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2009年12月の投稿

2009年12月31日 (木)

2009年の特色・重大ニュース

*ユドヨノ2期目政権スタート、汚職撲滅委員会・センチュリー銀行めぐる政治抗争に揺れる。
*世界同時不況の中、インドネシアの経済安定が光る  G20等で役割高まる
*資源エネルギー関連企業、積極投資が目立つ。重工業国化への道
*日本からの投資ひそかに盛り上がる。
*物価指数 過去10年来の低水準 2.4%
*爆弾テロ 米系2ホテルで、2005年に続く。ヌルディントップ他テロ一派一掃
*パプア、独立運動、ニューモントで対立 
*西スマトラ・パダン地震 死者行方不明1,195人
*根強いイスラムの動き、イスラム金融ももてはやさる。シャリア法治
*鳥フル、豚フル、エイズ、食品汚濁
*日本人殺人事件、相次ぐ
*日本食品、管理問題から品薄続く
日本祭りモナスで開催というのもあったが、なんとなく排斥、わが道を行くというのが気になる1年であった。
来年は明るい1年でありますように。皆様の御多幸をお祈り申し上げます。

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2009年12月30日 (水)

Amerika kita strika ジャカルタへ 

12月30日に合う話題は少ないが、この日バタビアが正式にジャカルタになった日だという。実際は日本のインドネシア占領は1942年3月9日であり、直ぐに地方行政を州(keresidenan)、県(Kapupaten)、市(stadgementer)、村落には隣組(現在のRT/RW)を設置し、バタビアの名前をジャカルタに変えた。オランダ時代の道路名や建物は日本名に変え、バタビア建設のクーン将軍の像は破壊した。Aajawa_barue_dec_1942_trim
占領当初は日本軍は歓迎を以て迎えられ、日本軍もスローガン‘Amerika kita strika’(アメリカにアイロンかけ) ‘Inggris kita linggis’(イギリスはかなてこでねじ伏せろ)と民衆を焚きつけた。こんなしゃれたスローガンを作れる人は日本軍にいなかったのだから、多分これはスローガン好きなスカルノの傑作ではないだろうか。米英をこのように切り捨てた大統領はその後もいない。公式にジャカルタになったのはハーグ条約の後であるが、これも自分たちで決めた事を歴史に残す為のものであろうか。歴史の一こまとしてのみ。写真もスカルノが演説した大集会.の一こまである。

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2009年12月29日 (火)

日本の空とCOP15とインドネシア

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日本に戻って8日、不思議な事に未だ雲一つ見ていない。冬の空だからであろうが、外は寒いがここには気候温暖化問題は解決しているのではと感じたものであった。(実際は7日目、8日目は朝夕2~3の雲はあった)
COP15ではまた先進国と途上国間の隔絶を深めるだけの(印象を残した。既に工業による排出ガス換算では突出した先進国の中国が、後進国迄引き連れて対話無用と対決している図は不良学園ドラマを見るようだ。世界4位の排出国のインドネシアは未だ先進国寄りで合意にこぎつける姿勢は示すものの先進国により多くの責任を要求し中心国としての甘えが残った。気候温暖化のしっぺ返しは全地球的に襲ってくる。むしろ海水上昇は平和な太平洋諸国を襲っている。ジャワも年間0.8cmの海水上昇があるという。沖に大きなSeawallを建築するコストはばく大であろうし、却って多くの自然破壊が待っていよう。写真はなんとなく雨の日のゴルフ場
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昨日はインドネシアの国益を守るグループがインドネシアのCOP15での失敗を非難していた。
COPとはコペンハーゲンの頭文字だと思っていたが、締約国会議(Conference of Parties)の略だそうだ。京都議定書がCOP3であれから12年が立ってCOP15故今後も何らか継続されるだろうし、前回一致で合意出来る所は地球温暖化のリスクと対策の必要性の認識である。そこに期待をしたい。
個々人としてはもったいない運動を日常化し、或いは更には非協力国製品のボイコットするしかないであろう。エミッションに責任を持たない国は許されないはずだ。
後日談:この翌日フジテレビでは福沢・さんまがTV好きそうな評論家を集め、温暖化への努力に水をかけていた。 そのような異見があることはだれもしっているが、良識あるものは言わないものだ。石油は有限であり、何千年後であろうとも、地球には我々の子供たちが面々と生きているのだ。

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2009年12月27日 (日)

PLNの本社はどこ

ムルデカ・チムール通りにあるPLNの瀟洒な建物は後ろ側に大きなビルがそびえており、ついPLNの本社と書いた事があり、広沢先輩にPLNの本社はクバヨランなりと指摘を受けた。
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PLNの前身はオランダ時代のNIGMであるがこれは元々ガス供給会社で、これを引き継いだのが1961年でそれがムルデカ・チムールであったわけである。1965年にガス部門はPGNとなりPasar BaloeからTomangの方に抜けるZainul Arifin 通りの事務所を本社(?)とした。PLNがいつクバヨランに移ったかは解らないが相当前、80年代ではなかろうか。1992年には民間発電事業を認めている。発足当時は159MW 程度であったが現在は2,500万Kwと100倍(?計算giveup)の伸びであるが未だマダ電力不足は続いている。2年ほど前の10,000MWクラッシュプログラムに続き来年には次の10,000MWプログラムが待たれているようだ。指摘を受けた次の日にクバヨランに回る事があったのでPLNの本当の本社ビルを写真に収めてきた。トルノジョヨ通り、手前に見えるのが機動隊?警察博物館のヘリである。

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2009年12月26日 (土)

スマトラから5年、又ムンタウェイ巨大地震が

12月26日はスマトラ沖大地震から5年目となる。226,000人の命を呑んだ津波の惨禍であった。 復興事業はなったが人々の心の傷は永久に癒されないだろう。所がつい最近豪州筋からスマトラに匹敵する津波が警告されている。場所はMentawais、西スマトラの陸地に沿うようにある諸島である。警告によると:2004年のインド洋津波と異なり今度の津波は小さいがその恐ろしさは同じである。震源地はインドーオウストラリア・プレートとヨーロッパ・プレトがぶつかるスンダメガトラスト逆断層地帯、シベルット島下、震度8.6と予想されている。このスンダ逆断層地帯は過去700年の間に200年単位で巨大地震起こっている。古くは1300年代、1600年代、更に1797年から1833年の間である。
この断層はミャンマーからスマトラへそしてジャワからチモールへ抜ける線でミャンマーから1600kmの離れたアチェでは2004年にスマトラ沖地震が起こっている。
スンダ逆断層は3つのセクションからなる。
2005年3月にはNias島で起こっている。2007年には震度8.4の地震がMentawai南部で起こっていて、今度はMentawai北部に起こる可能性がある。
2009年9月のパダン地震は逆断層の破裂ではなく、より深いものであったためMentawaiの圧力を緩めてはいないという。そういっている間に二つほど起こっている。それにしてもインドネシアはもう許されてもいいのになと本当に思う。

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2009年12月25日 (金)

元保険大臣の収賄事件経緯

元保険大臣Sujudiが収賄事件で国家に1045億の損害を与え20年の刑に訴えられているニュースがあった。容易に想像できるケースであるが一つの典型であるのでニュースを詳細紹介する。2003年~2004年時代の事であるので、メガワティ・ゴトン・ロヨン内閣時代である。
被告Achmad SujudiはPT.Kimia Farmaの社長Gunawa  PranotoとPT RifaJaya Muliaの役員のRinaldi Yusufと保健省の2003年~2004年度設備調達計画にかかわり汚職スキームに参画したと検察官Muhibuddinは汚職裁判所で木曜日起訴状を読み上げた。2003年、被告は直接国営製薬会社PT Kimia Farma を東部インドネシア及びインドネシア赤十字関連設備調達プログラムのサプライヤとして指名した。現在の法律でよればその調達プロジェクトは入札によることが必要である。会社は更にそれのパートナーとしてPT Rifa Jaya Muliaを指名、2003年10月、GunawanとRinaldiは彼らが供給する設備の価格を決定した。価格は総額1,939.7億でここには価格のマークアップを含んでいる。この価格は保健省の関連職員との交渉の過程で1,904億迄値引きされた。グナワンとリナルディはこれを4つの会社に下請けにだした。これらの会社はPT Berca Indonesia、PT Prima Semesta Internusa、PT Arun Prakarsa Indonesia及び PT Penta Valentである。PT. Rifa Jaya Muliaはこの違法なマークアップにより283億ルピアの所得を得ており、PT Berca Indonesiaは54億ルピア、PT Prima Semesta Internusaは66億ルピア、PT Penta Valentが91百万ルピア
を受け取り、グナワンは又2億ルピアを被告に与え、一方リナルディも5億ルピアを与えている。更にグナワンは25百万ルピアから7億ルピアの間の金額を保健省の職員幹部に与えた。保健省へのグナワンのトータルキックバックは83億に達した。グナワンもリナルディも別法廷で同じく20年の刑期で起訴されている。
クリスマスには話題として沿わないが。。

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2009年12月23日 (水)

豪華なバタビア・マリーナでクリスマス

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スンダクラパの灯台でも写真に撮ろうとウロウロ、ペニシ船の所、直前で右に回り、行きついた所に豪華な建物があり、びっくりした。名前はMarina Bataviaである。ここは海洋観光の拠点として、マリーナ、スンダクラパクルーズ、潜水遊覧、浮きプール、ワインバー、ビリヤード・プール、ビアガーデン、ウエディングボール、中華・日式レストラン等々を兼ねそろえている。華人のHeru Pramono氏の経営でゆったりさせてくれる。サンセットクルーズはRp389,000、クリスマス 宝探しの昼夜ビュッフェがRp350,000である。Aaancol_kemayoran_026
所がここに行く道はローダン通りでいつも左側に住宅コンプレックスでもあるのかと通り越していたところの奥であった。2002年に建設し本年グランドオープンしたばかりである。泊まれるのはメンバーのようだから近くのバタビアホテルを利用すれば、バタビア・ナイトを飛行場から30分で楽しめる事になる。
正式にはBatavia Sunda Kelapa Marina、Jl.Baruna RayaNO.9,Tel:691-5599である。

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2009年12月22日 (火)

航空手荷物のサイズ検査

12月から航空手荷物のサイズの制限が厳格実施されると聞いていた。念の為記録していたサイズは、縦、横、奥行きが55cm、40cm、25cm、合計では115cm重量は10kgである。破棄させられる可能性もあると思って準備しながら出掛けたが、スカルノ・ハッタでも香港でも何もなかった。ジャカルタではtotalの重量も測らずに、チェックリボン迄掛けてくれた。香港でも肩掛けバックを出して二つの機内手荷物にして見せたが、特に何もなかった。周りを見ても何か注意を受けているものも見かけず、なんとなく皆が自粛しているのだなと感じるのみであった。あとでインターネットを見ると厳格適用だと脅しているのは日本の航空会社の特に国内のようだ。上記制限はJALの国際線である。他の航空会社を見ると、元々この制限はありむしろ他国の方が小さい。
CX では  56x36x23 でエコノミー7kg
ML では  56x36x23 で5kg
GA では3辺の和が115で7kg
SQ では同上、但しカリーバックは55x40x20である。
破棄することもないが、預けとなるので普通重量制限を超えるので超過料金がかかると
言う事である。 序に又香港空港の問題を書くと、前回止まっていたtravelator動く歩道は今回は二つが同じ方向に、こちらに向かって逆行していたのには驚いた。

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2009年12月20日 (日)

忘れられていた本人ブントモ

11月10日は1945年スラバヤに上陸する英国軍と独立か死かと戦った日で英雄の日とされ、毎年国家英雄他が叙勲され大統領がカリバタ英雄墓地に献花する。その戦いに先頭に立って戦ったのがブントモこと、Sutomo である。今年であれから64年強、国家英雄の最初の叙勲が1959年故、それからも50年、ブントモが亡くなってからも30年弱、毎年ブントモを思い起こしながら国家英雄に叙勲するのを長く忘れていたのだ。以前からリストを作りながら不思議がっていたのであるが、昨日本屋のグラメデディアで「国家英雄143」と言うのを見てやっと2008年に国家英雄になっていた事を知った。
国家英雄は国家官房Setnegの所管であるが、完ぺきなリストもない。小生が作ったのが148か149人である。一人不明者がある。生年・没年、叙勲年など本により色々ある。他に目を引く(納得を含め)のは、タンマラカ、アダムマリク、チエン夫人か、スハルト自身はまだである。スカルノの右腕だった人は多くはいない。


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2009年12月18日 (金)

Tugu クロンチョンモリツコの故郷は?

クロンチョンの原曲はマイダイケルの中で生まれたKroncong Moritskoと言われる。一行で書くとこのようになろうか 多分間違いかもしれない。クロンチョンの大家である庵原さんからメールをいただいた。Aagreja_tugu_nov06_025
クロンチョン発祥の地トゥグ村の村主はクイーコ家であるが、3代目のサムエル氏も亡くなり、「息子Guidが街から帰って継いだらしく中央に汚染された演奏だった」ようで、嘆いておられる。「トゥグ村でMoritskoの由来を知る人はなくMorescoムーア人の歌」と混同されているとのことである。ポルトガルの歌曲のファドがクロンチョンの上流にあるが、氏はクイーコ家が保存するファドにも
通暁しており又Kg.Moritskoは「Kroncongではなく父祖の歌を」とサミュエルが吟じたテープを大切に保存しているそうである。氏は現在蒐集の膨大な音源を整理しておられるが、出来上がり公にされる事を祈念してやまない。氏に断りもなくいくつもの要点を借用した。

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2009年12月17日 (木)

Tugu Panturaとは 北海岸物語

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北のVOC Cafeの裏、チリウン河沿いに記念碑がある。昔造船所があったところでチリウン河の対岸がバタビア城であった。そちらはパール砦であったが、ここから大砲が向けられていたこの地にはバンタン国のこの地の領主ウイジャヤカルタの領地で彼も砦を築き、又対抗上許したイギリスもここに砦を築いていた。ウイジャヤカルタ王の宮殿そのものはそこより数百メートル南の現在のジャラン・コピの辺りにあった。1996年に高速が建設された同時期にこの地のreclamation(干拓工事)とBulwarks(防波堤)建設が行われたがそれを記念したモニュメントである。物の本にはTugu Panturaと名図けられているがPanturaとはPartai Utaraの造語で北海岸の意味になる。
恨まれることもないと思うに何故かひどい落書きが施されており、碑文も写真に撮ったが判読できなかった。

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2009年12月16日 (水)

バチカン大使館の不思議

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モナスの周辺地は政府機関しか立地出来ないルールがある中、実際には米国大使館とバチカン大使館が所在している。昔は日本大使館もあったのであるから、あの条例が出来る前の特権になっているのであろう。
看板にはAPOSTOLIC NUNCIATURE Kedutaan Besar Takhta Suciラテン語は調べてないが聖地大使館とある。
イスラム大国にカトリックのバチカン大使館がそれもモナスにあるとはすごいが、バチカンはバチカンで国民800人ながら世界179ケ国に大使館を保有するという。これもすごいことである。
ムルデカ東のPLN本社の隣であり、厳重なコンクリートと鉄の建物自体は何の変哲もない。バチカン市国はローマ市内にあるカトリック教皇庁で世界最小の主権国家である。デズニーランドに満たない面積に800人強の市民が住むがパスポートはなくまた職員も入れると3,000人強になるが居住権が国籍みたいなものであるものの国外(イタリヤ・スイス等)に住んで通勤するものも多い。元の国籍は保持しているのが普通である。イタリア王国との和解で国家として認め警察軍や多くの点で協力するこの関係を作ったのは独裁者と言われたムッソリニーの1929年の功績らしい。

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2009年12月14日 (月)

国立博物館の無頓着

2け月振りに行ってみた。前回は博物館の奥の[建築]の部がリノベーションだったが今回もまだ終わってなく閉まっていた。
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陶磁器の部は大分前にリノベーションして、その記念のプレートが飾ってある。それによると当時の大企業からの献金で出来たようで顔ぶれはTiratamas Majutama、Texmaco、Tri Polyta、Merrill Lynchで、文部観光大臣のProf.Dr.Ing.Wardiman Djojonegoroが1997年4月24日に署名したものであった。良き時代の最後の時期である。相当な金なのだろうが、出来栄えはこの程度である。
左側の棟は前回も閉まっていたが今回も閉まっていた。こちらもリノベーションを待っているのであろうか。
何かの案内に閉館がいやに早く書いてあったが実際は16時或いは17時のようで、又入場料はRp750のはずであるが、余りに安いので誰も払おうとせず又受け取りの係もいない。本はないかと尋ねると3人が寄ってきてそれぞれ自分のロッカーから出してくる。2階は宝飾品の部で昔は別の料金が必要であり厳重に警護されていたが。この日はだれも居なかった。昔有名な盗賊Kusni Kasdutに宝石類を盗まれたことが忘れられている。ちゃんと館長(Dra. Retno Sulistianingsih Sitowati, MM)はいるが、インドネシアらしい大らかさが良い所であろうか。

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2009年12月13日 (日)

バタヴィア東倉庫も現存する。

急ぎ修正する必要がある。現在の海洋博物館が17世紀の西倉庫とすれば、
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バタビア城の東にも東倉庫があったが、これが現存する事が解ったのである。だいたいの位置は解っていたので何度もそこにアクセスしたがそこは軍が保有する土地になっており、また大きなトラックや重機が密集し、通れる空き地は水没していた為、もうないものと諦めていたのである。(ついこの間の9月1日のブログ「小麦倉庫 Gudang Gandum(Graanpakhuizen)の現在」)  先週、毎週ゴルフに行く時に通る高速の上から何気なく眺めていたときにこの倉庫が目に飛び込んできた。斜めに位置する残像からこれはひょっとすると東倉庫かもしれないと、金曜日抜け出して又見に行って来た。しかしそこに行く道は大渋滞であきらめざるを得ず、結局は又高速から写真を撮っただけで、戻ってきたがHeuken氏の写真と同じ作りであることから、これこそ東倉庫だと確信している。彼によると東倉庫は4連棟であったが古い方の2連棟は1995年の高速建設で壊され、現在は1棟のみが残っている。破壊された方が1639年建築であったのでこれが現存最古の倉庫であったが、現在は海洋博物館を最古とした。

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2009年12月11日 (金)

11月度投資環境関連ニュース


11月
* 投資・拡張の資本財原料の輸入税免除措置 高架は限定的か」
* Pertamina、来年の資本増強計画42億ドル、2017年までに1百万バーレル。
* 大阪ガス、石油資源開発、ジャパンエナジー石油開発、LNGジャパン、サンガサンガ・コールベッドメタン(CMB、炭層メタンガス)鉱区(東カリマンタン)共同落札。
* 日野、30億円でトラック工場建設か 25,000台/年。
* 汚職撲滅委収賄捏造問題:捏造加担容疑の国家警察掲示局長が解任される。
* スンダ海峡大橋いよいよ着手か、新公共事業相100日計画に入る。
* 電力不足問題で閣議。政府は電力不足問題に30兆ルピアの資金準備の方針
* イスラムのMUI、ハリウッド映画禁止を訴え “2012年”。
* 国内エイズ感染者が増加、2004年の2,684人から17,699人に増えたと保健省。
* 今年の自動車販売は45万-48万台と業者協会予測。来年は55万台との見込みも。
* 首都要所で排ガス検査開始。検査合格証がないと駐車できない場所もできる。

10月
* 無印良品、首都プラザ・インドネシア・エクステンションにオープン。国内初。
* 収賄容疑の汚職撲滅委副委員長2人逮捕となる。容疑捏造の疑い
* 民主、民族覚醒、福祉正義、開発統一、国民信託(PAN)の5党が第2次ユドヨノ政権サポート
* 2期目のSBYが大統領就任。
* 土地建物税率0.5%から0.3%に引き下げ:新地方税法。土地建物税の徴収権は地方政府に移管
* 今年の経済成長率4-4.5%:国家開発企画庁長官。中銀も0.5%引き上げ、本年4.5%、来年5.5%
* 首都空港に続く鉄道建設計画、アジア開銀の資金支援待ちと運輸省鉄道総局長
* 首都同時爆弾テロの自爆テロ調達員兄弟を銃殺。バリ爆弾テロから7年。002年のバリ・テロからは累計466人を逮捕、うち14人は 銃殺と国家警察。
* ジャカルタ日本祭開幕、11日まで。モナス広場で

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2009年12月10日 (木)

バタビア北の見張りポスト

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旧パッサールイカンがまだ海と隔たっていた時代の写真である。最初は造船所の方からスンダクラパのLookoutTowerを望んでいる写真だと思ったが、解説でこれはパッサールイカン側から現在の海洋博物館Bahari)を望んでいる事が解った。この当時はこの博物館はWestzijdse Pakhuisen(西倉庫)と呼ばれたバタビアで一番古い倉庫であった。建てられたのは1652年、特にスパイス用の倉庫であった。Aalingkar_batavia_jun_609_034
現在までこの倉庫が耐えられた
のは17世紀、18世紀に何度も修理されたからで、さらに海洋博物館になったのはやはりアリサディキン市長時代の1977年である。この壁がバタビア城壁都市の北壁でそれにくっついているのが見張りポストである。


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2009年12月 9日 (水)

全国宮殿とスカルノ墓所

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宮殿と言えばIstana MerdekaであるがIstanaと付いた宮殿は全国各地にある。いくつかあげると
Istana Negara:State Palace:Istana Merdekaの裏手

Istana Wakil Presiden副大統領府
Istana Bogor:ボゴール宮殿
Istana Cipanas:チパナス宮殿
Istana Tampaksiring:バリのタンパクシリン宮殿 以下は各地の土侯国の宮殿の例である。
Istana Maimun :メダンのスルタン宮殿
Istana Pagaruyung:ミナンカバウの元宮殿、現在博物館
Istana Siak:リアウのシャク宮殿
Istana Palembang Darussalam:パレンバング
Istana Amantubillah Mempawah:西カリマンタン
Istana Alwatzkubillah:西カリマンタン
Istana Luwu:中央スラウエシ
Istana Walio:東南スラウエシのブトン
Istana Saoraja:南スラウエシのボネ
Istana Balla Lompoa:Gowa
ジョグジャにあるのは特にIstanaとはいわないようであるがGedung Agungである。又ジョグジャカルタ候やジャワのスルタンはKratonやPuroである。
Kraton Ngayogyakarta Hadiningrat:ジョクジャカルタ
Kraton Surakarta Hadiningrat:スラカルタのススフナン
Puro Mangkunegaran:スラカルタのマンクネガラ
Kraton Kasepuhan:チレボン
Kraton Sumenep :マドゥラ
写真はボゴールのIstana Batu Tulisで、スカルノの個人の別荘である。この門前に伝説のバトゥトゥリスがあり、多くの人の祈祷が続いている聖跡である。ここを家族ともどもスカルノの墓所として願ったが叶わなかった。

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2009年12月 8日 (火)

スカルノの霊柩馬車

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プラサスティ公園に飾ってあるスカルノ・ハッタの棺については既に記したが同じ葬儀用の設備として霊柩車も飾ってある。これもてっきりスカルノさんのものかと思ったが、そうではないらしい。ここは公園になる1977年までは
霊園であったのであるが、多くのオランダ人はファタヒラーの病院(現在のBI博物館)で亡くなったようで、そこからは小舟にのぜられ、クルクット河を上流しここKebon Jahe Koberまで運ばれて来たが、その近い地点のTanah Bang 1からはこの霊柩車が使われた。2匹から4匹の馬が引いたが亡くなった人のステータスで馬の数が多かったそうである。そういう時代背景は19世紀の様であるが、それにしてもこの霊柩馬車は新しく見えたのでスカルノと結びついたのである。

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2009年12月 7日 (月)

消えゆくかアールデコ住宅

ジャカルタには珍しいアールデコの住宅を発見した。似たようなものはあるかもしれないが、これはほんものらしい。ジャカルタはモナスノ東のムルデカチムールのイマニュエル教会の道を隔てた隣である。Kantor Notaris Sidharta.Gautamaである。ここはホテル・ボロブドールから宗教省やカントール・ポスのうっそうとした木々を見ながら急ぎ右折するので気が付かない。更にムルデカ・チムールに面した玄関の幅は数メートルで両サイドに屋台が並んで車がやっと1台入れる幅である。この事務所はもうすでに廃墟となっており、両サイドの屋台も印紙屋とか代筆屋などもいたのであろうがもう誰もいない。Aa2009_1101_142215dsc08840
小生は昔ここに現地パートナーと来たことがある。土地売買だったか多分ジョイントベンチャー設立だったのであろう。うっすらとした記憶である。入口付近に看板が残っておりそれにはProf.Mr.Dr. S. Gautama & Associatesとなっておりその下に Teugeh LongdongとかKomala Lurmanauなどメンバーが14人も集まっていた。1階建で大きな建物ではないので忙しい風景であったろう。
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アールデコと言うのは右端の出窓形式が曲線を描いたその1点のみであるが写真では見え憎い。横のPejambon通りからの写真にはかろうじて屋根当たりの曲線が見える。この土地建物はイマニュエル教会のものであったが、両者を分けるPejanbon通りが2車線に分かれた時にだいぶ土地を供出され現在の姿になったようである。Kantor Notarisはこの小さな建物の正面を使い裏はMaramis家が使っていた時代もある。
Gautamaさんは多分2000年を超えてここにいたはずであるが、いまはどうされていることやら、気になることである。

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2009年12月 6日 (日)

改正付加価値税法 と 改訂 個人所得税源泉徴収ガイド

インドマルコ社では最近改訂を見た以下の法令の翻訳書を販売している。
一つは
2009年法律第42号の 改訂付加価値税法で本文と逐条注解で全41頁 Rp400,000である。
あと一つは
2009年改訂従業員等所得税源泉徴収計算ガイドで全43頁+邦訳申告書7頁で Rp450,000である。
日本からでも日本国内円送金で入手できるので申し込みを待っています。
連絡はTEL061-21-570-9768、FAX 同ー9769
E-Mail k2433@attglobal.net、或いは risa@indomalco.com(兼松)までどうぞ

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2009年12月 4日 (金)

スタン・タクディル・アリシャバナの一生

「インドネシアを変えた100人」の一人である。彼は単に新しい文化(Poedjangga Baru)を創刊したばかりでなく、彼はインドネシア語を近代語に変えた民族の文化の基礎とした人である。「Tata BahasaBaruBahasa Indonesia」は全ての学校の教材となった。日本時代、日本軍が作ったインドネシア語協会で研究に没頭400,000語に及ぶ言葉の蒐集を行った。1908年2月11日タパヌリのナタール生まれであるが父はArbiのスルタンと任じられたジャワのアリシャバナのラーデンである。指が4本しかなかったためTakdir運命と呼ばれた。17歳にしてオランダ語の作品「農夫の手紙」を書いている。出版社 Pandji Pustakaに勤める傍ら1929年から1941年までに多くの小説を残している。バンドンで高等教育、その後バタビアでBalai Pustakaで職を得ている。Bandungと故郷との行き来の中から着想した「Layar terkembang帆を上げて」(1937年)は有名である。1933年には「新しい文芸運動」をArmijn PaneやAmir Hamzah、Husein Djajaningrat、Maria Ulfah Santoso、Sumanang、Purwadamintaなど約20名で新しい文芸運動を起こしている。彼にとって文化とは科学、技術、宗教の総合したものであった。その後も各大学での教育活動、文筆活動は枚挙にいとまがない。1980年には日本でも紹介された「Kalah dan Menang敗北と勝利」を発表している。これは日本占領期を冷ややかに見つめた彼自身の目で綴ったものである。彼は長くUniv.Nasionalの学長であった。彼は1995(94?)年7月17日に86歳で亡くなった。UIやペナンのSains Univの名誉博士号、日本の瑞光重光章を与えられている。


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2009年12月 2日 (水)

ここにもあるガジャ・マダ像

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ムルデカチムールの昔のフンプス・ビルの並びに小さなガジャ・マダの像が立っている。この敷地に建つ2階建ての建物自体がGedung Gajah Madaと大書されている。軍事警察関連の建物のようだ。PUSPOMADつまりPusat Polisi Militer Angkatan Darat陸軍憲兵本部かもしれない。中に入って写真を取ろうとしたら誰何されたので逃げ出したことがある。むやみに近づかないことだ。ガジャ・マダ像はこの写真の左側隅にあるが見えにくい。Gedung Gajah MadaはスラバヤにもあるがそちらはKOAMATIM東部艦隊司令官の建物のようだ。

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2009年12月 1日 (火)

Tirtamas Comexindoとは

2009年のGlobe Asiaで嘗てのインドネシア若き星Hashim Djojohadikusumoが10位で入っている。兄のPrabowo自身も大統領選挙では金は豊富であったが弟の後ろだてがあったからでもあろうか。
彼はスハルト失脚後、IBRAから自分の殆どの企業を抑えられスイスに逃亡していたのであるが、いつどこで入手したのか大金を掴んで帰って来た。1956年生まれ父や祖父も輝ける銀行家・経済学者であるSumitoro 及び Margono Djojohadikusumoである。彼のTirtamas グループ(或いはEra Persadaグループ)の最盛期にはセメントチビノン(元小野田、元Holcim)、ペトロケミカル、発電、パームオイル、銀行はNiagaを筆頭にPelita,Industri,Papan Sejahteraなど数行もっていた。持ち株会社はTirtamas Comexindoである。 NiagaはJulius Tahijaから取得したばかりで1997年の金融危機に遭遇した。彼が復帰したのは保有のカザフスタン石油鉱区を中国のCITICに売却、11億ドル掴んだ後である。Prabowoが持っていた元ボブハッサンの製紙会社Kiani Kertasの負債1兆ルピアを完済しシェア5割を入手、又Nation Petroleumを設立パプアのオイル・ガス鉱区を抑えた。
又嘗ての彼のツバン・ペトロケミカル・プロジェクトの30%を持っているがいまだ始動を抑えられている。
Comexindoなどベトナムやロシアにも同じ名前がある。秘密防衛たるメディア回避策でこの程度しか解からない。

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