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2009年6月 3日 (水)

バタビア城(Kasteel)の誕生

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バタビア城の誕生は1610年に遡る。其の頃のオランダは既にバンタンをポルトガルから奪い商館を築いていたが、バンタンが支配するスンダクラパに進出すべく1610年木造の倉庫を建てる許可を取得することができた。このときのこの根拠地はオランダの王家の名前からNassauと名付けられていた。1613年から約束を反故にして着々と石作りの要塞化に着手、1618年にはMartiusと名前を変えた要塞が完成していた。バンタンのジャヤカルタ(スンダクラパ)領主ウイジャヤカルタはオランダと対抗する為、イギリスにも商館建設の許可を与えた。オランダが得た土地は現在のチリウン河(カリブサール)の東側であり、ウイジャヤカルタが治めるジャヤカルタ地区及びイギリスの商館は西側である。
1618年12月マタラム王国がバンテン王国と結びオランダの商館を破壊する挙にでたが翌年第4代総督に任ぜられたクーンはここを拠点とする大決心をし、更に要塞を改造、逆に対岸のジャヤカルタ王子と戦線を張るイギリス商館を焼き払った。 ここに蘭英の大戦端が開かれたのである。イギリスは元アメリカ大陸バージニア総督であったトーマスデールが指揮するイギリス海軍15隻を派遣、要塞のオランダ商館を攻撃した。クーンはモルッカに停泊しているオランダ艦船を増援に連れてくるために脱出、その間イギリスとジャヤカルタ軍の宗主バンタンとの間に生じた不和を乗じてであった。4ケ月後クーンは14隻の艦船を引きつれ戻ってきてイギリス軍を追い払うことに成功した。これが1619年のバタビアの誕生である。
その後オランダは1650年までにはカリブサールの東西を壁で囲むウオールシティを完成させていた。この誕生のいきさつから旧バタビアも東側の方が建設が進んだことが判る。
写真はLookout Towerからの遠景であるがこの辺りと言う感覚だけである。

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