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2010年3月17日 (水)

Gedung DPR/MPR

1月20日のブログに国会の後ろ姿をアップしたが今回は前面の写真であるAb2010jan24dpr_2


。このコンプレックスは広く多くの建物があるが一望には入らない。正面の国会は1965年スカルノ時代に発起されたもので、当時インドネシアは新興国として自信にあふれ1955年のバンドン会議成功後10年の節目に今度は世界新興国会議Conefoを招致開催することを決定、スカルノは会議開催を1966年8月を前にしてほんの17ケ月の1965年3月、新たなる会議場建設を思い立った。建設は先にアジア・スポーツ大会を開催したスナヤン競技場と隣り合ったこのガトット・スブロト通りに決められ65年4月には定礎式にこぎつけた。建築家はその前年にコンテストで決まっていたようでIr. Soejoedi Wirjoatmojo Dipl. IngをメインにIr. Sutami が参加した。屋根の部分が最大の懸案で、そ強度や材質などの兼ね合いから現在の形に落ち着いたようで結局ガルーダが飛び立つ前の羽をイメージしている。建設が始まってすぐゲシュタプの混乱が始まったが、事態を収拾したスハルトはすぐ66年11月には使用目的を国会として建設を継続させた。メインビルディングは1968年完成、その後1978年にSecretariat Building (Gedung Nusantara III) 及び Gedung Balai Kesehatanが、更に1982年Auditorium Building (Nusantara V)及び1983年Banquet Building (Nusantara IV)が完成した。当時の名前はサンスクリットであったが1998年に現在のインドネシア語の名前になっている。

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