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2009年7月の投稿

2009年7月30日 (木)

今日はプラムカ宣誓記念日

モナスのメダン・ムルデカ・チムールを通るときKOSTRADの手前にちょっと目を引く建物がある。
Amonas_menten_055_2
建物にはちゃんと大きくGerakan Pramukaと書いてあるのでこの単語を理解しておればボーイスカウトの本部の建物だと直ぐわかるのであるが、PramukaとはPraja Muda Karanaの省略形となっている。ボーススカウトの発祥は1907年のイギリスであるが、ここバタビアでも10年も経ずに伝播、1916年マンクネガラ7世のイニシアテイヴで設立されている。オランダ本国のボースカウト(Padvinderij)の支部は1912年で日本は同じ頃の1913年である。その後ムハマディアやブディウトモ、イスラム同盟でも設立され、民族運動と機を一にしている。1961年に一本化され種々記念行事があったのか記念日が重なっている。
3月9日がHARI TUNAS GERAKAN PRAMUKA(ボーシスカウト運動芽ばえの日)
5月20日がHari Permulaan Tahun Kerja
7月30日がHARI IKRAR GERAKAN PRAMUKA.(Ikrar誓約)
8月14日がHARI PRAMUKAである。
Alwi Shahabさんによるとこの地は英国人Montgomery Tannat Pryceが住んでおり彼は1853年に”John Pryce & Co”を設立したそうであるがそれ以上の情報は未だ見つけていない。
Pramukaについては以前にも書いた覚えがあり、ブログ内Googleすると2007年8月4日でプロガドン工業団地に向かう道Jalan Pramukaから書いたものであった。

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2009年7月28日 (火)

Amusterdampoortの次はRotterdamPoort

オランダ時代のバタビア城壁都市のゲートNo.8はRotterdampoortと言う。ここはバタビア東側城壁の丁度に真ん中に当たる。この前紹介したAmsterdampoortが、お城の四角の角の城砦が1番から4番迄あった後のNO.5で、さらに5番から下って最後の南端は今のコタ駅とBNIの間の12番城砦であるので、8番が真ん中と言う訳である。
此処はpoortと付いているので城砦兼入口であったのであろうか。Akenir_098
東側のこの8番城砦を西に向かう道はDeLeewinnengragt運河が走っており(現在のカリサールチムールIII)カリブサールに掛かる橋が既にバタビアの中心として紹介した旧称ミデルプント橋である。さらに西に向かう道がUtregtsche Gragt運河沿いの道、現在のジャラン・コピである。写真はファタヒラ広場の北のカリブサール・チムールIIIからミデルプント橋を望む。

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2009年7月27日 (月)

バタビア城址にたつ

もう1ケ月になるのか、6月20日に究極のノスタルギーとしてレストランSBBを紹介したが、今回行ってみて間違いなくそこの敷地が390年前のバタビア城であることを確信した。そこはスンダクラパからトンコル通りに入ってきて直ぐの所にあり、Alingkar_batavia_jun_609_054
最初の入り口から覗くとまったくの原っぱ、Alingkar_batavia_m1y3109_040
次の隙間から覗くと植樹がある。二つを写真で並べてみた。そして最後の入り口がレストランSBB :Seafood Bandar Bataviaであった。このレストランから中に入るとバタビア城跡に立つことができる。
陸軍の所有を経て現在は華人のアビディンとか言う人の所有らしい。バッググラウンドが判らないが、敷地面積は2.8haとか4haとかいう広さでなぜ華人の手に渡り、また何年も原っぱで放置されていのか不自然である。広さが前者ならここにあった城の大きさから計算があう。というのはお城はトンコル道路の上にかかっていたはずであるのでここがその半分、全体は200メートル四方だったと推定する。
ここのレストランまでは日本人は来ないだろうと言ってみたところ、パンダトラベルがシティーツアで引き連れてきているようだ。全席1,500人はOKで家族で昼飯を食べて子供が外の遊園地などで遊び半日コースの華人の憩いの場でもあった。

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2009年7月26日 (日)

ウォータールー戦勝記念碑の頃

ワーテルロー大会戦の勝利を横取りしたと書いたがあの戦勝記念碑は誰が建てたのか調査を要する。その下準備としてあの時代のヨーロッパを調べておくと
1. 1795年、ナポレオンに侵略されたオランダはウイリアム国王親子共々英国に亡命し、フランスの保護国となりバタビア共和国となった。(これは同じ名前であるがジャカルタのことではない)1806年からのナポレオン・ボナパルトの弟ルイボナパルトを国王とするホラント王国、1809年フランス領直轄となっていた。
2.1813年ナポレオン軍が第6次対仏大同盟の連合軍に大敗するや、イギリスに亡命していた前国王の息子が帰国し、オラニエ=ナッサウ家ウィレム1世として即位、ネーデルラント連合王国を樹立した。これが現在まで続くネーデルラント王国(オランダ王国として後独立)の始まりである。
3.オランダ王国はウイレム2世、3世を経て1890年からウイルヘルミナ女王、その後ユリアナ女王、現ベアトリックス女王につながっている。
*ウイレム1世の名前は1544年(~1584年)のオラニエ公ウイレム1世と同名である。遡ってレビューすると、先代のオラニエ公ウイレム1世はドイツ ナッサウ家のヴイルへルムI世の子供で、スペインの支配に艱難辛苦、終に1579年のユトレヒト同盟に成功、独立運動を指導した。オラニエ公はネーデルランド連邦共和国等が任命するオランダ総督職を世襲した。ウイレム3世(1650-1702在位)はイギリスの航海条例による3時に渡る蘭英戦争に良く持ちこたえ、第3次蘭英戦争時のルイ14世によるオランダ侵略(オランダ戦争)時アムステルダムのダムを決壊させ撃退した。逆に名誉革命の後イングランド王位にもついたのでその間20年両国は同君連合となった。下ってウイレム5世(1751-1802)時代はオラニエ公に対する国民の不満が高まりその中フランス革命軍の侵攻に総督の座を追われ1.の通り息子と英国に亡命したのである。
Wapen_van_koning_willem_i_met_helmt
その息子が2.のウイレムIでナポレオンの支配と凋落はオラニエ家の復権に繋がる結果となった。つまりネーデルランド王国ウイレム1世はオラニエ公=ウイレム6世と言っても良い。その息子がでワーテルロー会戦に参加したウイレムIIである。このオラニエ公の紋章が黄色のライオンである。ウイレムIは1815に王位を譲り、1843年没している。1815年ごろのバタビアは英国のラッフルズが実質総督をやっていたがワーテルロー記念碑はラッフルズの時代ではない。この黄色が後に国旗の赤に変わったという。

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2009年7月25日 (土)

キャセイでオルゾ

昨日の」キャセイで初めて食べたものがある。香港ージャカルタ間の夕食メニューである。機内食を食べるときスチュワーデスは英語でメインの素材を言うようだが聞き取れない。たとえばフイッシュとかチキンとかであるが小生は寧ろライスとかヌードルと言ってもらったほうがいい。食膳になにやらカードが入っているが先に座席に配ってあればすいすいいう行くのだろうが。
日本ー香港でライスは食したので多分パスタと言ったのか、いやフイッシュで決めたと思うが、出てきたのが豆も入っていている炊き込みご飯風のこれであった。そう思って食べていたのだが妙につるつる感があり、乗務員に聞くとわざわざ紙に書いてもって来てくれた。これはイタリヤのパスタの一種で米粉から作った代用食かと思っていたがネットで見ると大麦ということがわかった。大麦Barleyはコーヒー豆の代用として昔からあったがパスタは最近かも知れない。ノンカフェイン・便秘によいとかダイエットの効用もあるようだが小生は初めてなので始めての人も多かろうとブログした。

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2009年7月23日 (木)

オランダのライオン勲章 ワーテルロー戦勝記念

昨日のブログのPerie中将が与えられたOrdr Of Netherlands Lion勲章であるが、オランダ語でDe Orde van de Nederlandse Leeuwと言い1815年にウイレム一世が創設した。 ライオンと言えばバタビア時代のワーテルロー・プレイン(Waterloo Plein :現在のLapangan Banteng).にはライオンの像があった。
広沢氏のサイトにある「蘭印の地の散策」には次のように出ている。
“ヨーロッパにナポレオンが一時代を画した、1800年代初頭、バタビアの政治の中心はヴェルテフレーデンと呼ばれた今のバンテン広場の周辺地域に移った。バンテン広場とはボロブドゥル・ホテルの前にある広場で、オランダ時代はワーテルロー・プレインと呼ばれた。1814年、英国のウエリントンがナポレオンをワーテルローの会戦で破ったのを記念した広場である。。。一部省略。。。バンテン広場の中央には、鎖を断ち切った両手を高々と挙げて解放の喜びをうたっている青年の像があるが、古いオランダ時代の写真を見ると、このイリアン解放の像と呼ばれる銅像とまったく同じ場所に、一番上にライオンの像を置いた高い塔がある。ワーテルロー戦勝記念碑であり、ワーテルロー広場の由縁である。また、今の大蔵省ビルである旧政庁の入り口前にクン総督の像が立っている写真を見たことがある。現在は、こういった植民地時代の記念像はあとかたもない。”
勲章に出てくるライオンもこのワーテルロー戦勝記念碑上のライオンもこれはオランダ・オラニエ公国の紋章から出ている。
ワーテルローの闘いは英蘭連合軍の総司令官ウエリントンとナポレオンの戦いでウエリントンの指揮下でオランダのウイレムIIも参加した。ウイレムII はここで名誉の戦傷を負い、それを記念してワーテルローに高さ45メートルもあるライオンの丘が立てられている。これを見たウエリントンは自分の戦場を汚するものだと言ったとか、だからバタビアのワーテルロープレインも戦勝記念碑もオランダが自分の力を誇示するため横取りしたものと思われる。

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2009年7月22日 (水)

ミチイル・メモリアル似たPerie中将の墓

プラサスティ墓地公園にはアチェ戦争やバリ攻略作戦の軍司令官であったA.V. Michiels将軍が埋葬されている。彼のお墓は小さいものであったが、イスティクラル・モスクのある所にあったウイルヘルミナ公園には彼の記念碑がオランダのインドネシア支配の力の誇示するかのように豪壮・華麗に立っていた。Aprasasti_08aug
この姿に非常に似ているモニュメントがプラサスティ公園にあり、誰のものか不明であったが、このいだWoodbury & Pageの写真集を見ていたらこの写真を見つけた。それは1788年にオランダで生まれ、1853年にここで亡くなったPerie中将である。 ジャワ軍司令を勤めOrdr Of Netherlands Lion勲章を授けられているとのことである。その写真は今と同じ木々の中にあり、周りに多くのお墓があったが他のお墓は今は見かけないものばかりである。 植民地喪失と共に子孫が引き取ったものであろう。

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2009年7月21日 (火)

幻のホテル、Hotel des Indes

オランダの華やかなりし植民地時代の名門ホテルHotelDes Indesはコタ、ガジャマダ通りの入口BTNの横のドゥタ・メルリン ショッピングセンターの所にあった。その横がCarefurrであるがこの一帯は1760年は後に総督となるde Klerkの所有であった。(彼は公文書館記念館Arsip Nasionalを保有して、その膨大な敷地がここまで含まれていた) 長くこの地はMoenswijkと呼ばれたがMoenとはVOCの理事で、de Klerkの前頃であったろう。
De Klerkからいくつもの変遷を経て1830年ごろフランス人の手に渡りHotel de Provenceの名前で始めてホテルとなった。その長女が結婚したスイス生まれのWijssがHotel des Indesと名前を変えたがそれはマックス・ハーフェラールの著者ムルタトゥリのアドバイスによるものだった。その後数代のオーナーの変更を経て1897年会社組織となり、Ades_indes_hall_1
1900年代に入ると名マナージャーの功績もあり、オランダ植民終了まで、ホテル・ネーデルランデンと名声を分け合った。独立後1949年頃、政府は名前をHolel Duta Indonesiaに変えたがこのイニシアルHDIはHotel Des Indesから来たものである。その後、1962年完成のHotel Indonesaにその地位を譲り、1971年頃取り壊した。所でオランダのden Hagueには今でも同じ名前のHotelがあるようでこちらは今も1881年の伝統のエレガントな姿をとどめている。何故壊したのかとシンガポールのラッフルズホテルを引き合いにいきまく人も多い。外観の古写真は歴史が長いだけに色々あるが、余りDegnityを感じるものがないので、ダイニングホールを掲げる。
ここでライスターフェルが生まれたはずであるが 一人コヒーなど飲みたくなる風情である。

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2009年7月20日 (月)

Amsterdam城砦とGraanspakhuizen

バタビア城壁都市の北東の砦はBatalion Amsterdamである。バタビア城の四角の南南の砦(Saphir)から斜め南東に壁を伸ばした端にある。壁を延ばしたと言ったが其処にはその斜めの線上に長い倉庫があり、其の部分はその倉庫の壁が城壁を兼用していたらしい。この倉庫はつい最近まであったGraanspakhuizen(トウモロコシ倉庫)である。Jl.Tongkolをパキン通りから下ってきて左側であるが、Alingkar_batavia_jun_609_059
 Alodan_jembatan_tiga_esparn_009
探しに行った時は其処は高速の下でトラックや工事重機が見えるだけであった。写真のブリキの倉庫は裏に回ったLodan通り沿いの倉庫であるが、この辺りと言うだけである。従いAmstedeam砦はその辺りにあったのであろうがアクセス不可能である。砦の裏にはチリウン河が流れている。其処から西に向かう道或いは運河はAmsteredamsche gragtと言い、カリブサールに到る所は現在もあるあの吊橋で、その吊橋を渡るとAmsterdamschegragtはDe Maleidschegragtと名前を変える。バタビアホテルに回りこんでくる 道である。17世紀にはあのAmsterdam門の写真の向こう側にこの、Amsterdamschegragt運河が横切っていたはずである。

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2009年7月19日 (日)

信じたくない爆弾テロ

又もジャカルタに爆弾テロ、テロ制圧で大統領選を制したといわれるユドヨノに復讐するのにも余りにも残酷である。9・11の時と同じような戦慄、憤り、無念を覚える。前回のマリオットホテル爆破から6年弱である。その後ユドヨノが大統領に決まった2004年9月豪州大使館テロ、組閣を行った2005年10月バリ島連続爆破事件とユドヨノには何か因縁がある。4年連続のテロ事件のあと4年の潜伏を許したことになる。この憤りを最後まで忘れないでほしい。Densus88などニュースに出る事も長くなかったが再起を期待したい。前に進む為、哀悼のブログを捧げたい。

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2009年7月18日 (土)

新ビルなる租税総局で気持ち新たに

16日租税総局事務所の新ビルが完成した。スリ・ムリヤニ財務大臣によるオープンテープカット記念式典の報道があったが、90年代のマリー・ムハマッド蔵相も来場していたが他の人の名前はない。二人ともクリーンな信望のある大臣である。場所はガトット・スブロトで税務署の敷地内にあると書かれていたのでBKPMの横である。 後ろから行けば日本人には下宿アパートで知られているWijaya Chandraである。今回のビルは敷地3万3千に27階建て現代的なビルで黒と白とシルバーに染められている。3階までは駐車場で1,546両を収容できる。 モスクも1,500人収容らしい。スリはブディオノ副大統領が退いた中銀総裁になる可能性がある。ユドヨノ自身が述べているので間違いないだろう。総局長のDarmin NastionもBIの上級副総裁になるよだが、そうなると一時汚職の巣窟だったBIは綺麗になるだろうが、これがユドヨノの成果の評価を確固とする試金石だ。税務署は元の巣窟にならなければいいが。。

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2009年7月17日 (金)

Amsterdampoortは日本の所為

1808年のダーンデルス総督のバタビア城壁破壊の際も破壊を免がれ20世紀まで残った遺跡はAmsterdam poort(アムステルダム門)である。Aadampoort
バタビア城の入口とシティホール(現在のジャカルタ歴史博物館)を繋ぐ道にあった謂わば城壁都市の中の記念ゲートでシティホール北400メートルの所で現在で言えばJl.Cengkeh(昔はPrinsensraat)の北入口、高速の下辺りであろうか。1600年代には建立され、1750年ごろイムホフ総督がロココ風にリノベし、1790年ごろに両サイドにカーブするウィングが付けられた。1830年ごろ、ローマの軍神マルスとギリシアの芸術の女神ミネルバの像が立った。この写真はバタビア城を背にして描いたもので奥にStadhuis(City Hall)が見える。1839年になるとバタビアに市内電車が走ることになりその時両サイドのウイングは邪魔になり壊されレールは右端を迂回するが如く走った。日本占領時代に二つの像は紛失し、独立後淋しい姿を見せていた為インドネシア政府は1950年12月に全てを取り払った。惜しい遺産である。このようなものもあったらいいなと思う。

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2009年7月16日 (木)

JPが見る中韓と日本の交代

ジャカルタポストがジャカルタに見る韓国と中国の繁栄を特別報告している。先ずクバヨラン・バルのスノパティ通りとスナヤン通りに着目している。ここはいつの間にか20軒ほどの韓国料理の店を中心として韓国が侵食している。(スナヤン通りとは、クバヨランからマンションに脱出した今の日本人は知らないだろうがあの潰れたクバヨランインがあった裏通りである。)ここには食材や各種店の他に学校も出来ている。中国人は先代の華僑が住んでいる地域に混入する傾向にある。インドネシアに住む中国や韓国人の数は、第1次外国投資を盛り上げた日本人を凌駕している。
1998年以前日本人の数は120,000(チョットおかしい?いいとこ20,000)であったが、金融危機で多くが海外にリロケートした。移民事務所によると今年1月から6月の間に暫定滞在VISAの発行数は7,932で内3,324が新規であるがこれは3番目にランクする。日本大使館によると昨年インドネシアに所在する日本の会社は約1,000、日本人数は11,453 である。産業別懇談会のUchihara Masashi委員長はインドネシアのインフラの悪さや移民・投資法の厳しさの為大きな増加はなかったと言う。
替わって流入してきた韓国人が今ブロックSと言われるSudirman Central Business Districtとカラワチをリトル・ソウルに変えた。大使館によると、繊維を中心に1,300の事業会社がある。例えばガーメント工場は1998年の180から2007年に330会社に増えている。移民局によるとインドネシアにいる韓国人は4万にで、今年1月から6月の間暫定滞在VISAの発行数は10,000で内新規は3,371で、中国人の場合は9,369内4,909が新規である。又中国人の居住者は120,000人という。このリポートは他に断片的数字もあるが、韓国のVISA発行数が1万と何で丸めた数字なのか不明で、一寸リポーターのいい加減さが気になる。結局日本は3番目であるが、1位は中国or 韓国???

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2009年7月15日 (水)

トランスアジアで日本はどうなる

1週間前、インドネシアの道路のセミナーがあり、公共事業大臣Joko Kirmantoはインドネシアはトランスアジア道路のインドネシア部分を2014年迄に完成すると語った。トランス・アジアと言うのはバリからイランのコスラヴィまで、13,000キロメーターの道路でインドネシア部分はジャワ横断1,000km、スマトラ 3,000kmであるが、カリマンタンもマレーシアと隣あっているので別途3,000kmを整備中とのことである。スマトラとマレーシア間には両国政府でマラッカ海峡横断橋を建設すること合意している。この構想は1959年に国連が構想したもので、そのときトランス・アジア・レールウエー114千km構想も合わせて発表された。こちらは韓国からイランまで22ケ国が合意し、つい最近中国が批准した8番目の国になる。両方共着実に進捗しているのだ。多分鎖国中のビルマと島国日本は置いてけぼりになるのかも知れない。だから空のトランスアジアエアーが必要なのだろうが。

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2009年7月14日 (火)

パサール・イカンは昔は島

ジャカルタの地図を見るとパッサール・イカンは数ケ所ある。スンダクラパ海岸の海洋博物館奥に在ったパッサール・イカンが一番古い地名である。この地区の1945年の写真を見ると、このパサル・イカンは島であったことが判る。Alingkar_batavia_jun_609_038
海洋博物館の通りはいわば城壁都市バタビアの防壁で、今そこに商店が並んでおり右に回って突き当たりの所辺りに魚市場があった。その右に回るところが昔は島と陸を結ぶ橋状陸地であった。Zeeburg城砦の裏側とLuar Batangの間の入り江がVrijmans Havenと呼ばれていた。この島の中にそのFishmarketとHexgonとAquariumが書き込まれているが今はどうなっているか。
Fishmarketの辺りの写真は撮ったがその先は一寸怖くていけなかった。
ただ此処で一度も住民から冷やかしの声も掛けられなかったし、視線も合わなかったのが救いであった。多分生活に一生懸命なのか、外人の観光客になれてしまったからだろう。

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2009年7月13日 (月)

キリンとサントリー統合してもトップの足元にも

朝テレビでキリンとサントリーが経営統合するニュースを小耳に挟んだ。大きいことがいいのかは知らないが、力による競争の果てのような気がする。しかし世界には巨大企業が支配しているので巨大化競争がどの業界にも出来上がっている。日本は何時も後手である。ビール業界では世界最大の企業はA-B Inbevという聞きなれない名前である。世界最大と思われるバドワイザーのアンホイザー・ブッシュ(米)がInbev(ベルギー+ブラジル)に統合された会社だそうで、今や200位のブランドをもっている。少し上げると、Budweiser、Brahma、Becks、Labatt、Tennents、Hertog、Lowenbrau、Tiger等でドイツ、米国、英国等のメーカーが支配されたと見える。あの有名な米国のMillerは今はSABMillerと言う南アの企業に買収され世界2位である。3位、4位はHeineken(蘭)、Carlsberg(丁)と来て安心するが、あの米国のCoorsはカナダのMolsoncoorsとなり5位を維持しているようだが、6位はメキシコのModelo(Corona)であるがひょうとっすると中国の青島ビールに抜かれているかもしれない。キリン・サントリーも統合してこの辺りであろう。世界の生産は約1600百万Hl(154百万Kl:2004)でトップは360百万hlとすると20%支配である。(キリンは34百万hl程度か)世界に独占禁止法が必要だと最近特に思う。
日本は税金のため第4のビール(既にリキュール化で主役へ)まで言われているが税金で歪められたビールの味で世界に売っていくことが出来るだろうか。或いはこのブレンド技術力が買われるかもしれない。

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2009年7月12日 (日)

バタビアの市電

バタビアのCity Hall前を走る現代で言えば遊園地のトラムみたいな市電が走っている風景の古写真がある。又つい昨年現在のマンデリ博物館とコタ駅を繋ぐトンネル建設の際石や杭が発見されその昔のレールの跡ではないかと騒がれていたが、確かに其の当時バタビア城壁都市とMolenvliet(現在のガジャ・マダ通り)を繋いでいる市電があった。北の端は既にもうなくなっていたバタビア城の跡のKanalweg(現在のトンコル通り)をスタートしPrinsenstraat(チェンケ通り)からStadhuisplein(ファタヒラ広場)を横切り、Nieuwpoortstraat(ピントゥブサール)を抜けMolenvlietに繋がるものであった。現在の発展が疎ましく感ずる話でもある。最初のトラムは1839年に走ったが、其のとき未だスンダクラパ港が唯一の外国船受け入れの港であり、スンダクラパの入口辺りにKleine Boom(税関)があり少し離れすぎではあるがこれがこのルートを利用した乗客たちであったろう。

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2009年7月10日 (金)

ジャカルタの飛行機学校

スリヤダルマ大学(6/11 ブログ)が航空大学かと思っていたがそうではなく、公立ではCurugに、私立ではジョクジャカルタにあることが判った。Asmk29apr_09
高校レベルではジャカルタの街中、クバヨラン・バルにある。Jln Prof Joko Sutono SH No.1 の SMK29 teknologi penenbanganである。
6/13のDEKAの隣で、周りを一回りしたが相当大きい。 飛行機を飛ばした訓練は出来ないだろうが、室内訓練などはやっているようである。昔は学校を出て外で体を鍛えていたニュースがちょくちょくあったので所在は良く知られたものだ。1954年クマヨランにあったのが前身で現在の学校は1958年設立とあるから名門である。
ジョクジャにチョット直ぐには行けないがCurugにはいけるかも知れない。名前だけ挙げておくと;
SEKOLAH TINGGI PENERBANGAN INDONESIA:CURUG - TANGERANG
Sekolah Tinggi Teknologi Adisutjipto
Sekolah Tinggi Teknologi Kedirgantaraan Yogyakarta

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2009年7月 9日 (木)

ホテル・サバンも往く

メダン・ムルデカ・スラタンからジャラン・スバン(アグス・サリム)に左折する所にバペパムの豪壮なビルがある。そHotelsabang
の並びに昔から、余りなじみのないが、立派なホテルがあったなとついこの5月に訪ねてみた。時すでに遅し、残念ながら既に閉鎖されていたのである。門前のカキリマや守衛が屯しているほか誰も居ない。正面の通り自体も昔から殆ど車が通らない謂わば死角になっているのも災いしたのかも知れないが、やっぱりインドネシア人の経営・労務の投げやりさがそうさせたのであろう。半端開きの門から覗くと既に屋根や壁に死臭が漂い静かに待っているようだ。裏当りは政府所有の土地で未使用或いは放置されたりしている。ジャラン・サバンと言えばタムリン通りが出来る前のバタビアの南行きの大通りであったが、ジャカルタの中心、モナスから至近の所にありながら斯くもなりぬるかなと時代の趨勢には勝てない憐憫の感慨に耽ったものであった。

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2009年7月 8日 (水)

カリブサールはチリウン河 ガジャマダは逆行運河

カリブサールに流れて込む河はKrukut河であるが、大昔はチリウン河であったようだ。昔のマップを見ると東の方からピナンシアを越えパンチョランへ袋状の中国人町を包むように流れ込んで、カリブサールへ向かう。又当時のカリブサール辺りはうねうねと流れている。このチリウン河をクルクット河に変え、直線にした工事は大変であったであろうがそれは1650年頃までに完成しているようだ。
チリウン河はイスチクラル・モスクの辺りでガジャマダ方面とグヌン・サハリ方面に分かれているが、元々はパンチョランから南に下っていた。20世紀になってパンチョランとリンデテヴェス間は埋められたので、マジャパヒット方面に流れてきたチリウン河はリンデテヴェスの所で左裏側に流すことにしたようだ。そしてその西側を流れていたクルクット河にバタビア中心地を任す選手交替をしているようだ。
Apintu_kecir_grodok_036
このクルクット河は又カリブサールの直前のトコ・ティガでカリブサール方面とプルイット方面に分かれる。その間が、つまりカリブサール西側地区が、オランダが侵入してくる前のバンタン国領、ジャヤカルタであったのである。多分今のジャラン・コピ辺りにその領主、ウイジャヤカルタ皇子の居所があり、又その北、現在のVOCカフェ辺りにイギリスの商館がオランダのバタビア城に対峙する如くにあったのである。写真はカリブサールに流れ込む一寸手前のクルクット河。向うにマンデリ博物館の塔屋が見える。 6月16日のタンダバクティお寺前の河と同じで、匂い立つ汚濁であるが人間は恐る恐るでも見たがるもののようだ。何気なく探すとアルバムから出てきた。(精々1年前です)

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2009年7月 7日 (火)

静岡空港と羽田空港の愚

ニュースに無関心な小生であるが何故静岡県知事選が行われたか今日知った。 1ケ月前オープンした静岡空港の立ち木問題で県知事が辞任したからであるが、立ち木問題は何とか解消しオープンに漕ぎ付いたようで、本当の辞任はゼネコンとの黒い噂があったという噂があったからではとのブログがあった。飛行場自体はその必要性が疑問された如く欠航も多く搭乗率も目標に達しないさまである。搭乗率が低い飛行機を飛ばして県民に赤字を押し付け、石油燃料の消費と炭酸ガス放出と言う更なる罪悪を犯している。新幹線がある県に何故飛行場がいるのか。富士山への観光客を誘致したいのか名称に富士山を付けているが之とて非生産的だ。今更言っても始まらないがこれが国内98番目の飛行場らしいのでこれ以上は新設は考え物で、むしろ閉鎖を考えるべきであろう。一方国際空港としての日本のどの空港も香港や韓国の足元にも及ばない貧しさで、肩身が狭いこと夥しい。羽田飛行場はマダ拡張の余裕があるように見える。成田をやめても良いくらいの覚悟で拡張に本腰入れたらどうだろうか。二度もオリンピックをやるバかな事をせず、その土地と予算を羽田にまわせられないものだろう。 世界最大級の港湾都市の鼻先に世界最大級の海上空港が出来るのは東京を置いてしかないと思えるからだ。

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2009年7月 6日 (月)

幻のホテル ダルマニルマラ等

1960年代は未だ存在したであろうホテルにダルマ・ニルマラがある。同じ時期には未だホテル・デス・インデスもあった。Des_indes
後者は今のドゥタメルリン・カリフールにあり往時はアジア一の設備を誇っていたと記録がある。ダルマ・ニルマラはガルーダ商人にも登場するがここにデウイ夫人が最初の頃宿泊し、此処の部屋の窓から、大統領副官が大統領官邸(スカルノは多分イスタナ・ムルデカに宿泊)からナホコを迎えに出てくる所の描写があるので、今で言えば、大統領宮殿の一角にあったことになる。Aaistana_negara
イスタナ・ムルデカのジャラン・ベテラン側にはイスタナ・ネガラ宮殿がありその左手にホテルがあった。
オランダ時代はそれはホテル・デル・ネーデルランデンと言うホテルで独立後名前を変えたのがダルマ・ニルマラであることが判った。当然跡形はなく現在は、スハルト時代の執務室があったBina Grahaである。それを探している時ホテル ガジャ・マダと言う名前が飛び込んできた。Gajah Mada通りNo.27にあるようだが、Gajah Mada Plazaの近くのMarioboroもジョグジャでいえばガジャマダ通りである。又探索の夢が沸く。

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2009年7月 5日 (日)

6月の投資環境

*異端視されているアフマディアの首都にあるモスクで火災、放火の疑い。
*イは宗教の自由侵害要監視国:米の国際宗教の自由委。少数派宗教への襲撃。
*プルタミナ、アルトゥ・メガ・エネルギー社と合弁ジメチルエーテル工場建設計画、総工費$19億
*LGインドネシア、家電のトップに。 蚊が嫌う周波数のエアコンなど社会貢献の3原則
*今年の自動車販売目標、42万台から48万台に上方修正:工業省。
*スラバヤ~マドゥラ大橋(東ジャワ)開通。全長約5.4km。
*IMFのイ視察終了、今年の経済成長率予測を前回の2.5%から3-4%に上方修正。4.3%見通しも。
*バリ銀行の不正事件(1999年):ムリア・グループ会長と当時のBI総裁が最高裁で逆転有罪に
*BI法改正審議(2003年)めぐる贈収賄事件で背任罪に問われたSBY親戚の元BI副総裁に実刑
*メタノールが混入していたラベルなしバリ地酒が出回り、欧米人などに死者
*豚フル:フェーズ6パンデミックに引き上げ。イにも感染者でる。
*西スマトラの炭鉱でガス爆発、18日時点で死亡者31人に
*首都のHIV/AIDS感染者3,052人に:中央ジャカルタ保健局長。
*英サッカーリーグの放映権についての公正競争委決定に絡む収賄容疑の元汚職撲滅委にも実刑
*04年中銀(BI)上級副総裁選出に絡む贈収賄容疑で当時の国会議員4人を容疑者に断定
*大統領選資金の拠出圧力で国営プルタミナ社長が辞任? うわさ出回るが、本人は否定
*外国投資家の売りで株価指数2000割れに逆戻り。ルピア相場も低下1万ルピア再び超える。
*汚職撲滅委の監視強化要とSBY。大きな権力持った機関の監視の必要性説く。

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2009年7月 4日 (土)

個人の労働、サービス等の源泉徴収指針

主題の法令が月刊誌「インドネシア企業経営」2009年6月号に出ている。
その他インドネシアの会計・税務・輸出入手続き等下記の記事の5月号($100 or RP800,000/月)が発売中である。詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。
今月の税務法令アップデート
今月の経済法令アップデート  
会計原則 121(棚卸資産2008年改訂 1)
PPh21申告フォームの改訂
保税地区政令改訂
首都の雇用計画書延長手順
通信・電気製品のマニュアル・保証書登録義務
個人の労働、サービス等の源泉徴収指針
減価償却計算表標準フォーム
労働関連規定2009年上半期
源泉徴収税(PPh23)の計算基準となるグロス金額
鉄鋼輸入一時規制の見直し
附:鉄鋼輸入業者指名のための工業技術見解
今月の労働関連トピックス
2009年上期の関税総局長令
インドネシア富豪リストのアップデート
2009年5月度 下旬 政治・経済トピックス
2009年6月度 上・中旬 政治・経済トピックス
物価・貿易統計09年6月発表
橋本政彦 「明日の街角42~」 
柘海広志 「最近の気まぐれレビュー(10)」
西見恭平 「プラサスティ物語4~反逆児エルヴェルフェルト」
今月の月次経済指標 2008-2009トレンド
今月の会計・税務用換算レート
今月の為替株式金利の動き


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2009年7月 3日 (金)

旧バタビアの驚く運河網

旧バタビアに流れ込む川はチリウン河とクルクット河である。どちらも蛇行しながら市街地に入り始めて運河として制御され道路沿いの風景となる。それまでは家屋の裏側をうねって時々橋の所で顔を出すだけである。チリウン河で言えばイステクラル・モスクの所で東西に分けられジャラン・ポスとジュアンダ通りに併走し、其のあと夫々グヌン・サハリ通りとガジャマダ通りに添い北上する。グヌン・サハリ通りの運河はアンチョールに流れ込むが本流はマンガブサールの所辺りからパンゲラン・ジャヤカルタの方向に西行しシオン教会からコタ駅裏へそして旧バタビア城壁都市の東を守るかのごとく北上しローダン通りの間からスンダクラパに流れ込む。
Alindeteves_ciliwun_111
ガジャマダ通りを北上した運河はリンデテヴェス・センター裏から東に折れパンゲラン・ジャヤカルタで本流と合流する。
一方クルクット河はチデン河と合流分離を繰り返しタンボーラ辺りで二つに分かれ一つはカリブサールとなり、一つは旧バタビア城壁都市の西側を守るかの様に北上し、見張タワーの所でパキン通り添いに導かれてきたカリブサールと合流しプルイット沖に流れ込む。A
つまり旧バタビア都市はチリウン河とクルクット河の間にカリブサールを流しカリブサールを中心線とする二つの東西ブロックを形成している。その城壁都市の中は更に縦の運河が東西に2本ずつ、又横の運河を東西3~4ずつ流している。
ファタヒラーとセラミックミュージアムの間にあった運河タイガースグラハトも単独で北に流れた(と以前書いたが)りせず城内運河網を形成した一つであった。
更に特筆すべきは、カリブサールは元のチリウン河で1629年マタラム軍が攻めてきた当時はうねった河であったが1650年の地図では真っ直ぐ流れる運河とし、これだけの運河都市を作ったという土木技術の素晴らしさである。

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2009年7月 2日 (木)

快刀乱麻の汚職撲滅委員会

最近汚職撲滅のニュースが多い。委員長が殺人罪に追われ、ユドヨノの親戚が実刑判決になり、大統領の撲滅委員会(KPK)の権限縮小意向まで飛び出している。 KPKの独立権限を縮小し一般法廷移管する案は、インドネシアで汚職に汚れた機関のトップクラスの司法分野にKPK を置くことで、非常に危険である。大統領はこの報道は選挙用のブラックメールと退けながら金融開発監査院(BPKP)の検査を指示し検査が始まるようだ。大統領の意向は大きな権力持った機関の監視の必要性を主張しているものである。最近の汚職撲滅のニュースではそのほかに
*バリ銀行の不正事件(1999年):ムリア・グループ会長と当時のBI総裁が最高裁で逆転有罪に
*英サッカーリーグの放映権についての公正競争委決定に絡む収賄容疑の元汚職撲滅委にも実刑
*04年中銀(BI)上級副総裁選出に絡む贈収賄容疑で当時の国会議員4人を容疑者に断定
*大統領選資金の拠出圧力で国営プルタミナ社長が辞任? うわさ出回るが、本人は否定
*運輸省の巡視艇購入に汚職、運輸省高官逮捕
*労働省教育訓練機器購入に関して納入業者に禁固30ケ月
等がある。Sri Muryani女史の財務省(税務・税関)のクリーン化も評価されている。


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2009年7月 1日 (水)

Maurits Van Happelもプラサスティ

先般6月21日のJaques de Bollan(1684年没)の墓石の紹介にあと4人の名前が出ている。
この墓の形式は正式にはなんというのか知らないが紋章盾(Coat of Arms)が彫られた鉄版で多分箱状になっているのであろう。この箱の中に何人も入るのであろうか  Abollan_happel_dscn0125
Bollan の墓はこのビッグファミリーの墓で全部がコタの旧教会の家族用地下納骨所におさめられていたものである。他の名前は 
Henric de Bollan(1701年没): Bollan の息子、警察の長官を務める。
Johan Maurits Van Happel(1690年歿):Bollanの娘Johannaの婿
Henrietta van Happel(1689年歿):van Happelの娘
Bollanの娘のJohannaはHappelの死後、Harman de Wilde(1707年歿)と結婚、彼は後パクブアナ一世となるPuger王子を応援しSunan Masと戦った隊長であった。彼のCoat of Armsはこの墓の下の方に小さく彫られている。
Van Happelの孫娘は1740年の中国人虐殺事件の責任総督ファルケニールの妻となっている。後一人の孫娘でこの墓碑公園に墓のあるJeremias Van Riemsdijk総督の妻となった者もいる。以上Heuken氏の著作より。当時の小さな上流社会を垣間見るようであるが、彼らも今時東洋人にこのように懐古されるとは思ってなかったであろう。

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