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2010年4月14日 (水)

再々 x 2 のスルタン・ハミッドとウエスターリング

西カリマンタン(ボルネオ・バラト)のスルタンであるスルタン・ハミッドII(3/29ブログ)はウエスターリングの反乱(9/7‘07)に加担して失脚したが、ポンチアナクで虐殺事件(9/4 ’07)を起こしたのは日本軍であり、ウエスターリングはスラウエシで大虐殺事件を起こした訳で、二人が手をつなぐことになったのは単一共和国成立後のバンドンで起こった事件である。50年1月23日のクーデターである。彼はスラウエシでゲリラ戦に手こずり大虐殺を演じた後1949年バンドンでダルルイスラムとも手を組みRatu Adil 軍(APRA 正義の王)を組織し1950年スカルノ政府打倒のクーデターを起こしたが、その背後にハミッドがいたのである。
そう言う動きを知ってたか知ってなかったかスカルノはその50年初めにハミッドを暫定(?)国務相に任じ、国章作成の任を与えられた。その仕事は彼が作成した現在のガルーダ国章を決定して50年2月には終了していた。このクーデターを描写したサトリアマンダラは次のようである。
「連邦国家の形態を維持するという連邦主義者の望みとKNIL[オランダ植民地軍]をAPRIS(インドネシア連邦)に融合する問題は、望みを失っていた元のKNILを支持する者の反乱が起きる原因となった。そのような2つのグループは、インドネシアにおいての経済的な優位を保持する事を望む外国人のプランテーション実業家の援助を受けた。西部ジャワでは、そのような力は、レイモンド・ウェステーリング大尉の指導の下に正義の女神軍(APRA)を設立した。
1950年1月23日の朝、約800人のAPRAの軍団が、バンドンの町を攻撃し、彼らが合ったあらゆるインドネシア国軍の兵士を殺害した。レンボン中佐を含む79人以上のインドネシア国軍の兵士が、この事件で戦死した。
バンドンの防衛を強力にする為に、ジャカルタからスチプト・ユドディハルジョ警察第2 将校の率いる警察軍2中隊が飛行機で運ばれた。インドネシア連邦の首相は、オランダ王国の最高代表者に対して、在バンドンのオランダ軍司令官に対して、APRAに参加した隊員に対する処分を行うよう命令する事を要請した。その日の中に、APRAのメンバーの一部が逮捕され、一部には、市外へ送亡した者もいた。逃亡した者達は、追跡され後に、APRI Sによって壊減させられた。
ジャカルタにおけるAPRAの活動は、インドネシア連邦内閣の大臣職のない大臣スルタン・ハミド2世によって画策された。その活動は、大臣達が内閣の審議を行っている時に実施される事となっていた。謀報活動のお陰で、その計画は、事前に知る事ができた。スルタン・ハミッド2世を含む首謀者達は、逮捕され裁判にかけられた。」
ウェスターリング自身は、オランダの飛行機て国外に逃亡する事に成功し、1987年に死去するまでのうのうと生き延びた。 ハミッドの方は逮捕され10年の刑を受けた後、1978年に死去、ポンチアナックに埋葬された。

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