« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月の投稿

2009年8月31日 (月)

インドネシア国家予算案に見る経済政策方針

主題の法令が月刊誌「インドネシア企業経営」2009年8月号に出ている。
その他インドネシアの会計・税務・輸出入手続き等下記の記事の8月号($100 or RP800,000/月)が発売中である。詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。

今月の税務法令アップデート
今月の経済法令アップデート  
会計原則 123(工事契約 1)
法人税年次申告フォーム改訂
木製梱包の国内搬入に際しての検疫手順
企業経営とコンプライアンス・リスク管理
2010年の祝日と一斉年休取得日
地方税・課徴金の改定の動き
最近のSNI義務化工業製品
来年度国家予算案演説に見る経済政策方針
2010年度国家予算案
納税コンタクトセンター
物品/サービス国内取引の監督 その2
企業グループ トップ100
第2ユドヨノ政権の時代へ
今月の労働関連トピックス
都市スーパーブロックの開発状況
2009年7月度 下旬 政治・経済トピックス
2009年8月度 上・中旬 政治・経済トピックス
2009年Q2 GDP速報、物価・貿易09年8月発表
「明日の街角44~愛の鞭-お盆、お化け考」 
「インドネシアの独立宣言小史」
今月の月次経済指標 2008-2009トレンド
今月の会計・税務用換算レート
今月の為替株式金利の動き

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月30日 (日)

プルイットの謂れ

Apluit_junctionnikon_4
プルイットはプンジャリンガン郡にある北ジャカルタの高級住宅地である。グロドックの中国人で毎日10億ルピア(Miliar)の売上げのあるものだけがPluitの住宅を買うことが出来る。1903年バタビアの地図によれば正確にはFluit Muarabaruと言う。オランダ語ではfluitとは、言わばフルートでインドネシア語ではSulingで細長い竹笛である。ダンドゥトの物悲しい楽器である。高速下のJembatan Tiga 通りを北上した所がPluit地区の入り口で最近大型ショッピングモールが広がるPLUIT Junctionである。西に向かう道がPluit SelatanでMuara Angke運河と突き当たる所の北側に仏教(Vihara Satya Dharma)とヒンドゥーの二つのお寺があるが両方ともブログで紹介済みである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月29日 (土)

Medco LNG、炭層メタン:企業ニュース

8/27 社債発行急増 本年IDXのターゲット15兆を越え25兆予想
8/27 政府、PT PALへ資本注入 $44 mil.造船資金。社長Harsusanto談。
8/26 高速料金 9月4日より12%~18%の値上げを提案(Jasa Marga, Citra Marga)
8/25 PLN、スラウェシDonggiでのガス発電計画、一方DonggiLNGプロジェクト(Pertamina-Medco-三菱)は
生産の国内販売を探索中(カラが国内販売を命令、中部が撤退)
8/25 インド BEML社(アジアNO2の重機),$44mil投資計画、バリックパパン石炭掘削機販売センター建設等
8/25 Pertamina、フランスTOTALからMahakam ガス田を購入
8/25 米政府、MedcoとPERPAMSIをクリーンエネルギーと飲料水で表彰
8/25 TELKOM、IPTNサービスの緩和法令を歓迎、現在固定電話8.7mil。
8/25 パプア、Freeport McMoRan Copper &Gold Incのトラックに又銃撃、死傷なし。
8/25 ガルダ、2010年にIPOで3-4億の資金手当て計画中
8/25 Medco、南スマトラでインドネシア最初の炭層メタン探索開始、2011年操業計画
8/23 Aneka Tambang、Newmontの株購入表明、3月に裁判で一部売却命令を受けて。
8/21 国営港湾会社PELINDO I 、5億ドルの港湾開発プロジェクトの計画
8/21 GM、ブカシ・プラント リノベ計画を2011年まで延期
8/21 BCA FINANCE 、2009年に11兆の自動車ファイナンスを計画
8/21 BEIに代わるインドネシア輸出金融会社(LPEI)、9月より営業開始
8/21 CHEVRON INDONESIA、カリマンタン中心に28油井開発投資 $290m計画
8/21 PT. TELKOM 、ジャカルタタワーの80%株式を取得へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月28日 (金)

HI前の大統領広告倒壊

「HI前の大統領広告倒壊、下敷きになった2人が負傷、首都に突然の豪雨」とジャカルタ新聞に出ている。
Adoble_menten_thamrin_singapore_aug
Korupsi No!と大書されているが、大統領が選挙に勝利し、自己の実績を誇り、独立64年を祝うために作ったもので、この大きさは最大級であった。ジャカルタには巨大広告塔があちこちにあり、倒壊したことはあまり聞かないので技術力には関心していたものであるが、めったに起こらないことが起こり、又小生もめったに写真に成功した試しはないのが、前回の旅行でカメラにあったのでたぶんこれだろうとその広告版を紹介しよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月26日 (水)

バタビア最初の教会とクーンの墓

人が移住すれば、とにかく住む家が解決するまでもなくお祈りの場所が必要とされ、仮のものが作られ、そして大きくなっていくものである。バタビア最初の教会と銘打っても、最初の最初はやはり最初の小さなナッサウ商館(砦)の中にあったことは自明となる。とはいえそれは祭事場という程度のものである。クーンがバタビア宣言を行って2年後、1621年1月3日に、ここで本国の聖職者を呼んで祈祷を行ったとある。司祭はA,J,Hulsebosでアジア最初のオランダ改革派のミサであった。その後砦の拡張でダイヤモンド砦の中に移るが、1625年バタビア城壁都市の南に小さな教会が立てられた。現在の中央銀行博物館の場所である。この教会は1628年のマタラム軍襲来の際、焼け落ちたため、その後当分の間、最初のBalai Kota(現在のは2代目)が仮に使われていた。Ajpz_coen_1634_m1y3109_066
クーン自体もその墓は最初Balai Kotaに埋葬され、後現在のワヤン博物館のところに出来た教会に移転することが出来、現在もクーンの墓はワヤン博物館の中庭にある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月25日 (火)

ミス・インドネシアのユニバースとワールド

Globe Jakartaだったか、ミス・ユニバースのインドネシア代表のAzivanna
Zivanna Letisha Siregerのニュースが出ていた。インターネットの人気投票で上位に入ったことと2005年のAntika Sari Devi以来のトップ15にはいったような話であったが実際の結果をみると15位以内にも入ってなかった。インドネシアから切り取ってもって帰った雑誌のミス・インドネシアの写真はAscan10167
Kerenina Sunny Halim(母がアメリカ人)で、これがそれかと思っていたが、所がこちらはミスワールドのインドネシア代表の別人であった。
ミス・ユニバースは8月23日にバハマで行われたが栄冠はBenezuelaが昨年に続き連続で、国としては過去6回で実質トップ、日本も過去2回(児島、森)は上位である。
ミスワールドは12月南アフリカで行われ、59回目を数え120人を予定している。1ケ月位かけたページェントである。ミス・ユニバースは1951年のビキニショーのミス・ワールドの翌年、水着ショーで始まり58回目であった。ミス・インターナショナルやミス・アースなどもあり、こんがらがるがワールドへのインドネシア代表はどこかで見た気がして調べたら6月7日にもブログにしていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月24日 (月)

相変わらずの香港空港

日本に戻ってきたしるしのブログとして恒例の香港空港事情であるが、相変わらずの手荷物リチェックにはらはらであった。自動的に組まれるトランジット便までの時間は1時間10分程度であるが、33番ゲートに到着した飛行機から延々と20番ゲートまで戻り、やっとたどり着いた空港に二つしかない転機場は9列にもなるつずらおりのリチェックの列で予想通りとはいえがっくり、2台の機械しかない上に準備デスクも無く非効率この上も無い。
最後は財布の中までチェック棒を差し込まれていたお客までいた。そして搭乗のため又25番ゲートまで戻ってきたときには既にチェックイン開始のあわただしさであっる。昨日はラマダン二日目で午前中ゴルフであったが、一人乗りのカート付きで43万ルピアであった。(普通は50万のはずである) その分キャディに還付してあげた。ぜんぜんビールを出せない日本居酒屋もあるが、少し離れるとみな当然のごとくビールはあった。今年は少し拍子抜けの感じがする。いいことである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月22日 (土)

ラマダン始めのビール

今日からラマダン、毎年のようにアルコール規制が行われるが、要は何かがはっきりしない。領事館のお知らせも投げやりなだけで、禁止されるようなところには大使・領事館員は行かないので知らないの態度である。彼らの緊急危険情報によると
1.ラマダンの前日からレバランの翌日まで、ナイト・クラブやサウナ、ピン・ボールなど営業が全面的に禁止される。
2.又、カラオケ、ライブ・ミュージック、及びこれらの施設に付随したビリヤードは、ラマダン期間中は午後8時30分から午前01時30分までのみの営業が許可されています。とのこと。
なぜサウナがだめなのか、どこにビン・ボールの店があり(小生は見たことも無い)、なぜだめなのかわからない。カラオケは時間制限で営業が許可されるとのこと、その時間外に行ったことが無いのでいつでもOKということになる。むしろ12時までにしてほしいほどである。
実際は居酒屋も1日も前からビールも出さない店ばかりだし、カラオケもビール酒はださない(隠れて飲む)のである。どこにビールや酒がだめと書いてあるのであろうか。
Pasaraya_ramadan_2
パサラヤのフードコートなどでは堂々と出してくれる。飲みたければそういう所でしこたま飲んでいくことである。写真は小生があわててビール瓶を隠したカプチーノ・カウンターである。なぜ禁止なのか、酒が悪いのか女が悪いのかはっきり書くべきだ。ビリヤードでかわいい女を見たことは無いので更にわかりにくくする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月21日 (金)

シンガポール国立美術館

Orchard_road_presbyterian_church
昨日の続きでホテルをでて近くの駅に向かうとき威風堂々たる建物が見えた。Singapore_national_museum_1_2
近くの駅はドビーゴー、飛行場からここにMRTで着いた時は夜になっていたのでホテルまでタクシーを使ったが翌日地図を見るとすぐ近くなることが判明当然歩いたその出かけるときのことである。チャイナタウンに向かっていたので、まずは駅に急ぐと駅のそばにきれいなチャーチもあり、これもカメラに収め、チャイナタウンを少しぶらぶらした後、この建物を思い出し戻ってきた。チャーチからもワンブロック程度の距離であった。標識にシンガポール国立博物館とある。調べると開館して既に120年にもなるそうで、シンガポールの600年の歴史と人々の生活の展示らしい。シンガポールの歴史の中でどうしても日本占領期はひどい時代だったと忘れることはできないようだ。小生には中身よりこの建物が気にいった。 チャーチの方は拡大して1854年設立のOrchard Road Presbyterian Churchと判読した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月20日 (木)

ベンクルーの仏教寺院

シンガポールに行ってきた。ホテル周辺の散策だけで8つもの歴史的サイトと遭遇できたがこのブログのタイトルと関係ないため調査はしていないが場所だけ紹介しておこう。
街の中心オーチャードロードにも近いベンクーレン・ストリートでこの道の南端にはシンガポール・マネジメント大学の大きなキャンパスを越え(全くのオープン)るとシンガポール国立博物館の白亜の堂々たる建物がある。その横はYMCAのロッジやFort Caningsの砦につながるところである。北の端はFortune Shopping Centerがありその裏の奥にStanford Arts CenterとAdsc08321_4
二つのシンガポール一と思われる仏教寺院がある。ショッピングセンターの角に案内の標識が出ていたのであるがうっかり写真を撮るのを忘れたが、掲げた写真を見るとひとつは観音堂と後ひとつは慶雲と読める。Adsc08318
中国人が一心不乱にお祈りをささげているのには頭が下がる思いである。慶雲の裏に高いビルが見えるがこれはIbis Hotelである。ここを使えば安く上がるだろう。Bencoolenと綴られてはなじみは無いが良く考えるとスマトラのベンクルーでラッフルズが最後までがんばった都市である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月19日 (水)

Tiang Bendera旗柱通りの謂れ

旧バタビア城壁都市の西の端、地区で言えばRoa MalakaであるがここにTiang Benderaという通りがいくつかある。Amay_09_batavia_080
この地区に昔中国人カピタンが住んでいて毎月1日自宅に旗を掲揚していたそうで、それは華人社会に人頭税等の払いの日を知らしていたということである。それは中国事件虐殺事件の後の1743年頃であったがカピタンは土地を更にイムホフ総督より購入しカピタン事務所とした。この通りはジャランコピをはさんで南北に走っているがこれが昔の運河の跡だと紹介したことがある。
北側は高速と鉄路で遮断されており更に北があるので、そこが城壁都市の本当の北端で殺伐としている。写真は南側であるから北を望んだもので昔の運河は今の公園の如しである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月18日 (火)

ポルトガル教会の城内教会はここ

5月27日のブログに掲げたが、18世紀のバタビアの画家Rachが描いたバタビア ミッデルプント橋の絵があるが、Midelpunt
この絵の右側には教会がある。この教会は1670年に建てられたPortuguese inner churchである。Innerというが如く此処はバタビア城壁都市の内部に建てられたもので、後にOuter Churchとして引っ越した先が城壁の外、現在も残っているPangeran Jayakarta通りのSion教会である。ポルトガルはカトリックの国であるが。この時代のこのポルトガル教会はオランダの政策によりプロテスタントに改宗したものが立てルことを認められたプロテスタントの教会である。
Amay_09_batavia_137_2
この絵の教会のあった場所は現在のジャラン・コピの入り口右側である。
観光ガイド等、Sion教会の説明に城外との説明がついていたのがこの絵で、なるほどと納得できたものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月17日 (月)

今日はムルデカ Hari Merdeka

昨日のジャカルタは何処も今日の第64回独立記念日を祝うため国旗だらけである。Aaug_16_istana_merdaka
特に記念式典が行われる大統領宮殿イスタナムルデカは宮殿自体が見えないくらい紅白旗で埋め尽くされている。
独立宣言はスカルノの自宅Pegangsaan Timur No.56 で行われたが、今そこは記念公園となってスカルノとハッタの像が建っている。ここで式典を行うことも広さ的には可能であるが スカルノの言葉ではないが独立は一個人のものではないということになろうか。記念式典は9時に開場、9時半に式典儀仗兵隊の行進入場から始まり、10時に大統領の入場、17回の号砲、宣言文みたいなものを読み上げ(1945年となっていたので別なものをよんだのであろうか)、1分間の黙祷(Pengheningkan Cipta)、宗教大臣のイスラム祈りから最大の目玉国旗掲揚(Pengibaran Sang Merah Putih)儀式となる。国旗を大統領から受け取る掲揚儀式の中心は全国から選ばれた凛々しい女学生である。毎年いつも心打たれる美しさである。その後はNusantaraの歌メドレー、Hari Merdekaから始まり Satu Nusa, Satu Bangsa 、SBY作詞作曲(Cipta)のKuyakin sampai di sanaの頃は国民の心もひとつになろう感激が会場を埋め、全国の伝統衣装で歌う頃は会場は楽しさの頂点に立ち、儀式総隊長の終了報告で儀式は終わった。11時過ぎであった。これから各部落のスポーツ・ゲーム大会や大学などの活動もある。と思ってチャンネルを回していたら、キドル山中の洞窟の中や、ブナケンの海中での国旗掲揚儀式など各州で思い思いの企画が実施され、更にまさにジャカルタではそのスカルノハッタ プロクラマシ公園で地区の儀式をやっており、又ファウジ・ボオ知事も市内の美人学生に国旗を渡す大統領宮殿と同じ儀式をやっていたのには驚いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月15日 (土)

人気度高いスリ・ムルヤニ

街の女性にも知名度抜群、次期もインドネシアの経済の舵取りをするだろう人がスリムルヤニ・インドラワティである。次期経済調整大臣の期待度では他を圧倒的に引き離す67%の支持である。他の人ではドロジャトゥン・クンチョロジャクティ、マリ・エカ・パンゲスツ、ダルミン・ナスチオン、クイック・キアン・ジー、マルズキ・ウスマン、リザル・ラムリなどがいた。
Globe Asia誌には次代を担うワ-ルドクラスリーダーと賞賛されていたが彼女は過去にも2006年世銀・IMF総会時にはアジアのベスト財務大臣、2007年インドネシアでの影響力No.2、2008年には世界で影響力のある女性23に選ばれている。
1962年生まれ47歳、ランプン出身、インドネシア大卒、イリノイ大学で博士課程を修め、イリノイ大学の助教やインドネシア大学の経済調査機関の委員長を務め多くの著述のあるエコノミストである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月14日 (金)

Silabanの建築芸術がジャカルタを飾る

Frederich Silabanはオランダが去った後のインドネシアの建築デザインを背負った一人でその作品は傑出している。挙げてみると、モナス独立記念塔、Akali_besar_aug_08_007

インドネシア銀行本店、イステクラル・モスク、ボゴール農家大学等がある。かれは1912年タパヌリで生を受け、1947年から1965年までとボゴール市の公共事業事務所の勤務が長い。タムリン通りにあるインドネシア銀行本店(旧)は1960年の作品である。彼はアムステルダムの建築芸術アカデミーで学んでいるが、当時は1932年ニューヨークの現代芸術ミュージアムで行われた現代建築展示会の流れのインターナショナル派の推進者である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月12日 (水)

バタビア城壁都市東側の砦Enkhuisen

コタ駅の裏側には、マンガドゥアに向かう道を横切り北に向かうチリウン河がある。この辺りのチリウン河を見よう出かけた事がある。コタ駅の北はBNIの大きなビルがあり、BNIの裏には行けないので更に北のTaman Sariの役場、正面に消防署があるところからはいり込んで見た。
Alingkar_batavia_jun_609_060_2
Alingkar_batavia_jun_609_061
昔の地図で言えばRotterdamPoortの南の9番/10番砦、Koorn/Enkhuisenの砦の所である。そこには民家が密集しており入り込んでは二度と出て来れない感じがする所で河まではとても行けず、そのあたりの材木の山で遊んでいた子供たちの写真を撮るのが精一杯であった。Taman Sariという地名は沢山あるがここのは小さなCamatの名前である。そのあたりには車が入り込んでくるのはめったに無く緑深く、ヒンドゥーの香りのする一角でもあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月11日 (火)

Bidaracinaおどろおどろしい名前

Abidaracinaaug09_9
ハルヨノ通りからOTISTA通りに降りる左側の地区はBidaracinaと言う名前の地区である。或いはオティスタ通りを北上するチリウン河との間の地区である。Bidaraとは棗の意味であるが多分赤い実なのであろうか、これにチナが付くとdara(処女)或いはdarah(血)の意味が濃くなる。1740年の中国人虐殺でアンケ河が血に染まった話はあるが、この地区にもそのようなことが起こったのであろうか 少しこの地区はバタビアから離れすぎであり、それを言うなら文法的にはCina berdarahというべきだろう。確かにこの地区には中国人も多く住んでおり、教会も多く何人かの住人と声を交わしたが平和な感じをうけた。運転手はハルヨノからすぐ降りたところに連れてきたがここはなんとなく荒んで、血のチナに合う感じであるが、Otistaから中に入ったところはごらんの通りである。棗があったかどうかは気が付かなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月10日 (月)

ドイツ人社会にはルーター教会

昔カリブサールにドイツの商社やブレーメン公国の領事館があったことは紹介したがそれはVOCの頃多くのドイツ人が住んでいたひとつの証左である。ドイツ人の宗教となるとルーター派新教であるがその教会もバタビアにあった。オランダの宗教は改革派(プロテステント)であるのでバタビア城壁市内の中には改革派の教会しか認められなかったが、1749年ルーター教会が認められたのがその最初の解禁である。プロテスタント以外の宗教を城壁都市内で行うことは禁止されていたのであるがドイツ人であり、ルーター派であったイムホフ総督の時代だからこそできたのであろう。Alingkar_batavia_m1y3109_055
場所は現在のカリブサール・チムールとネラヤン・チムールの角地にあったが、1831年の洪水や地震で崩壊した。ルーター派はその後カルビン派と共にガンビールのウイレムスケルクで祭事を行い、更にはインディッシェ・ケルクとして統合された。本国の教会統合政策があったのであろう。この場所に行くことは現在は殆どないのであるが、例のつり橋の東側の袂で運河沿いがバスターミナルになっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 8日 (土)

チキニ病院のチャペル

ラーデンサレーが1852年に立てた彼のマンションは彼の死後Vereeniging voor Ziekenverplegingが聖職者の妻のA.I de Graff Koomenが中心となって購入のため資金集め活動をはじめSuri Emmaの後援もあって1898年にkoningin Emma Zieken huizとしてスタートしたのが始まりである。Amuseum_nasional_sejalah_nov06_055
この中にネオ・ゴシックスタイルのチャペルがある。入院患者や従業員、看護婦たちに開放されているが余り小さいのでテラスで補っている。昔渇水のため病院のk水が欠乏した際にこのチャペル下から水が沸いたことがあるそうな。
カソリックかプロテスタントの見分けはどうするのかしらないがプロテスタントに賭けよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 7日 (金)

09年7月投資環境トピックス

*爆弾テロ、マリオットとリッツ・カールトンホテルで9人死亡、JIの犯行か
*日イ通貨スワップ協定、15億ドル
*EU、インドネシアの航空会社の欧州乗り入れ禁止を解除、2年ぶり
*ユドヨノ大統領、得票率60.80%で当選確定、安定と成長 国民が評価 汚職撲滅、テロ取締まり奏功
*三井住友銀、BCAと業務提携覚書、顧客サポートの強化目指す。
*フリーポート襲撃:豪人男性が銃撃死亡、銃撃戦へ2人死亡、従業員服務5人を逮捕。
*トレンガレックで邦人殺害:従業員42歳を殺人容疑で逮捕。仕事で怒らせられ腹いせに
*新型フル:新たに83人もの感染と保健省、国内累計495人に。
*2012年めどに安価な国民車開発プログラム実現へ:工業省筋。
*今年3月時点の貧困人口3,253万人、貧困率14.15%で前年同月比1.27ポイント縮小:統計局

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 6日 (木)

Kohler将軍、聖戦の餌食に

Akohler
H.R. KohlerはJongker総督から色々遠征を下命された将軍(中将)である。1824年イギリスよりインドネシアの還付を受けたあと、オランダはジャワに専念し一つ、パドリ戦争を終結したあとは土人領には干渉しない方針であったが、土人領主の圧制、海賊の跋扈、奴隷売買も行われるようになり、特にスマトラは荒れていたため終にランプン、バタック、ベンクーレンを押えることになった。スマトラ東海岸のシャクでもそれをオランダ領としたがアチェーが領土支配を主張してきたため関係は悪化、アチェーが他国の支持を得ようとした動きに対し1873年にLaudon総督は開戦を決意、第一次遠征隊としてKohler の遠征軍を送った。Kohlerは宮殿攻撃の積りが誤ってモスクを攻撃した為住民の反感に火をつけ、自身は銃弾に倒れた。これがオランダが東インドで最大の犠牲を払った戦争の始まりで1904年にやっと終結するのである。Era Muslim Digestと言うイスラムの雑誌に写真と共に出ていたが、彼が倒れた所はアチェの象徴たるBaiturahman大モスクの前で、Hidup Mulia atau mati syahid(気高く生き、聖戦に殉じよう)のスローガンに燃えるMujahidin兵士のスナイパーであった。と高らかく歌い上げている。墓碑はプラサスティ公園にある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 5日 (水)

今はない Bahre & G.Kinder

橋の名前がないから昔の名前で言うとMiddelpunt橋の袂、ジャラン・コピ゚の入口左側に立つ建物は何の感興も湧かないが、ここは昔ドイツの商社が入っていたとの記述を読んだ。Asunda_kelapa_028
それがC.Bahre & G.Kinderであるが、この会社は1848年に設立されている。Gustav Kinderはドイツのブレーメン市や一つの王国であったサクソニー、オルデンブルグ王国やデンマークの領事であった。この会社は1884年には砂糖暴落のため倒産している。その後は名もない会社が入れ替わり立ち代り存在したのであろうが記録はない。特徴は1階のオープン・ギャラリーと2階のイナーギャラリーで鉄棒や針金で意匠をあしらわれている。入口にブレーメン市の紋章があったそうであるが、現在は落ちぶれた風情である。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 3日 (月)

ロッテルダムの次はデンハーグの筈

バタビア城壁都市のゲートNo.5がアムステルダムで、No.8がロッテルダムの名前がついている。その他デルフトがNo.7とかNo.22 のユトレヒトがあるが第三番目の都市デンハーグはない。ところがこの都市が実は実質首都でオランダ・ベアトリックス女王の居住する宮殿(ハウステンボス)の都市なのである。恐れ多いと言うことかもしれない。この都市はインドネシアが独立を果たしたハーグ円卓会議でも有名である。ところでついでにオランダの大きな都市を見ていて驚いたことにこの国に百万都市もないことであった。
1位 Rotterdam 75万人(南ホラント州)
2位 Amsterdam 58万人(首都:北部ホラント州)
3位 Den Haagu 48万人(南ホラント州)
4位 Utrecht  30万人 (南ホラントのユトレヒト州)
全部オランダの起源地ホラントになるのでネーデルラントの北端南端を示すと;
8位 Groningen 18万人(北端 グローニンゲン州)
X位 Middelburg  5万人(南端 ゼーランド州)
デルフトは順位不明の9万人強であった。8位の苦労人間も面白いが、デンハーグの海岸よりにある小都市にScheveningenスケベ人間も笑わせる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 2日 (日)

幽霊ホテルMelatiはHotel Ernst

Hayam Wurukの南端にホテルがある。長らく放置され、汚れまくっていたので気味悪がった人は多いだろうが一応古いオランダ時代からあるホテルの一つである。Amelati_hotel_003
最初は1745年、後に総督(1761年~1775年)となるvan de Parraの所有地であった。
これがホテルになったのは1860年代、Mother Ernstの所有、経営するHotel Ernstである。その後Hotel Wisseとか名前えお変えたが、現在の姿になったのは1920年代で、所有も変わってHotel des Galeriesとなり独立後の混乱の中、Hotel Melatiとなったようだ。
今又外観は美しいホテルにリノベされてはいるが中身はどうだろうか。入り口が小さく渋滞の中でアクセスがよくないので寄らずじまいであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 1日 (土)

保税再生地区と保税競売所とは

主題の法令が月刊誌「インドネシア企業経営」2009年7月号に出ている。
その他インドネシアの会計・税務・輸出入手続き等下記の記事の7月号($100 or RP800,000/月)が発売中である。詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。
今月の税務法令アップデート
今月の経済法令アップデート  
会計原則 122(棚卸資産2008年改訂 2)
固定資産の減価償却分類アップデート
再び 投資のワンドアサービス
物品/サービス国内取引の監督 その1
従業員源泉徴収税の改訂申告フォーム
商業IUTにおける決定内容
繊維・繊維製品輸入管理規定アップデート
税務総局だより
ユドヨノ再選と首都の爆弾同時テロ
保税再生地区と保税競売所
特定業者の従業員所得税政府負担の運用
今月の労働関連トピックス
主要企業グループ一覧2009
首都での旅行会社事業
2009年6月度 下旬 政治・経済トピックス
2009年7月度 上・中旬 政治・経済トピックス
物価・貿易統計09年7月発表
橋本政彦 「明日の街角43~真夏の夢-我々はどこに行くのか」 
柘海広志 「海仲間たちとの邂逅・・・」
西見恭平 「ジャカルタの旧城壁・運河都市の地図」
今月の月次経済指標 2008-2009トレンド
今月の会計・税務用換算レート
今月の為替株式金利の動き

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »