんと出ていた。大成長である。但し機内テレビの表示は直ぐチェンジする為全部読みおおせれない。どうもボーディングカード持っている客はトレーンが利用できるようなことが出ていたので機内添乗員に確かめて見るとトレーンは無料との事であった。早速乗ることにした。20番から36番(両端のみの往復である)2分弱間隔の2分で到着である。この時トレーンを利用しなかったどうなっていただろう。
成田行きは乗客がやはり少なく快適なワインを味わえたが、ジャカルターHKGは95%の乗客率、横に座った中国おばさんの貧乏ゆすりと大グループで乗ってたため大声で喚くのには閉口した。2回も勝手に小生の手首を捲り
時計を覗き込む可愛さもあったが。。

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2009年6月14日 (日)

サンジャヤ朝のモスク

今日もSanjaya通りを通った。Bob Hassanの家があるともう2年も前の10月23日に書いたが其のときはBobの経歴などにふれた。今回はSanjayaについて書くと;Asanjaya_jun07_menten_kbaru_022
サンジャヤ王の存在が記されており、サンジャヤ王家として古マタラムに繋がる。
マタラム王国と言うのは新マタラム(イスラム・マタラム)と古マタラム(Kerajaan Mataram Kunoヒンドゥーブッダ)があり、更に古マタラムはサンジャヤ王朝とサイレンドラ王朝に分けることもできる。日本の南北朝と思えば良く並立していた。サンジャヤ王朝はサンジャヤ王が717年から8世紀中葉に中部ジャワに興したシヴァー・ヒンドゥー教国である。ところで、ある文献ではサンジャヤは最初のガルー王国のWretikandayun王の曾孫で、3代目ガルー王の父の時代にパクワン(現在のボゴール)に征きタルマネガラはスンダ王国とガルー王国に別れたものの様で彼はスンダ王国ではプラブ・ハリスダルマ王と呼ばれその後のガルー王国を含めたさらにKalinggaを含む広い地域を征服したとき(732年)からサンジャヤ王としてサンジャヤ王朝を名乗ったものの様である。ヒンドゥのサンジャヤ朝には悪いがBob家の前のイスラム寺院をアップロードした。少しヒンドゥー的にも思えるのだが。。


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2009年6月13日 (土)

AKAとDEKA

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バンカのGedung AKAはアリムルトポのお城と紹介したが其処からテンデアンの降りてきてパッサールサンタへ向かい飛行機学校の横に同じような名前のDEKAと言うビルを見つけた。建物は一寸洒落ているが、別にDEKAに意味あることは見つからずそれは会社の名前であった。正式にはDeka-Marketing-Researchというリサーチ会社でそれについて書くと宣伝の応援になってしまう。
1985年に企業戦略、マーケティングプロジェクトを専門とするDEKA Consultantsとして設立Door-to-door interviews、やPsycho-Dynamic-Motivational Researchなど多くの方法での調査が得意のようで大手のお客がついている。リサーチ会社には国際ネットワークのIRISとかいう機関があるようだがそのメンバーとなっている。Irma Malibari他5人ほどのキーパーソンが出ておるが年の為一人だけ出しておこう。

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2009年6月12日 (金)

ボゴールのホテルはSalak

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BogorのHotel SalakからBrochureが届いた。 Hotel Salakはオランダ時代の1856年に建設され、当時Binnenhof Hotelと呼ばれていたそうだ。捨てるのも忍びないのでメモを取ったが、ボゴールは1時間圏内なので何か使えるかも知れない。ボゴール宮殿での公式の行事の際などにもこのホテルは利用されるが、多くの会議室を持ちルーム数は120である。近くの 系列Medina Pajajaranで半日会議をやる場合一人当たり Rp120,000で利用できる。1日の会議の場合でも食事1回にコーヒー2回付きでRp140,000、宿泊の場合はStandardで254,100である。但し割引適用の場合である。電話:251-8373111

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2009年6月11日 (木)

Suryadarma大学は航空と無関係

ハリム空港の入口、Pangkalan TNI-AU空軍基地の横にUniv.Suryadharmaと言うのがあった。
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略してUNSURYAというがこの名前のSuryadharmaと言う人はインドネシア空軍にとってハリムと並ぶ、以上に貢献した人のようである。「オランダ独立への道」という本に紹介が出ていたが、それによると;
R.Suriadi Suryadarma (1912-1975年) バニュワンギ出身、オランダのブレダ陸軍士官学校卒業、蘭印軍に入隊、38年に空軍飛行機学校を卒業、教官を経て、日本軍政時代はバンドン警察など勤務、独立後空軍の創設に尽力、46年空軍初代参謀長に就任、48年オランダに逮捕されバンカ島に流刑、49年ハーグ円卓会議に参加後空軍参謀長に再任し60年代まで国務大臣も兼務しながらペルメスタなど全国規模で荒れる時代の空軍に尽くした。
最後は66年の郵政・通信大臣である。
タンゲランのスカルノハッタ空港の裏手に伸びる道路にもこの人の名前が付いている。という事でUNSURは航空関連の大学かとも思ったが、WebにはMagister Manajemen 経営学科(修士)とあり、飛行機とは関係がないようだ。

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2009年6月10日 (水)

ManoharaさんはGanyang Malaysiaの関係

テレビを見ていたらマレーシアの観光省がマレーシアの観光映像を紹介していたが、その中にラフレシアの巨大な花が出ていた。あれっラフレシアはインドネシアの花ではなかったかと調べるとこれはマレーシアにもあり、中でもグヌン・ガディン国立公園では開花状況を把握していて、此処は見ることの出来る確立が高いそうだ。確かめてはないがマレーシア国歌トランブーランもインドネシア生まれだと思っていた。多分Nona Manisもそうかも知れない。それほどインドネシアとマレーシアは近くで似たもの同士なため仲が悪いようだ。
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先週はマレーシア土侯に嫁いだインドネシア人の未成年若妻(17歳)が家庭内暴力(DV Domestic Violence)を受け劇的救出をうけたマノハラさん(父親は米人)の話があるが、ウエブではマレーシア批判が殺到していたそうである。又カリマンタン東沖のアンバラット石油ガス鉱区付近にマレーシア軍艦が侵犯し、両国海軍で緊迫したことも同じ先週である。昨年にはPonorogo伝統劇の奪い合いもあったが、このマレーシアの態度とインドネシア側の憎しみはスカルノのマレーシア対決時代から来ているのであろうか 当時のスローガンが最悪な打倒の言葉Ganyangであったが最近のデモのプラカードはSikat Malaysia“マレーシアをやっつけろ”である。

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2009年6月 8日 (月)

スンダクラパの繁忙

Alingkar_batavia_jun_609_049
久し振りにスンダクラパ港に行ってきた。ペニシ船が連なる古いイメージの記憶があり、寂れ行く一方だと思っていたが、奥の右手は現代の貨物船がひしめき、貨物の積み下ろしに大忙しであった。
ジャカルタの歴史の第一章はここスンダクラパ港であり、ジャカルタ観光のツアーではスンダクラパがスタート地となる。なにしろこのスンダクラパはイスラムのファタヒラーが、パジャジャラン・ポルトガル連合より奪い取り勝利の町ジャヤカルタと宣言した土地でありその日がジャカルタの誕生記念日でこの6月22日で482周年記念日を迎える。またこの地にオランダが最初の城砦を築き、バタビア誕生の第一歩を記したわけで、その当時の海からジャカルタを望もうと思って来て見たが、Alingkar_batavia_jun_609_044
奥へ奥へ進めどを海岸には貨物船が連なり舷側にトラックや貨物で海面を見ることすら出来なかった。
又この地のLookout Towerや造船所跡地の近くに税関事務所・港湾事務所があったはずで、1887年にタンジュンプリオクが開くまでAnkerwerfとかGroote Boomと呼ばれていたとのことであるが、これが何処かは判らなかった。

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2009年6月 7日 (日)

ミスインドネシア2009 

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毎年のことであるからニュースではないが悪いことではない。昔は禁止されていた時代もあったのであるから尚更である。しかし審査基準がひょっとして世界基準に達してないかもしれないが、いずれにせよ今年のミスワールドに向けたミスインドネシアはジャカルタ特別州代表のKarenina Sunny Halim22歳と決まった。全国32州が残らず参加した中での女王である。5位まで挙げると下の通り島で重複することはないが、難しい島もある。カリマンタンは6位であった。 Kareninaは余り聞かない名前であるが、両親がKaterina時代であったかもしれない。
*Miss Indenesia 2009 : Karenina Sunny Halim (DKI Jakarta)
* The 1st Runner-up : Melati Putri Dewi (Sulawesi Barat)
* The 2nd Runner-up : Viviane (Bali)
* Ratu Vicka Dewi Asri (Jawa Tengah)
* Leida Margaretha (Sumatera Selatan)

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2009年6月 6日 (土)

5月のインドネシア投資環境トピックス(09年)

* ASEAN +3、通貨スワップ多国間化合意
* 総選挙結果発表、民主党 20.9% 57->150議席、ゴルカル 14.5% 127->107、PDIP 14% 109->95、
PKS 7.9% 45->57、PAN 6% 53->43、PPP 5.3% 58->39、Grindra 4.5% 0->30、PKB 4.9 52->26 
ハヌラ 3.8% 0->15
* VW,インドモビールと組み立て生産開始の計画発表
* 国産品使用指針の工業省令
* 地上波デジタル・テレビ放送の試験放送開始
* 国軍輸送機墜落101人死亡
* 横河現法設立、ミクニ工場開所、INAX、American Standard買収で進出、三浦のボイラーも。
* 道路交通法改正案 国会通過
* 西カラワン第2料金所開設、カラワン工業団地(KIIC)の資金拠出で実現
* 3大統領出馬確定、SBY、メガ、カラ、+ブディヨノ、プラボウオ、ウイラント 共に将軍コンビ
* ソロス系中国HNA、PT. Global Putraと提携でイでの航空・ホテル事業へ
* カタール首長来イ:10億ドルの合弁会社設立で投資促進へ。
* 09年イの競争力、世界57カ国・地域中42位、前年より9位アップ:スイスIMD発表。
* パプア独立派武装集団がマンブラノラヤの空港を占拠、25日現在も交渉難航
* フェースブック利用禁止:不道徳的な男女交際とNUがファトワ(宗教令)。賛成派批判も。
* アンバラット石油ガス鉱区(カリマンタン東沖)付近にマレーシア軍艦が侵犯、緊張化

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2009年6月 5日 (金)

アリー・ムルトポの城

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ジャラン・バンカのジャラン・テンデアンよりの小さな道に大きな建物がある。最近また宮殿のごとき建物も出来たが近寄ると怖いのでその調査はマダであるが、それと向かい合って立つのがGedung AKAである。ここで業師アリムルトポがイリアン作戦のインテリジェント活動を行った拠点と聞く。今は古くなって使いようもない図体となっているが、Aapr_11_015
これをテンデアンの新しいプラザの裏奥から覗いたのが写真である。このプラザも入ってみると思いのほかゆっくり出来そうなよさがあるが、アクセスがわるいからなのかもひとつ人気がなくガランドウである。
今日は二つの写真を並べておこう。
アリムルトポが登場する事件は多いがこのブログで既に紹介したCSIS(5月4日)との関係も深い。スハルトのアスプリ(個人補佐官)としての盟友スジョノフマルダニSoedjono Hoemardhani,とともに、1971年に、ユスフ・ワナンデとハリー・チャン・シラライにつくらせたのが国際戦略研究所なのである。

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2009年6月 4日 (木)

パッサールパギ朝市プラザ

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パッサール・パギといえばコタのピントゥ・クチールとアセムカの間にある通りであるが、マンガ・ドゥアのITCモールが出来てからITCの横にもパッサール・パギが出来たようだ。 朝市と言う普通名詞であるので名前を取るのは構わないものの、こちらのほうは寂れていくばかりである。此処は又一方通行だったと思うが、何時も東側の方から来ることになり、東側は中々なじみのない地域だと言うことも寂れる理由だろうか。このとおりの真ん中に中国風の豪壮なプラザがあるが、どうも1階だけが歯抜け状態で店を出している感じで中国人も元気がない。東側散策を続けたいと思うが、何時ぞや
中国寺院や古モスクを訪ねたPekojan辺りまで、この一帯歴史的に古い町であるが訪れる人は少ない。

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2009年6月 3日 (水)

バタビア城(Kasteel)の誕生

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バタビア城の誕生は1610年に遡る。其の頃のオランダは既にバンタンをポルトガルから奪い商館を築いていたが、バンタンが支配するスンダクラパに進出すべく1610年木造の倉庫を建てる許可を取得することができた。このときのこの根拠地はオランダの王家の名前からNassauと名付けられていた。1613年から約束を反故にして着々と石作りの要塞化に着手、1618年にはMartiusと名前を変えた要塞が完成していた。バンタンのジャヤカルタ(スンダクラパ)領主ウイジャヤカルタはオランダと対抗する為、イギリスにも商館建設の許可を与えた。オランダが得た土地は現在のチリウン河(カリブサール)の東側であり、ウイジャヤカルタが治めるジャヤカルタ地区及びイギリスの商館は西側である。
1618年12月マタラム王国がバンテン王国と結びオランダの商館を破壊する挙にでたが翌年第4代総督に任ぜられたクーンはここを拠点とする大決心をし、更に要塞を改造、逆に対岸のジャヤカルタ王子と戦線を張るイギリス商館を焼き払った。 ここに蘭英の大戦端が開かれたのである。イギリスは元アメリカ大陸バージニア総督であったトーマスデールが指揮するイギリス海軍15隻を派遣、要塞のオランダ商館を攻撃した。クーンはモルッカに停泊しているオランダ艦船を増援に連れてくるために脱出、その間イギリスとジャヤカルタ軍の宗主バンタンとの間に生じた不和を乗じてであった。4ケ月後クーンは14隻の艦船を引きつれ戻ってきてイギリス軍を追い払うことに成功した。これが1619年のバタビアの誕生である。
その後オランダは1650年までにはカリブサールの東西を壁で囲むウオールシティを完成させていた。この誕生のいきさつから旧バタビアも東側の方が建設が進んだことが判る。
写真はLookout Towerからの遠景であるがこの辺りと言う感覚だけである。

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2009年6月 2日 (火)

Rachの時代の浮世絵

Rachがバタビアで大胆な遠近法で風景画を描いていた1700年後半は日本でも浮世絵に浮き絵という遠近法が取り入れられた。 15世紀イタリアで生まれた遠近法理論は、やがてヨーロッパ全土に伝わり、18世紀の江戸時代にはオランダを介して日本にも伝わったのである。そも浮世絵は西鶴の『好色一代男』(1682)の挿絵を最初のものとされているが、遠近法の芽ばえは早くも1745年頃、奥村政信が「芝居狂言舞台見世大浮絵」を描き、1750年代後半頃、円山応挙の眼鏡絵(浮絵と同じ)が、更に1770年頃歌川豊春が 「浮絵浅草仁王門」や「浮絵駿河町呉服屋図」を作成、浮絵時代を現出した。浮き絵は又へこみ絵(くぼみ絵)と呼ばれた。日本には、直線的に建物や道路が整然とした景観をつくっているような風景は少ないので、浮絵には、芝居小屋など広い屋内の様子が描かれることが多かった。その他に 司馬江漢の作とされる東海道五十参次画帖は、数学的遠近法の理にかなったものといわれ、葛飾北斎の神奈川沖浪裏、歌川広重の東海道53次も浮き絵の代表作である。
海外へ流出した浮世絵は20万点以上もあると言われるが。それはそれだけ絵師や版元が安価に大衆に提供したからであり、明治時代以降、日本が浮世絵を軽視したからでもある。未だ日本には其の数倍の作品があるそうだからホットする。こうして流出した浮世絵は19世紀の後半にパリで、モネらによる印象派の運動が起こると、高く評価され、その作品に影響を与えジャポニズムを生み出し、アールヌーボーに繋がるわけである。

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2009年6月 1日 (月)

バタビア城の砦と今

5月25日のブログでバタビア城の4っの砦の名前を一番右端南が1. Diamant、時計回りに2. Saffier、3. Robin、4. Paarelと記述したが、この参照にした地図は昔、ジャカルタ歴史博物館で入手したものであるが、どうもインドネシア語が入っておりインドネシア人が手書きしたもののようで間違いであることを発見した。一つはイギリス人のJoyce Goldが書いた地図が「Old Jakarta」と言う本に収録されているがこれによるとダイヤモンドは左端南で時計と逆回りであり且つ2番目と3番目が入れ替わっている。そうすると4番目はLookout Towerに面することになり、Heuken氏のLookout TowerはPearl砦に面していたという著述と一致する。こんなことまで詮議しないといけないとは本当に難儀なことだ。このバタビア城はRachの絵から、昔造船所、今VOCカフェの対面であることを発見したが、Alingkar_batavia_m1y3109_039
その地区は地図を見るとJl.Tongkolの地区であり、これまたHeuken氏の著作には明瞭にTongkelと説明がしてあり、小生の発見するまでもなかった。それでJl.Tongkelに出向いたがこの道はLookout Towerから歴史博物館に向かって斜めに曲がりながら其の正面のJl.Cengkehにつながる所までの曲線の約400メートル弱の将に其の道はお城のPearl砦からRuby砦の真ん中寄りを結ぶ曲線のようである。詰め所とか砦とか簡単に書いたが、英文ではBastionで要塞と訂正しよう。Alingkar_batavia_m1y3109_045

Tongkolの入り口の辺りと終わりの辺り(高速及び鉄道線路がある。遠くの白い建物はバタビア・ホテル)の写真をのせた。面影はなにもない。

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