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2010年2月14日 (日)

今なぜ、「国姓爺」なのか

古い話だが日中国交30周年記念の英雄 国姓爺傳という日中合作映画が上映されたのは2002年であった。この間行ったジャカルタ・パッサール・バルの先に中国人のお寺があるが、この建物の元所有者がコエットというオランダ人でその人の祖父が台湾の最後の総督である。台湾のゼーランジャー城を攻撃しオランダ人を台湾から追放した中国武将が国姓爺・鄭成功である。鄭成功は日本人の母を持つ平戸生まれであるのでこうしてジャカルタと台湾と日本がつながる訳である。国姓爺と言えば近松門左衛門の国性爺合戦が日本史で取り上げられるが、国姓爺というのが実在で(1624-1662)であるので憚って国性爺ともじったとのことである。従い混血の鄭成功も劇では和藤内(和でも唐でもない)、となり、明を襲う清は韃靼人となっている。
大陸南部で海洋商人として海賊を一掃し明の重臣となっていた鄭芝竜は一時平戸に立ち寄り日本女性田川マツとの間に一子福松を儲けた。7歳のとき父の迎えで大陸に渡り、父に従い清軍と戦い明に忠誠を誓う勇猛な戦士となっていた。清の攻撃で北京も落城したあと唐王・朱聿鍵は、鄭芝竜(1581~1661)の一族に擁立され、福州で帝位に即いて隆武帝を称した。そして鄭森と名乗っていた鄭成功は隆武帝に同じ姓の朱をたまわったことから国姓爺と慕われるようになる。翌1646年父も清軍に下ったが、鄭成功は抗清復明のために幾戦、南京城大攻撃を掛けた戦にも敗北、台湾に渡り抗戦することとした。台湾はすでにオランダが占領していたが鄭成功は大満潮時に一気に全艦隊を突入させ上陸、1662年バタビアからのオランダ援軍も水陸両方からの挟撃で退却、オランダ軍から投降したハンス軍曹の建策で城は落城したが翌年鄭成功も病気を発しなくなる。39歳であった。 倭寇も取り締まわれ、鎖国の徳川幕府は援軍の要請を冷たくあしらった。鎖国の罪悪である。

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