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2009年10月の投稿

2009年10月30日 (金)

成功物語 MedicOne

緊急医療サービスの不十分な状況を考えてSavtri Wirahadikusumahは米国スタイルの緊急医療サービスを始めた。これは会員制である。彼女の父は2001年KOSTRAD司令官を最後に逝去したがその時は以前には何の兆候もなく倒れ、プルタミナ病院に電話して救急車がやってきたが応急処置もなされずまま病院への途中で息を引き取ったのである。この経験が彼女に緊急医療への道を歩ませ、ワシントン大学で病院経営を学びUSA911サービスを規範にアイデアを開花させた。調査の途次に彼女はメディカロカ創設者アディプルナの子息のRonnyと出会い、Ronnyもその弟が47分もしてやっとやってきた救急車の中で亡くなった経験のあり、二人は2008年にUSA 911からCrouch氏をアドバイサーに迎え、24時間体制の緊急医療サービスのMedicOneをスタートさせた。緊急の際の最初の60分が重要でこれをマネージすることで命を救える確率は30%高まる。現在も諸設備を改善中で投資は増え続けているが、このインドネシアで初めてのニュービジネスへのリスクを恐れてはいない。
財政的にはメンバー制で限られた設備はメンバーに優先されるがノンメンバーを排除するものでない。 将来のリスクを準備できる考えの会員がMedicOneを支えることになるが現在700家族のメンバーを2012年までに5,000家族まで高めたいとしている。
MedicOneは現在2台の最新設備を備えた救急車をもっているが、電話を受けたら電話による緊急処置のガイドを行い、単車でクルーを派遣、クルーによる現場処置と到着した救急車内での途切れ名ない処置を行うのが目玉で、市内4ケ所(Kebon Jeruk, Bintaro, Prapanca 及びTangerang)で11台の単車クルーとAREMT認定の21人の救命士がスタンバイし、シンガポール含め324の病院と提携している。今年にはジャカルタだけでなくスラバヤとデンパサールにも拡大する予定だと言う。

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2009年10月29日 (木)

PLN本社の建築美

モナスの東、ガンビール駅側の道がムルデカ・チムール(東ムルデカ通り)である。ムルデカ・スラタン(南ムルデカ通り)のアメリカ大使館辺りから見るとシックな建物が他を圧している。Aakali_besar_aug_08_006
それがPLNの本社ビルである。ここは昔1897年以前、オランダ時代のガス供給会社(NIGM)があったところであるが、現在の建物は1907年建築でガス会社の役員執務室であった。NIGMの名残はこの建物の裏側に残っているそうであるが。
このデザインはジャカルタでも珍しく、チキニの旧ラーデンサレー邸宅も同じくEklektismeと呼ばれる。過去のゴチックやルネサンス風をとり混ぜたものである。
詳細な部分・飾りに、ネオゴチックまたは英国ヴィクトリア風要素が見られる。
また塔屋と入口は真ん中になくクラシック建物が多くは完全な左右対称が普通であるところ非対象(アシメトリック)である。木片状の飾りは昔の写真にはないので現代になって飾り付けられたのであろう。


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2009年10月28日 (水)

注目されるクントロ・マンクスブロト

第2次ユドヨノ開発内閣で注目されるのが新ポストの開発監視管理諮問会議議長である。内閣を構成するものでないが閣僚クラスという待遇のポストである。さしずめ鳩山民主党内閣の戦略室で、ユドヨノが力を入れたい行政の刷新(公務員サービス改革)とインフラプロジェクトの推進を担当する。この長として指名されたのがKuntoro Mangkusubroto元鉱山エネルギー大臣である。
彼は62歳で、官僚主義と汚職で改革に鈍いプルタミナと鉱山エネルギー省内をクリーン化し行政のレッドテープの排除で手腕を見せた。 
直近では2004年地震後のアチェ復興のアーキテクトとして信望を得た。国家再建庁の長として援助資金の使途を監視,汚職・略取.の心配の中適正な支払いを確保した。
又今回ユドヨノ内閣では多くのポストを辞退しこのポストを望んだようだ。すでにユドヨノ新政権の最初の100日の実施プログラム原案も作成している。Aamay_09_batavia2_056_2

彼はスタンフォード大学でシビル・エンジニアを学び、バンドン工科大学で博士号を得ている。プルタミナの前にTambang TimahやPLN社長も歴任している。


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2009年10月27日 (火)

身近に味わえたジャワ建築

ジャワ建築の粋と言えるジャカルタ随一の財産といえばここかも知れない。以前にジャカルタのジャワ建築を紹介したが、いつも通るクマンの大通りに面してあるとは思わなかった。Aa2009_1024_172510dsc08744_2
それが今レストランとして営業しているPayonである。プラパンチャ通りからクマンに右折し坂を下ったところの左手にある。道路に面しているためアッと言う間に通り過ぎるが、過ぎて直ぐの左に折れる小路に入るとそこに駐車もできるし横腹からその店に入ることもできるので逆にアクセスは良いことになる。ちなみに住所はKemang Raya No.17、電話は21-719-4826である。入口のゲート、ホール廊下、広いメイン建物のゆっくりとした100席もあるスペース、VIPにはいくつかのVila風小屋でプライベート・ギャザリングも出来る。
周りはジャワの樹木に囲まれた庭で、奥にまたジャワ建築の家もある。Payonの意味はシャドーだとか、写真は裏のジャワ建築の処からメインのジャワ建築母屋レストランを見る角度で外人の子供も遊んでいた。とにかくゆっくり出来る、従業員のジャワ・ホスピタリティも申し分ない。料理はJawa Authentic Cuisineで
Tempe penyet(テンペのチリソース・スクランブル)、Satey coconut、Es Podeng(ココナッツ・アイスクリーム)
Wedang Jahe(Hot ginger tera)、Beras Kencur(コメとヘーバルのミックステー)など数えきれない。
良き時代のインドネシアがここにある。

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2009年10月26日 (月)

スロパチとトルノジョヨ

スロパチはオランダと戦ったので道路名になり、英雄にもなっている。英雄認定は1975年であったAabrimob_sep07
。同じようにオランダと戦ったトルノジョヨは道路名にはなっているが英雄認定ははっきりしない。 少なくとも手元の132名中には入ってない。彼らはパクブオノ家となるパンゲラン プーゲルを中心に30年と違わない同時代に生きている。
先にスロパチについて書いたようにスロパチはプーゲルにVOCが付いたため反プーゲルのアマンクラットIII 世側に付きオランダと戦ったが最後は1706年に死亡。一方トルノジョヨはアマンクラットIIIの祖父アマンクラットIが残虐であったため、1674年これに反抗し立ちあがり、王宮も占拠、アマンクラットIはVOCに援助を申し入れたもののVOCはすぐには耳を傾けず、為に逃走中に死去、後を継いだその子供のアマンクラットIIに対し兄弟のプーゲルもスナンを呼称し張り合う中であった。トルノジャヤに付いたマカッサル族の海賊行為の激しさも起こりVOCはアマンクラットIIの要請にスペールマン軍を派遣した。この戦いで、トルノジョヨはVOC側のJonkerに降伏、アマンクラットIIの手により1682年頃刺殺された。VOCの介入が最初はアマンクラット側、次いでプーゲル側と入れ替わるため勘違いを起こしやすい。この通りは国家警察の本部と機動隊の本部が並んでいる。機動隊の本部には警察のミュージアムがあるそうで、又誰かの銅像も立っているが足が向かない。

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2009年10月23日 (金)

ガルーダのエミルシャー

現在のGarudaの社長はMr. Emirsyah Satarであるが、今日友人の話でかれとどこかで会ったことがあるという。経歴を調べてみると1959年生まれ、インドネシア大学の経済学部会計学卒、すぐプライス・ウオーターハウス・クーパースの監査人を務め、CITIバンクの副社長補佐から1990年にはヤンダルマディグループのファイナンス・デヴィジョン本部長になっている。その後もニアガ・ファクタリングの社長、ニアガ・ファイナンス香港店長を経て2003年にガルダのファイナンス・ダイレクター、バンク・ダナモン副社長を経て2005年に若干50歳でガルダの社長に抜擢されている。
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ガルーダは7月にチェンカレンのガルダ・シティ・センターで新社屋ビルを大統領他スリ・ムルヤニ等閣僚を招いて披露した。同時にIndonesian Hospitalty のコンセプト、エアバスA330とボーイングのネキストジェネレーションの新機を加えイメージアップを図っている。このレセプションでも友人は合う事が出来なかったと残念がっていた。
確か負債問題もマンディリ銀行との間で合意を見たようなニュースも記憶している。
今回帰国便にガルーダを考えたがマレーシア航空の方が安いのでそちらにすることにした。写真はスカルノ空港から。ただしビルは未確認。

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2009年10月22日 (木)

スロパチとスノパチ

スロパチとスノパチは良く間違われる。スロパチはメンテンの中央の公園の名前になっているがAajun07_soenopai_kbaru_012
スノパチはクバヨランの北東の道路名になったいる。そこにスノパチ薬局もありこちらのほうが有名かもしれない。
スノパティはジョクジャの東南コタグデ出身、超自然的な能力で知られたマタラム王国の建国者であるが伝説では瞑想中にロロキドゥルと言う南海の女王に海の世界に連れられ夢のような日々を過ごし、マタラム王国の庇護を得たという伝説めいた世界にある。15世紀から16世紀はジャワではワリソンゴのイスラム布教も進み、ヒンドゥーのマジャパヒット王国もハヤム・ウルック王の死後衰亡、ムスリムの代官達は独立した領主のように割拠する中、ストーウィジョヨ(その称号でパネンパハン)がドゥマク、パジャン、クディイリを支配しマタラム国を建国した。このパネンパハンこそスノパティである。父はパジャン国の王の部下キヤイ・パマナハンである。
南海の女王はデウィ・ラトナ・スウィディが化身した存在だと言われる。ラトナ・スィディは西ジャワのパジャジャラン王朝の王女で、ムンディンサリ王の娘である。今でも王家人々が海に贈り物をするラブハン(Labuhan)と呼ばれる儀式が毎年、ジョグジャの南、パランクスモの海岸で行われる。年代は第3代マタラム王スルタンアグンの即位年の1613年から推定するしかない。

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2009年10月21日 (水)

スラパチとコルネリア・クノール

Cornelia
オランダに反旗を翻し戦ったスラパチは日本婦人コルネリアの下男でもあった。
この話は昨年7月6日のブログに書いたが、コルネリアの主人はVOCの幹部のクノールである。コルネリアとの間には二人の娘しかいないが、Heuken氏の話だとクノールの息子にいじめられスロパチが反抗したためバライ・コタの牢獄につながれたが、脱獄に成功し反オランダの叛旗の下プリアンゲルの山岳地帯に立てこもり以降も死ぬまで反オランダと戦い今はメンテンの中央公園の名前にもなるとともに国家英雄なっているほどである。1660年生まれ、1670年代末VOCの追手にプリアンゲルからマタランに走り、その当時VOCと同盟を結んでいたマタランのスーナン・アマンクラットIIはスラパチを歓待、これに怒ったVOCはタク少佐を派遣したがマタラムの手違いで以下70名が死亡する事件が起こり、スラパチは更に東部に撤退、パスルアンに独立国を宣言するに至る。その後アマンクラットIIは1704年に死去、その子供のIII世が即位したが残忍な暴君であり、その伯父プーゲルとの仲からVOCはプーゲルを支援する第1次ジャワ継承戦争となった。III世はスラパチと同盟し戦ったがVOCの大軍にスラパチも倒れIII世もスラパチの息子ラフマッド等残党と共にその後も戦うが1708年VOCのクノールに降伏、最終セイロン島送りとなった。プーゲルがパくブオノ家を創設することになるが、そのため高い代償をオランダに与えることとなった。この話の最後にまたクノールが出てくるが、コルネリアの主人のクノールとは同名ではあるが別人である。子供である可能性もありそうなると話は面白くなる。スラパチはUntung Suropatiスロパチとも呼ばれるが、よく似たスノパチは別人でこちらはマタラム国の始祖である。

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2009年10月20日 (火)

クライネ ブームとシュタット・ヘルベルグ

スンダクラパ近辺は歴史のいくつかの断面を残している。スンダクラパはCoconut Harborの意味であるがオランダ人にはHafenkanaal(Channel Harbor)と呼ばれる事もあったように沖合迄運河の港である。1613年にオランダの商館を海岸地を借用した時は将に海辺であった。ここに南から現在のカリブサールをチリウン河が流れてきて又東からもチリウン河が流れてきていた。この商館を城砦に変え、北の海岸地を埋め立て東からのチリウン河を城砦にぐるりとめぐらせていた。北側にWaterpoort(水門ゲート)が設けられていた。両方のチリウン河がここスンダクラパに流れる直前にはどちらも吊り橋がかかり一つは現在も吊り橋として残されているが一つはローダン通りで気がつかないうちに過ぎる。
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ローダン通りを現在のペニシ船が係留しているスンダクラパ港に入る入場門のあたりにKleine BoomというのとGroote Boomというのがあった。Kleine Boomは旅行者の上陸地点でGroote Boomが貨物の陸揚げ地点であった。上陸・陸揚げイクオール通関である。Kleine Boomを上がるとそこには馬車がつながれたいわば旅荘がある。市が保有するものでCity-Inn(Stadtherberg)と呼ばれた立派なものである。

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2009年10月19日 (月)

あと一人のジャガタラお春

ジャカルタ歴史博物館の2階にある一つの古い剣がある。
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パンフレットによると長さは1.1メーター、重さは4kg、正義の剣として最初に使用されたのは、クーン総督がPieter de Cortenhoopと言う若い兵士に対しこの博物館の前庭でこの剣で死刑を下した時の剣である。とのみ記載されている。
実は彼はJacques Specxという平戸商館長が日本の女性との間に生まれた娘の12歳のSarahと体の関係がもったからである。Specxはバタビア総督に栄転するのであるが、一時オランダへ帰国しなければならなかった時、サラを先にバタビアのクーン総督に預けた。その時この青年はクーン総督の自宅に預かられていたサラと恋に陥り、クーン総督の厳しい怒りを買い市庁舎前広場でこの剣で処刑されたのである。サラも同じく鞭打ちの刑を受けたがその後赴任してきたSpecx総督に保護され、ドイツ人の司教と結婚できたが、台湾に移りそこで36歳の一生を閉じている。 何が正義か分からないが、怒りに任せ二人を絞首刑にするところ、裁判長のなだめから裁判にした結果の死刑である処が正義(公正)なのであろう。青年にとって結果は同じであるが。。


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2009年10月15日 (木)

Vrijmans Hafenは完全埋め立て

現在のチリウン河は最後パキン運河からWadok方面に流れているがパキン運河が出来たのは1980-1981年なのでその昔はパサールイカン島の北と海洋博物館の間のVrijmanshafen運河(海口)が現在のミトラアパートメント裏経由してWadokに流れていた。このVriemanshafenはパサール・イカン島を抱くように、島の南の海からも昔のZeeburg砦辺りで合流してWadok方面に流れるのであるが、Aaapasar_ikan_viewscan10002
海洋博物館辺りのVriemanshafenは埋め立てられてゴミの山となっている。ミトラアパートの裏からWadok迄もアパート建設の時に埋め立てられている。従いZeeburg砦の裏辺りのVrijmanshafenが1990年近辺までは残っていたが現在それを確かめる事ができない。
何時ぞや(9月17日のブログ)はパサル・イカンの奥まで突き進んでいたが民家に遮られて確認できず(尋ねると何やらもうないとの答え)、Aasunda_kelapa_045
そういえばそれこそLookout Towerから覗いてみようと上ったのは良いが屋上に上っても民家の屋根しかみえなかったが、民家の屋根の並びから見ると既にないということとなろう。このLookout Towerは4階立てだったと思うもその上に梯子があり屋上に出ることが出来る。そこは人一人のスペースで外人が一人いつまでも立っていたので覗くだけに終わったが、合計5階のぼろぼろの階段やはしごで足はがくがくとなる。

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2009年10月13日 (火)

Groote Boomは何れに

古い史跡の書物を漁ると二つのGroote Boomに行き当たる。
Heuken氏によるとチリウン河の西側でjakartafishport.comによるとスンダクラパのパサル・イカンの対岸の海寄りとなっている。海寄りは疑問があるがパサル・イカンの東側対岸にもあったことは事実である。チリウン河・カリブサールの東と西で間違いではないかとおもったが、こういう事はよくあることで歴史の長さを考えると移動もあるわけで不思議でも何でもない。Aavoc
西側にあるのは造船所の南、あのつり橋(あるいはホテル・バタビア)から言えば高速越えた北にAnkerwerfという船の錨の置き場倉庫があったそうであるが、これが1834年にGroote Boomとなった。そしてこれは更に1852年に東側に移り、最後は1886年タンジュンプリオク開港でタンジュンプリオクに移ったものである。Boomとは木材を意味し、港の船着き場を思い出すとイメージがわく。更に飛躍してこれは税関事務所の意味なのである。Grooteは大きいという意味なので小さい船着き場Kleine Boomもあったことになる。最初のGroote Boomは多分この辺りと見当つけた1993年頃の写真を掲げた。CulemburgのLookout Towerから南300メートルに当たる。

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2009年10月12日 (月)

ラーデン・パター通りの今

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パティムラ通りとシシンガマンガラジャ通りの間、アルハズハール・モスクの裏の公共事業省事務所をまるく囲む通りがRaden Patah通りである。 割と広く閑静な道路であるので、金融危機の直後この車の通りが少ない通りに即席レストラン屋台が並んで賑わったことがある。Aa2009_1010_181203dsc08606
アルハズハールモスクの裏の左手には緑のモスク施設がある。ラーデン・パターがこの地に名前を付された理由はないが、彼はジャワで最初の最強イスラム国 ドゥマク国を建国した人でワリソンゴの一人と間違われるくらいのであるので似合っていると言えば似合っていよう。 マジャパヒットのブラウイージャヤの王子であるがチャンパの血をひく美人の母親とある領主に下付されたが青年期にワリソンゴの一人Sunan Ngampelの元でイスラムを学び精神的支柱を得てドゥマクを建国(1478年)を成功させる。その後もバンテンおよびチルボン王国の勢力拡大を助け、ジャワへのイスラム教を普及に貢献した。養子がファタヒラーと言われる。

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2009年10月10日 (土)

9月の投資環境ニュース

*チャンドラ・アスリ、拡張資金調達で社債2.5億ドルの発行検討と地元紙。
* ガルーダ航空、増便計画も、KL 日1→2便、Spr日7→9便、BKK週3->7便。
* 日本Inpex、Maselaガス田開発計画承認される。4.5m.ton/年、$190億。
* RIM、ブラックベリーの認証申請の再開許される
* ニューモント社、鉱業継続許可取得、20年間、スンバワ
* ポスコ(韓国)、国営製鉄クラカタウと11月めどに合弁会社設立検討、投資$50億
* 吉野家、フランチャイズ契約、 2010年1月にジャカルタに吉野家1号店
* SEMEN GRESIK(最大の国営セメント会社)、5プラント10年計画
*  砂糖価格急騰:PTPN、3砂糖工場建設へ、
* 首都MRT建設:日本工営連合がシステムプロジェクト基本設計落札。
* 来年の電気料金20-30%引き上げ:国営PLNが提案。
* パラパ・リング計画第1期工事10/9に開始:情報通信省。同計画は全国に計5.7
万kmの光ファイバー基幹通信回線を敷設する計画、うち第1期はスラウェシ~東
ヌサトゥンガラ~パプア結ぶ4,458km。
* インドネシア輸出入機関(LPEI)が発足、旧イ輸出銀行(BEI)は解散。
* 環境保護管理法案可決へ、企業には環境保護にかかわる支出に備えた準備
* VAT改正法案が国会で可決、来年4月に施行。
* 国会で法案の駆け込み可決続く。麻薬法案と保健法案、メッカ巡礼運営についての法律
出入国改正 法案も国会可決。翌日は青年法、経済特区法、郵便法が可決。
* タシックマラヤ沖M7.0の強震、死者74人に増える。行方不明者34人
* ジャカルタ・ストリート・チルドレンへ金銭与えた12人が逮捕、罰金刑受ける
* バティックがユネスコの無形文化遺産に認定される見通。ワヤン、クリスに次ぎ3番目。


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2009年10月 8日 (木)

Citadel通りのアイスクリーム屋

既に紹介したイスティクラル・モスクの南側はオランダ時代のFrederik要塞があったところであるがAa087
その西側のチリウン河沿いはCitadelwegと言われていた、現在のVeteran 1である。このCitadelは古いラテン語からきており、英語にも都市を見下ろす要塞の意味でつかわれている。オランダ時代はこの通りはにぎやかな通りでジュアンダ通りともつながりその入り口は現在でもスリウィージャヤホテルとして存続しているホテルHotel Lion d'Or (その後Hotel Cavadino 既紹介済み)があった。真ん中あたりにはいくつかのイタリヤレストランDOMsなどがあるがそこに有名なアイスクリーム屋があった。Aa090
現在も昼間から多くの人が食事にきているがこのアイスクリーム屋は1932年から営業している。名前がRagusaでES ITALIAと付されたカフェで平日の昼でもご覧の通り店に流しのギター歌手がサービスしている。 トラデショナル アイスクリームは4種盛りでRp18,000と安い。
店の前はイスティクラルモスクであるがそこを高架鉄道がさえぎり又モスクを囲むチリウン河でそれに沿っているが趣はなくなった。チリウン河が塵運河といわれる通りである。左奥にスリウイジャヤの壁が見える。

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2009年10月 7日 (水)

最初のカントールKPMは今はここ

9月24日の{モニュメン アチェの所在地}というブログでそれはイスティクラル・モスクの処に立っていたと書いたがその時の資料となった昔の絵葉書の説明では現在のピントゥ・アイルの方のKPMから取った写真の絵葉書となっていた。KPMと言えばオランダ時代の王立海運会社で現在運輸省が使用している由緒あるビルでムルデカ・チムールにあるので不思議に思っていたのであるが、先日そこのピントゥ・アイル通りに立ってみたが将にピントゥ・アイル(水門)からイステクラル・モスクを眺めるところでアチェ記念碑の所在地はブログ通りで確信できた。Btvkpm
Aa2009_1004_145721dsc08543 確信がないのはKPMの事であるが、そちらも今日何気なく見ていた絵葉書でKPMはムルデカ・チムールに移る前にピントゥアイル通りにあったという事がわかりこちらの疑問も氷解した。先日そこに立った時の写真のビルが昔、先代のKPMのビルが建っていたところであろう。
こちらの絵葉書はトコ・ジェパンが発行したものとある。

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2009年10月 6日 (火)

最近の企業ニュース

10/05 BIレファランス金利6.5据え置きか、インフレ兆候 2.75%->2.83%、PLN 30% Upで来年は6%
10/02 政府、違法漁業の取り締まりで銃撃沈没も許容
10/02 Jamsostek、イスラム開発銀行の子会社ICDと合弁投資会社設立計画
10/02 BCA,2010年第1Qに4,000億Rpの社債発行
10/02 政府、外国企業の食品産業進出に何らかの制限を検討
10/02 TIMAR,2010年スズ需要6.7%アップ見込む
10/02 財務大臣、原油価格が$65を超えると2010年に石油製品値上げ許容
10/02 バティック世界無形文化遺産認定、バティックの日を制定
10/02 JKT市は公務員に着用義務、繊維博物館にバティック・ミュージアム建設予定
10/01 Pupuk Kaltim非上場国営尿素会社、1.3兆の社債予定。内3.000億はSusuk
10/01 MEDCO、第2地熱発電を来年計画、総資金$400M
10/01 インドネシアのガス生産、1-7月5%アップ
10/01 TRUBA ALAM(エネルギー建設)、今季収入3億ドル見込み
10/01 政府Garuda Mandiri借入返済資金2.43億ドル援助決定

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2009年10月 5日 (月)

Hotel Bellevue--さくらホテル-- Hotel Candi アールデコ

行ったこともない処の事を書くのは気が引けるが、スマランを見下ろす高地にアールヌーボのホテルがあるそうだ(あとそうだは省略)。ホテルの名前はHotel Candi (JL.Rinjani 21, Gajah Mungkur, Semarang 50231. Tel. (024) 8315272 Fax: (024) 8314738)である。アールヌーボの建物をサーチしてキャッチしたが、実際はアールデコなのか、ともに20世紀初頭の相次いで花開いた美術・工芸デザインであるので違いは専門的であろう。このホテルが立ったのは1919年、オランダ人van Demen Warsがオーナーだった。日本占領期はサクラホテルと命名されたが日本引き揚げご一旦取り戻した後スカルノ時代Hotel Tjandi Baruとして国有化された。1973年ジャムーのNy.Meneerがこれを購入した。
現在はPT.Sidomunculが5番目のオーナーとなっているようだが、今でも植民地時代の風情を味わうことができる。

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2009年10月 2日 (金)

HI前の大看板裏の新ハイテク警察署

8月28日のブログで、HI前のユドヨノ大看板が崩壊したニュースを伝えたが、本当かどうか見に行ってきた。
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ご覧の通り看板はなく、忽然と立派な警察分署が現れた。この警察分署はついこの間9月25日 国警長官Bambang Hendarso Danuri大将はにより現代的ハイテク警察交番としてオープニングされたものである。報道によるとCCTVカメラとデジタル・マップ、29インチのタッチ・スクリーンを備えているそうで、 ジャカルタ市の交通管理センター(TMC)とつながって渋滞状況もわかる。 ディポネゴロ通りにも作られており、又 マンパンとパッサール・ルンプットでもいつも起こる喧嘩取締の為設置する予定だそうだ。 あの倒壊看板の写真を撮った時その裏側にはすでに警察署は出来ていた。上手いタイミングで倒壊したものである。又今後もあそこには看板が立つことはないであろう。 

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2009年10月 1日 (木)

CX・香港飛行場の奇奇怪怪

昨日のジャカルタ行きの中継地、香港空港は今度は何も起こらないだろう確信し、わざわざ昨日のブログの通り、香港にまつわる話を用意していたのであるが、実際はその日ほどこんなこともあるのかというほど初めての事が多かった。成田発は特にないが、しいて言えば前日及び前々日からTVはこの日の雨を予想していたが朝起きた時芝生が御湿り程度であった他は何もない(TVはなぜ問題がある話は生き生きとなるのであろうか)が、その後の話を以下に列挙してみよう。
1)着陸態勢案内の時間は着陸前なんと40分も前であったこと。この時間は同じCXでもまちまちで、以前25分前でトイレに行こうとした時搭乗員が飛んできて注意されたとブログで紹介したがそのあと気をつけていたのであるが15分前でもトイレい立つのは見た。今回はHKG着予定14:50分の処14:10分過ぎから着陸態勢の案内があった。今日は早く着くのだなと予定表示のテレビ画面を見ていたら、あと着陸迄ゼロ分になっても空港は見えず、その画面はその後役に立たないとして消され結局14:50分に着陸した。何が間違ったのかしれないが乗客がトイレを我慢したのは結局40分という長い記録であった。(画面では一時飛行機の絵が香港を通り過ぎていた事は事実であるが)
2)トランスファー案内が人力の原始的なやり方であったこと;案何が不親切なのはいつものこと
3)動く歩道が逆行していたこと
4)トランスファーゲートNo.が直前で変更されたこと:香港でのジャカルタ便トランスファーのゲートは成田ではわからず機内TVで初めてわかるようになっている。これもいつも番号は違うが今回は67番であった。(接舷ゲートもいつも違うが今回は26番)、降機するとすぐ空港従業員二人がマジックペンで乗換ゲート番号を書いた紙を示し67番は右にまっすぐ行けと言う。又原始的やり方になったのかと文句を言いながら右にまっすぐ行こうとしたらそこには自動歩道は二本とも逆行しており、やむなく歩くことになった。何故かトランスファーの客はほとんどいなく一人で不安を感じながら延々300メートル、今までは「Transfer」の標識を見ながら行けたのであるが、今回は私はどこに行くのだろうと心配しながら歩いた、誰かに聞こうと最初に出会ったところはDepartureと書いてある。エーイままよと聞いてみたらなんと、そこがtransferの検査場であった。ノーチェックOKの薬飲み水カップ(100円ショップで売っている)が引っ掛かったのもはじめてである。
やっと出発フロアに上がり、そこが30番辺りで又延々67番迄行くと、そこには乗客はだれもいない。係員を捕まえて聞くと変更して63番になったという。 戻る歩道は工事中、3番違いでも結構あるが、63番にやっと到達、そこで何時に変えたのだとなじると3時と言う。つまり15分前程度であるが、これはでたらめなのはそこに既に多くの乗客がいたことで推量できる。
6) 今日はレバラン帰りの中国人で搭乗は100%、これも初めて遭遇したことであった。
7) 搭乗後、安全装置の案内があった後機内で1時間も待機状態となったこと。案内では天候の事を言っていたが雨は降っておらず、多分台風でも接近していたのであろうか。
8) ジャカルタ到着後所定の場所に着いてから後10メートルの調整に10分も掛ったこと
9) 航程がまちまちであること:以前NRT/HKG間 3.30分に対し HKG/JKT間 が4.00と計算したがどうも計算誤りしたようだ。今回の旅程表では
行きの時 4.50 対 4;40 (香港で30分ほど早く付き過ぎた、又香港で1時間機内に閉じ込められたが着いた時の遅れは30分であったことから、両方相当サバを読んでいることが立証できる)
帰りの時 成田側3.55 対 JKT側4;45である。 
次回の旅程では
行き:5.20対4.45  NRT 10:45-HKG 15:05、HKG 16:15-JKT20:00
帰りは3.55:4.45 JKT9:15-HKG15:00、HKG16:30-TOK21:25
と東京側で行きと帰りの差が大きく、従い行きと帰りで香港起点にどちらが長いかが一言で言えない。自分の頭が自信がなくなる。
いつも変わらないのは機内食である。

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