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2010年2月16日 (火)

長谷川伸の国姓爺からコルネリアへ

そして今古本屋でたまたま見つけた長谷川伸の国姓爺(下)を読んでいる。国姓爺のタイトルで下巻であるにも関わらず、鄭成功は幼少期のことしか出てこない。この中に不思議な事件が記載してあるので、そのポイントを書き留めておこう。Ab_kokusanya

*長崎の末次平蔵が出資の商船隊を率いる浜田弥兵衛が台湾で商品と護身武具の没収を受け、航行と通信の封鎖を受けたことがある。相手は最近侵入したオランダ、福松3歳のときである。(とすると1627年か)
*その翌年弥兵衛は危険を冒して脱出再び寛永5年台湾に渡りオランダの最高地位にあるピートル・ノイツを生け捕り、6日間の敵中籠城でどん底的に彼らを屈服させた。
*その時のオランダ人人質5人は九州で獄に入れられ、平戸商館も閉鎖、館長のナイエン・ロードは平戸で拘禁された
*河内浦の丸山の火が消えたのはそれらの影響を受けた。(平戸の丸山が長崎の丸山となる。)
*高さ8尺ほどのオランダ塀に囲まれたオランダ商務官の堂々たる建物には何の変りもなく、本館と別館、旧洋館、公会堂、倉庫、門長屋、火薬庫、鳩小屋まで備わり海にもオランダ桟橋とオランダ防波堤をもち国力を維持いていた。。そののちも平戸の商務館はその雄大堅牢な姿をとどめていた。
*河内浦の東南の端にお盆のような小さな丘がある。丸山という。そこには女と酒とが喜望峰を超えれば神さんが監視していないと決定した男どもの特別地帯である。
同じ肥前の大村氏とキリシタン僧の利害が一致しただけの結合で大村市の提供した新開地の横瀬村がひょいと移された。最終的に同じ大村氏の長崎に写った。
この中に出てくる ナイエン・ロード オランダ館長は08年7月6日にブログしたジャガタラのおてんばコルネリアの父である。

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