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2009年7月26日 (日)

ウォータールー戦勝記念碑の頃

ワーテルロー大会戦の勝利を横取りしたと書いたがあの戦勝記念碑は誰が建てたのか調査を要する。その下準備としてあの時代のヨーロッパを調べておくと
1. 1795年、ナポレオンに侵略されたオランダはウイリアム国王親子共々英国に亡命し、フランスの保護国となりバタビア共和国となった。(これは同じ名前であるがジャカルタのことではない)1806年からのナポレオン・ボナパルトの弟ルイボナパルトを国王とするホラント王国、1809年フランス領直轄となっていた。
2.1813年ナポレオン軍が第6次対仏大同盟の連合軍に大敗するや、イギリスに亡命していた前国王の息子が帰国し、オラニエ=ナッサウ家ウィレム1世として即位、ネーデルラント連合王国を樹立した。これが現在まで続くネーデルラント王国(オランダ王国として後独立)の始まりである。
3.オランダ王国はウイレム2世、3世を経て1890年からウイルヘルミナ女王、その後ユリアナ女王、現ベアトリックス女王につながっている。
*ウイレム1世の名前は1544年(~1584年)のオラニエ公ウイレム1世と同名である。遡ってレビューすると、先代のオラニエ公ウイレム1世はドイツ ナッサウ家のヴイルへルムI世の子供で、スペインの支配に艱難辛苦、終に1579年のユトレヒト同盟に成功、独立運動を指導した。オラニエ公はネーデルランド連邦共和国等が任命するオランダ総督職を世襲した。ウイレム3世(1650-1702在位)はイギリスの航海条例による3時に渡る蘭英戦争に良く持ちこたえ、第3次蘭英戦争時のルイ14世によるオランダ侵略(オランダ戦争)時アムステルダムのダムを決壊させ撃退した。逆に名誉革命の後イングランド王位にもついたのでその間20年両国は同君連合となった。下ってウイレム5世(1751-1802)時代はオラニエ公に対する国民の不満が高まりその中フランス革命軍の侵攻に総督の座を追われ1.の通り息子と英国に亡命したのである。
Wapen_van_koning_willem_i_met_helmt
その息子が2.のウイレムIでナポレオンの支配と凋落はオラニエ家の復権に繋がる結果となった。つまりネーデルランド王国ウイレム1世はオラニエ公=ウイレム6世と言っても良い。その息子がでワーテルロー会戦に参加したウイレムIIである。このオラニエ公の紋章が黄色のライオンである。ウイレムIは1815に王位を譲り、1843年没している。1815年ごろのバタビアは英国のラッフルズが実質総督をやっていたがワーテルロー記念碑はラッフルズの時代ではない。この黄色が後に国旗の赤に変わったという。

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