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2010年1月の投稿

2010年1月29日 (金)

バンドンのKantor Pos もHeritage

バンドンの中心地のアルン・アルン広場に北から出てくる道がありちょうど正面にSuarhaなる名前のアールデコ風建物に目を奪われて右手にあるKantor Posの建物を見過ごす羽目になった。GLOBEという雑誌のA Look Back in Timeシリーズにこの建物の写真があり、Aabandung_aug08_088
小生が収めたSuarhaの写真に辛うじてKantor Posの側面が写っていた。多分Kantor Pos Besar(中央大郵便局)なる名前で現在もその名前の通りの機能を果たしている貴重な建物である。オランダ時代の郵便制度は確か日本より早い1746年にスタートしたが、それはイムホフ総督時代で、さらにジャワ全体に広がったのはジャワ貫通道路を建設した1809年のダーーンデルス総督時代である。最初の郵便局はバタビアでバンドン は1863年である。それを再建したのが1923年のこのビルで設計はJ.van Gentである。Globeの写真は、そのころの日本のある商社の本社ビルがかくもあるらんと思わせるたたずまいであるが今回は横顔だけで失礼した。

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2010年1月28日 (木)

下士官英雄の名称

昨日の若き英雄の一人のUsmanの正式名称はSerda KKO TNI Anumerta Usman bin Haji Moh. Aliとなっていた。
Serda とはSersan Duaの省略形である。2等軍曹となろうか。
ついでに言えば曹長はSersan Mayorでその下に一等軍曹Sersan Satu 2等軍曹がある。ここまでは下士官で士官OfficerはPerwira の一人であったことになる。 あと一人のHarun はKopral 伍長であった。伍長は兵卒の上のクラスで1等兵2等兵はPrajuritである。
Anumertaは英語ではPosthumousで死後を意味し、つまり死後名誉の昇格をしたという意味でこの英雄二人は兵卒ぎりぎりの者であったことがわかる。 尚KKOはKorp Komando 海兵隊であろう。
bin はオサマビンラデンでおなじみの 父親の名前のん前につく言葉、上記でいえば親父の名前がハジのモハマッド・アリの息子Usmanとなる。

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2010年1月26日 (火)

若き英雄、爆弾3勇士

インドネシア英雄列伝の中にわれわれと同世代の人が3人いる。もちろん生きていればの話であるが一人は9月30日事件で斃れたピエール・テンデアン大尉で彼は26歳であった。スハルトのお陰で現在マンパンからウイジャヤに向かう道路の名前になっている。あと二人は1968年にチアンギ刑務所で処刑されたUsmanとHarunで、1943年と1947年生まれであるので、Harunは21歳で国家英雄になったことになる。
二人は1963年スカルノのマレーシア対決で、警戒命令Siaga Komando作戦に義勇兵として参加、1965年3月後一人のGaniと3人でゴムボードに爆弾を積みシンガポールに侵入、町の中心のマクドナルドを標的に爆発させた。 二人は逃走中見つけたモーターボートが壊れていて逮捕された。二人に死刑判決が下され、インドネシアとマレーシアの関係修復後の1968年絞首刑となった。あと一人のGaniは逃げおおせたのであろうか、死ななかったので爆弾三勇士とはならなかった。

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2010年1月25日 (月)

Mesjid Jami Cikini

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チキニのラーデンサレー病院の手前に古いモスクがある。丁度チリウンkawaが両者を分けるポイントである。ラーデン。サレー通りNo.30で正面に仰々しい看板が二つほど立っているが、それはジャカルタの歴史遺産に指定したのでこの環境含め破壊等行ったものにはkinnko10年或いは若しくは1億ルピアkeiに処すとか、法令名が書かれている。なぜ遺跡にしたのかの理由とかは書かれていたためしがない。この看板こそが一番景観を損なっているとおもうのである。
正式名称はMesjid Jami Cikini、Al Makmurという。このMesjidは1923年ごろの建設であるのでそれ程furukuhanai 。大本のモスクは1850年ごろラーデンサレー 画伯の邸宅地の中にあったものを移設したものである。ラーデン・サレー夫人はこの邸宅地を売却し、1897年ごろはVOCの所有地になっていたが、アグス・サリム翁の助力でこの地が確保された。ここのモスクの塔はジャカルタでは半円球であるところが珍しいらしい。
genngo kirikae soft ga
iukotowokikanai. kyoha mailmo
torenai

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2010年1月22日 (金)

オランダ人はtipu muslihatでmengadudomba

パティムラの英雄列伝を読んで収穫がひとつある。それはインドネシア語でdengan Politik adu domba dan tipu muslihatと言う言葉に出会ったからである。 Dombaはアラビア語で羊であるが、衝突する意味のaduと併せmengadudombaという動詞になると嗾ける、怒らせるの意味となる。また、tipuは詐欺、 muslihatはアラビア語で手段、併せて奸計の意味である。共にアラビアに住まないと感じが出ない言葉かもしれないが、文中では オランダ人が仕組んだ奸計を用い怒らせる戦略で戦争は敗北に終わった とのことである。
オランダ人はインドネシアの歴史の中で騙し騙して、狡猾な国民として描かれることが多い。(日本はさしずめ残忍か)最初はスンダクラパの小さな木造商館を要塞化したことから始まり、3次に渉るジャワ継承戦争、ディポネゴロ戦争から圧巻は強制栽培制度であろうか

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2010年1月21日 (木)

Kapitan パティムラ

クバヨランのピッザマンの像からパサラヤに向かう内側の道がパティムラ通りである。このPattimuraはアンボン出身の英雄である。本名はThomas Matulessy、1783年マルク諸島アンボンの東のSaparua島で生まれる。キリスト教徒である。
ナポレオンが崩壊したあとイギリスは支配下に置いていた東インド全域をオランダに譲った。オランダはマルクを再占領の為1817年侵攻してきた。パティムラはこの侵略に立ち上がり、5月にはDuurstede要塞を占領、多くの死傷を与えた。死亡したオランダ人理事官もその一人であった。その後オランダ軍を3ケ月間も麻痺させるほどであったが、オランダが戦力を増強してきた為最後には彼は捕まってしまった。オランダ植民軍裁判で絞首刑が宣告され、オランダは絞首刑と引き換えに協力を説得したが彼の妥協を許さぬ難い決意は同年12月16日死刑の執行となった。死刑の執行はアンボンのビクトリア要塞前で行われたためパティムラは全マルクの英雄となった。1973年パティムラは国家英雄となり又現在の1,000ルピアお札の表を飾っている。
アンボンのパティムラ空港、パティムラ大学、パティムラ・ポリテクニック大学、パティムラ軍管区などに名前が残っている。マルクは当初オランダが占領したが1798年イギリスが来襲しオランダを駆逐したがその時はパティムラは英国軍で参戦している。以上が昔調べた内容であるが、最近買った英雄列伝にもそれ以上のことはない。

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2010年1月20日 (水)

インドネシア国会議事堂

ガトットスブロト通りからスリッピーに向かう手前でいつも目にする建物はインドネシア共和国のDPR/MPR議事堂である。現在DPR国会の議員は550名、MPR国民協議会は678名である。前面の広い庭には噴水がありそこにElemen Estetik (唯美の要素)となずけられてた記念彫刻が立つ。これは現在・過去・未来を象徴したものという。Aa
本議事堂の正面には広く長いオープン・エアーの石段が導く。総面積60haである。スカルノがアジアアフリカバンドン会議の10周年に新興国CONEFOの会議場として建設を命じ、Soejoedi Wirjoatmojo や Ir. Sutami のチームが設計した。 ガルーダが飛び立つ(着地する)姿をイメージしたという。時に1965年4月であり、ゲシュタプの混乱の中、完工は遅れ、スハルトにより建設は継続されたが、その時に目的がCONEFOからDPR/MPRに変更した。建物の名前はGrahatamaといったが現在はNusantara に変更されている。正面からばっちりとった写真があったはずであるが、紛失したようで、裏側の写真を掲げ、またの続報につなげたい。

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2010年1月19日 (火)

Pia アリシャバナとフェミーナ

文豪タクディル・アリシャバナ氏の一族であろうか、解説には一切そのような記述はない。
夫がSofjan Alisjahbana故姓を同じにしているのであろうが夫がタクディル氏の子供であったという確認もない。
Pia女史は夫やWidarti Gunawan等とFemina Group を結成、婦人雑誌Feminaを発刊している。 このグループは少女雑誌Gadisなど全部で10以上の雑誌をだしており、Feminaは創刊35年でインドネシアファッション界をリードする活動を続けておりPia Alisjahbana賞もある。
夫人は他にWWF Indonesiaの 創設者の一人であり、インドネシア芸術制作の会の役員を務めている。写真を見るとかなり年配、それもそのはず別の記事ではインドネシア大学の芸術学部英語部の教授を1958年より務めているそうだ。

小生はまだパソコンで苦労しており、3台目をなんとか駆使しているが、メールアドレスも現在使えない

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2010年1月18日 (月)

Koningsplein モナス広場の生まれ

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1750年ごろの地図をみるとここにはまだ広場の痕跡は見えない。ここに目をつけたのは1809年のダーンデルス総督の時代でそれまではBaffalo Veld(訳せばバンテン草原)と呼ばれたことから草原であったのであろう。そこから想像すると当時のジャカルタの南部は未開拓のジャングルであったのではないかと錯覚するが、この地図にはちゃんとMenting(メンテンか)、Matraman、Grogolの地名やJapanというカントリーハウスがあった場所が記載されている。そう言えば1750年はボゴール宮殿を造ったイムホフ総督の時代であるので、ジャカルタ南部も相当開かれていたのである。ダーンデルスはそれまで軍事演習場として使われていた現在のバンテン広場(当時の名前はPavillijensveld あるいはParade Plein)が手狭になったとしてこのモナスの地に移しChamps de Marsとなずけた。
ここがKoningsplein王の広場となったのはそれから9年、ラッフルズが去った後の1816年かペルス総督の時代である。

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2010年1月15日 (金)

モナスの独立前の地図

モナスは独立記念塔のことであるがその広場の近辺の独立前の地図がある。Aapeta1935_monas
1935年の地図であるが、この独立広場はKoningspleinと呼ばれており、四周の道路はそれに東西南北が付された名前で現在も引き継がれている(Koningsplein Timur->Medan Merdeka Timurというが如く)。この広場の中で目に付くのが大きなトラック競技場である。目を凝らしてみるとRacelerrin B.B.W.S と読める。オランダ時代の競技場であるが、独立後の1951年にはIKADA競技場となり、スナヤンに移るまでここで全国体育大会(PON)が開かれていた。隣のNISの駅名はWertvreden SSとなっているようだが、当時から呼ばれていたのは現在と同じGambir駅である。Timurで読めるのがN.I.Electr、現在のPLN、その横にHotel Daendels、Emannuel教会、KPM、現在のPertaminaなどである。西や南より東側の道路のほうが現在と結び付けやすいので今度歩いてみよう。

今日も一日、パソコンでふいにした。またFuturaに戻ってどうやら管理者頁に届いたがメールは出来ないままだ。


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2010年1月14日 (木)

地質学博物館 Museum Geologi

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バンドンにある有名な博物館で「ジャカルタの眼」の舞台にもなる。サンプルナ社がスポンサーで作った案内ビラによるとここは公式には1929年5月16日にオープンした。最初はラボラトリーで、いりイ尾rな原石、鉱物、化石。その他人工遺物(Artefak)が蒐集されている。中でも有名なのはホモエレクトゥスの骨、古代象ステゴドンがあり又デノサウルス等のレプリカがある。他に地球の生まれ、古代人の生活、インドネシアの地質上の出来事などを学ぶことが出来る。金用と国民祝日は休みだし、土日は13:00迄故中々行けなくなる。

パソコン絶不調、富士通Vistaは死んだまま、Futura で息継ぎ、今日は一時だめだった富士通XP2005がどうにか、まだE-mail発信が不通の状態で、今日は以上でごまかした。

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2010年1月12日 (火)

中央ジャカルタ市長(区長)Sylviana Murni

新春早々小生アパートの近くのLow Costアパートメンから5歳の男児が落ちて死亡、友達の同じ5歳の子供が押した為だが、こんな事件にも市長のシルビアナは弔問に訪れている。Aasemen_014
Global誌の記事で彼女は市民からの近くの川の汚染の苦情に対し、軍に協力を要請自らも清掃のシャベルを取った記事があった。大学卒業後から区行政で働き現在51歳で区長となった彼女は、区民に対しオープンドアで接し、Mailing Listやe-goverrnmentを導入、ワンスポット・サービスや料金の銀行振り込み制も実施し、多忙な中、ムハマディア大学など5つの大学で講義も続けているそうである。 中央ジャカルタは9郡と44町の下部組織を持つジャカrタで一番多忙な区であるが多くのスラムも抱えた、いわばインドネシアの縮図のようでもあり、今年ももっと飛躍してほしいものである。
奥に低コストアパートが見える近所の風景をアップした。

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2010年1月11日 (月)

ガルーダ機内でパソコン故障

Aadenpasar_airport
新春早々、ガルーダの機内でパソコンを開けようとしたらどうしてもあかない。やっと業者にやってもらってどうにか文書と写真のみ取り出せたが、そのパソコンは死んだままである。ガルーダは珍しく定時にテイクオフし定時に到着できたが、チェックインに40分は掛かっただろうか、B330の機内で見ても二人がけのいすが4列あり、番号が多分60あるとするとこれをまっすぐ伸ばすと2 x 240人(メートル)となるわけであるので、当日は搭乗率100%だったので200メートルの長さで並んでいたのではないだろうか。隣のカウンターは同時刻香港経由JKTに行けるキャセイのカウンターであるが、5つのチェックイン受付に一人二人が手続きしている程度である。やはりガルダは駄目だなと係官に聞いてみると11時ETDの2時間半前しか手続き開始できないとか裏側の隣のカウンターを追加で使えないとかであり、これはNNAの問題である。サーフボードも持った人も10人以上あり、デンパサールの人を引き付ける力には感心した。デンパサールからジャカルタへは乗客が少ない場合はローカルに乗らされると聞いていたが、今はローカルの人々がデンパサールから乗り込むようになっており、これまた100%の搭乗率となる。JKTまで1時間半しかないがちゃんと夕食までだして、あれこれ比較してもJALは負ける筈である。
パソコンが壊れたのは前日まで使っていたのでセキュリティチャックでやられたのかなと思っているが、どこかでパソコンバックを取り落としたような気もするが、この富士通のVistaには本当にてこずっている。写真は夕暮れのデンパサールの機中より。待ち時間40分程度8番ゲートであった。

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2010年1月 4日 (月)

ワヒッド元大統領逝去で国家英雄へ

Aawahid
年末の30日、第4代大統領が糖尿病刑疾患でなくなった。1940年生まれの69歳であった。在任の1999年11月から2001年8月までは地方の騒乱が相次ぎ、BULOG事件など資金疑惑など対応の稚拙から、国会無視の独断的発言、対処から離反者を生み、閣僚・警察庁長官を罷免、メガワティからも見放され混乱の中、最後は弾劾決議で大統領の座を罷免された。イスラムのナフダトゥールの長ながら、・イスラムだけでなく幅広い見識と自由・明瞭を愛する素質があの時代、彼自身を尊大にさせていったのかもしれない。ユドヨノは彼を国家英雄に推しているが、スハルト、ハビビもなっていないsensitiveな問題であるが、道を切り開いておく意味もあるのであろう。ワヒッドが国家英雄となれば親子3代の国家英雄となるが、というよりワリソンゴに続く家系でもある。全員ジャカルタの道路名になっているのでチガンジュールかどこかに道を探さねばなるまい。

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2010年1月 3日 (日)

US 大使館はCagar Budaya?

ムルデカ・スラタン通りの東端にあるアメリカ大使館がジャカルタの文化保護(Cagar Budaya)条例の対象になっているのを知った。米国の持ち物がDKIの文化保護対象施設になるとは不思議である。Aaus_embassy_jakarta
現在の米国大使館は大変な厳戒体制にあり、カメラを向けるの銃を向けられるほど怖いところである。どのくらいの歴史があるのかは知らないが、インドネシアが独立したのは1945或いは1949年なので1949年以降の事であろう。但し蘭領時代は大使館でなく領事館としてここにあったかもしれない。日本は戦後賠償で正式に国交が開かれた1958年に大使館を開設したがそれ以前はこれまたいつからは知らないがムルデカ・バラットの北の端近くに領事館があった。今このモナスを囲む4周は共和国大統領宮殿(イスタナ・ムルデカ)を北の辺に置いた別格の土地柄であり、行政府官庁のビルのみが所在を許されている場所である。1958年日本はここを出てIman Bojol No.1の旧前田海軍武官府に大使館を開設したが、ムルデカ・バラットを出て行った理由は解らない。
大使館は年末30日、大晦日にバリ爆弾警戒警報を発したが、情報源はバリ州政府というもののバリ州は否定する話があった。

(追記)2017年5月11日ブログhttp://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/uscagarbudaya-2.html参照
蘭印時代アメリカは北の現在BI博物館の前(?)に日本はクブンシリーの先のFachrudinにあった。

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2010年1月 2日 (土)

正月風景

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昨日正月は急に思いつき例年は3日か4日にお参りする明治神宮に一日早々出かけることにした。
天気が崩れる予報もあり、天気のいい内にということもあったのである。、神宮でも割とゆっくりお参り出来、
屋台村で一杯飲んで、帰ってきたが2~3日儲かった気がした。行きがけに近所の家で国旗を掲揚している処があったが結局この日、日の丸を見たのは、明治神宮も含めこの家1軒だけだった。驚きである。そう言う自分も
マンション住まいをいいことにもう何年もやっていないが。。市役所から紙製の門松マークが配られているが
これをドアーに張っている家も最近はほとんどなくなっていた。一家の長の仕事であるが、その気構えが薄くなっていってるのだろうか。Aa2010_0102_115241dsc09701
帰りに国旗の家を写真を撮ろうとしたが、ドア横の旗建て器はカラッポ。少し旗を取り込むには早い気がし、もしやひっこめたのではと気になった。

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2010年1月 1日 (金)

Selamat Datang tahun Baru

新年明けましておめでとう御座います。ジャカルタより新年の寿ぎの詞を送ります。とホテル・インドネシア前の歓迎の塔が新年を歓迎しています。Aamonumen_welcom_aug_046
この塔の名前はインドネシア語ではTugu(或いはMonumen)Selamat Datangである。
ジャカルタに行きますと必ず見る記念碑の中でモナスに次ぐ第2位の必見の塔になっております。市の中心にあり歴史ある高級住宅地メンテンのメイン道路にもつながる交通の要綱でもあるので殆ど毎日ここでデモや抗議活動が行われることでも有名だ。これもスカルノの残したもので1962年のアジア大会を歓迎する意味で作られた。建築チームはYogjakartaの8人の彫刻家集団Karanyuni]Yogjakarta 或いはEdhi SunarsoのKeluarga Arcaとも言うチームである。考えてみると日本からの賠償で作られたホテルインドネシアはこの一帯の大開発の中を、市のHeritageとしてよく残してくれたものである。今年はインドネシアも外国からのお客様を歓迎して呉れるものだと思う。 歓迎、友愛、受け入れ、前向きが新年の覚悟である。

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