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2009年9月27日 (日)

Gajah Madaの運河Molenvlietは南に流れる?

Molen Vliet の意味はMillwayと出ていたが「風車運河」の方が趣がある。風車も運河もオランダ的である。Aagaja_mada_jl
今はGajah Mada通りとHayam Wurukの北行きと南下りの二つの通りの汚い運河であるが名前はない。
Millとは製粉所や工場の意味でもあるがMillが出来たのはそんな前ではないような気がする。何しろこの運河は1648年に作られたのである。当時チリウン河は東からパンチョラン(Pintu Kecil)の方へも流れてカリブサールとなっていたのであるが、1648年に当時の中国人カピタン Phoa Bing Hamが、そのピントゥ・クチルの城壁中央部の水汲所からマジャパヒット迄の3kmの運河を作ったとScott Merrilleesの「19世紀のバタビア」に出ている。最初はタナバン辺りの森の木材を住宅や船用にバタビア城壁都市に供給したとある。
Aimage_ciliung_et_kota
その時も北行きと南行きの道路に挟まれ、この道路の名前が運河の名前からとられMolenvliet West/Ost(西/東)と呼ばれた。この本にran southとあるので今と逆の流れであったのだろうかとの疑問がある。又或いはマジャパヒットにはクルクット河が近接してこれと接続したのではとの疑問といつジュアンダ通りの運河とつながったのかの疑問三つがとけてない。 
運河の流れは一つでも、船の上り・下りはできるので、北へ運ぶ木材だけでなく南の砂糖・弾薬工場へのサプライもあったのである。1661年にVOCが運河の運営を引き受けその時初めてMolenvlietの名前を付けた。同時にVOCはMolenvlietの水量を増やす為Juanda沿いの運河が作られてMolenvlietに接続したかのようである。このScott氏はPintu Airの部でもCiliung River flowed into canal Noordwijk(現Juanda) and then turned south to molenvlietと書いている。ここでもsouthが逆ではないかと思われる。
20世紀初頭には大工事があり、Toko TigaとPancoran 及びPancoranとGlodok(Jl.Labu Jayakarta)が埋められ現在に至っている。従って現在ジュアンダから流れてきたチリウンはジャヤカルタホテルの近くのリンデテヴェスから東にそれているわけである。
小生も最近は南北も東西も右左もよく間違う。 特に運ちゃんに右左を指示するときは非常に危なく胸をさする事が何度もある。大先生が間違うはずはないので一説としておこう。

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