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2010年4月の投稿

2010年4月29日 (木)

プラサスティのもう一人の金持ちBraam

現在のイスタナ・ネガラは17世紀、オランダの商人J.A. van Braamの邸宅であったがそれを1886年(1820年?)にオランダ総督が購入したものである。この商人の墓碑はプラサスティ墓碑公園にあることは随分前に読んで記憶にあった。今日思い出してプラサスティ公園事務所に張り出してあった一覧表の写真を取り出して見た。これは十数ブロック毎に数十名のリストがありこれを写真に撮る時ずらしながら10枚に取っていたのであるが最初の1-2枚目で、とても読める代物ではないと諦めかけながらもなお多分ブロックF当たりのリストを拡大してみたら、目の前にその名前がボンヤリ飛び込んできた。諦めて立ち去ろうとしたのを呼びとめられたようなショックを受けた。Ja_van_braam_2009_1213_124944dsc093


リストを判読すると63番目、J.A. van Braam 253-102-b-18 Persegi 26 Jan.1771、12 Mei 1820、Baikと間違いはない。
お墓の形は四角柱で253cm高さだろうか、1771年生まれで1820死亡、お墓の状態は良好ということであろう。但し以前にも尋ねたが実際の墓はここの案内人もどこにあるのかは知らなかった。相当な金持ちであったはずであるがお墓には金は使わないのであろう。

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2010年4月28日 (水)

国民運動家 裕福家庭の学校教育

ナッシール達の学童・学生時代の学校をみると、この当時の国民運動家の裕福な家庭の学校教育は共通性がある事がわかる。つまり完全にオランダ系の学校である。 初等教育はHISが広く設置されていたようで、中等教育には地方の大都市に下宿、高等教育はジャカルタ、バンドン、ソロなどジャワに出てくる。小学校にあたるのがHIS (Holands Inlandsche School)、中学校にあたるのがMULO、(Meer Ultgrebrig Lager Oonder-wijs)、高等学校はAMS (Algemene Middelbare School )と言う。 しかし6-3-3となっていたわけでなく現在のそれより少し高めである。小学校にはELS (Europese Lager School)と言うのもHISが出来てからは欧州人子息に限定された。オランダが作ったオランダの為の学校から反オランダの独立運動家が育ったわけである。
アグスサリム(西スマトラ1884)  ELS-HBS Batavia-サウジ留学
スカルノ   (東ジャワ 1901) HIS-私塾-HBS-THS(ITBの前身)
アミン    (西スマトラ 1902) 現地校―HIS-AMS Solo(24歳)-RHS Batavia
ハッタ    (西スマトラ1902) ELS-MULO Padang-HMS-オランダ留学
ナッシール (西スマトラ 1908) HIS-MULO Padang-AMS Bandung
ルム     (中部ジャワ1908) HIS-STOVIA Batavia-AMS-RHS
アミルハムザ(北 スマ 1911)  HIS-MULO Medan-AMS Solo-法専Batavia
ロシハン  (西スマトラ 1922) HIS-MULO Padang-AMS Yogyaa-エール大学
Abdutch_schoolsman


写真は現在のBudi Utomo通り7番地にあるSMAN-1という学校で、上記のAMSに当たる学校で名称は " HBS:Hogere Burger School - Prins Hendrik School (PHS)"、設立は1889年である。RHSはRechts Hooge Schoolでジャカルタ法科大学 である。

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2010年4月27日 (火)

ナッシール元首相の晩年

モハメッド・ナッシール氏は1993年にジャカルタのRSCM病院(チプト・マングンクスモ病院)でなくなった。85歳であった。その前年の1992年はスハルトの最後の選挙であったが彼はイスラム政党PPPを応援した。1980年代にはアリ・サディキンのPetisi50に署名し反スハルトを鮮明にしたが、それまでは政治に別れて宗教の世界のもどっていたのである。スハルトのオルデ・バルになって自由の身になっても、スハルトもスカルノも同じだと断じた後であった。と言うのはスカルノ時代に逮捕・拘留生活を余儀なくされていた。彼が逮捕されたのはスマトラのPRRI反乱に肩入れしたからである。1961年スカルノはPRRIの政治家たちにアマネスティを与えジャカルタの呼んだが、社会との結びつきを断ち切るため拘留したのである。実際はPRRIのシャフルディン・プラウイラヌガラ内閣には入ってはいなかった。彼を含め西スマトラ出身のバックボーンであるマシュミ党は1960年に地方反乱に加担したかどで解散させられていた、PRRIの反乱とは1956年、フセイン中佐がパダンにバンテン協議会を作り反乱の旗揚げしたたが、反乱軍自体はスカルノの政党解消構想後のジュアンダ内閣の時ナスチオンーヤニ陸軍に降伏していた。ジュアンダ以前の政権は1955のハラハップや1951年のスキマン等マシュミ党と1952年ウイロポ内閣、53年アリ・サストロアミジョヨ内閣の国民党の内閣が入れ違いに組閣していた。 ナッシ-ル内閣は1951年に7ケ月の短命でおわったが、ニューギニア奪回の強硬派国民党との突き上げがおおきく影響した。ナッシール自身は円卓会議に参加したときアグス・サリムと二人ニューギニアを含めない協定には反対していた。それが単一共和国誕生後の最初の首相に抜擢された理由であったとすれば皮肉なものである。首相になったのがナッシール42歳のときでありそれ以降の下り坂は43年であった。伝記を遡って書いてみた。

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2010年4月26日 (月)

モハメッド・ナッシール元首相の親日度

日本のアジア侵略に対する評価として各国の著名人の言葉を集めたものがあるがその中にナチールは肯定的な発言をしたと紹介されている。Moh_natsir1


彼は日本占領時代にはバンドンで日本占領政府の職員となり教育庁のトップをしていたが、占領日本軍のイスラム団体の統合の依頼を受けて日本がMIAI(ミアイ:全インドネシア・イスラム協議会))と言う組織を作ることを助言した。これが独立後1945年11月3日にマシュミと言う政党になるのである。ミアイが入った建物はブッダバーで紹介したことがある。 
Natsir2


ナッシールは西スマトラの1908年生まれであるがオランダ系教育の傍らパダンでAbdullah Ahmad師にイスラムの教えを学び且つイスラム青年同盟に参加していた。1927年バンドンでの高等学校AMSに移り、ここで青年同盟のバンドン支部の支部長になっていた。またイスラム同盟が設立したイスラム教育(Pendis)の学校Persisでの教師やPendisの理事にもなっていた。ここでイスラム同盟の発行する機関誌の編集にも携わり、国教一致を主張してスカルノと対立していた。スカルノはトルコのアタチュルク大統領に従っての国教分離を唱えていたのである。神国日本がイスラムに理解を示した訳でもないのでこれで親日になったとは思えない。
またマシュミ党の党首になったナッシールが統一共和国の最初の首相になったのであるが、それを最後に、マシュミ党のおかげで英雄になれなかったのではないだろうか

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2010年4月25日 (日)

面影すこしBTN

Globeの雑誌の巻末の写真はBTNの在りし日の写真だ。Bank_taungan


現在の写真と比べるとかすかにイメージが残っている。正面のファーサードと両脇の角タワー、窓の数に昔の建物のイメージが残っている。
Abfaflatehan_114


コタのガジャマダ通り入口に立つ建物は後ろの庭に建てられたのであろう新しいオフイスビルに行くため正面のこの建物の表玄関を閉鎖しその両脇に穴をあけて後ろのビルにアクセスできるようにしているので、神社によくある玄関門である。とわ言えこの割と小さな建物は、往時はEigen Hulpと言う名前のインドネシア最初のデパートであった。建築は1987年であったが、1929年にはデパートは閉鎖され郵便貯蓄銀行(Postspaarbank)に衣がえした。1936年に再リノベされそれがこの写真であるが、この建築様式はアムステルダムのコンサートヘボウで有名なAdolf Leonard Van Gendtの設計で、Neo クラシックのアールデコの香りもあるスタイルとなった。
1950年に国有化されBankTabunganPosとなり1963年に現在の名前のBank Tabungan Negaraとなった。

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2010年4月24日 (土)

ムハマッド か モハマッド か

昨日の綴りを素直に日本語読みすると上記のようになる。マッドは発音上メッドに近いのでムハ と モハ及びマッド と メッドの組み合わせで四つの日本語読みが出来る。このときマッドやメッドは促音が消えマドやメドになる事もあるが、その用法をいろいろ見てみると
1) ムハマッド(ムハマド)はやはり預言者マホメット
2) モハマッドにはハッタが居た。
3) ムハメッドは有名人なく、適用例がないと言える。
4) モハメッド(モハメド)はボクサー・アリであるがインドネシアのMohammadはハッタを含めモハメッドと呼ばれる事が多い。預言者はムハンマドと読まれる事もある。
いままでいい加減に読みをごまかしてきたが結論として 1)か4)で読むのがいいようだ。

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2010年4月23日 (金)

Muhammad オア Mohammad

インドネシアにも多くのムハマッド氏がいるが、ある場面ではMuhammadであるがある場合はMohammadになっている。有名人リストには5人の名前が出ているがそこから見るとこれが正式の様だ。
Mohammad Hatta 1902-1980
Mohammad Husni Thamrin 1894-1941
Mohamad Roem 1908-1983
Mohammad Natsir 1908-1993
Muhammad Yamin 1903-1962
つまりMuahmmad Yaminだけがイスラムの開祖マホメットと同じスペルである。彼は生前それを通したそうだからである。
彼らはたまたま同じ時代にインドネシアをリードした人々でまた偶々、ThamrinとRoemを除きMinankabau出身でまたRoem彼とNatsirを除き国家英雄である。
Roemはmが一つでMochmmadの綴りの人も多い。Muhammad Hattaとすると別人が出てきたりする。

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2010年4月22日 (木)

タンジュン・プリオクの謂われ

4月16日のインドマルコのニュースに、「首都港の拡張でターミナル内にあるイスラム聖職者の墓地撤去めぐり警察と周辺住民が衝突する騒ぎ、首都政府の警備隊員3人が死亡、134人がけが。結局、首都政府の仲介により国営港湾会社と住民代表との間で話し合いが持たれ、墓地の撤去はとりやめに(15日)。SBYも同聖職者の子孫と面会し墓地を文化遺産として保護すると表明した(16日)」、
Abhasan_trim


Hasan


と言うことで調べてみるとこのインドネシアの最大の港タンジュン・プリオクと言う妙な名前の起源が判った。
18世紀前半にこの地方にイスラムの伝道師にプリウクと言う名前の導師(Mbah Priuk)がいたが1756年海上で嵐に会いなくなりこの地に埋葬した。正式な名前はHabib Hasan bin Muhammad Al Haddad、で埋葬された彼の墓は壊れたオールと彼のご飯を炊く釜(Priuk)で、傍にTanjungと言う花が植えられた。Tanjungは岬の意味でもあるがこれがこの地の呼称の始まりである。
最初はこの土地ではなかったがいつかこの地に移された。その後時の過ぎゆくままに(Seiring Waktu berjalan)、この地は密集化しKoja病院も出来、隣は港のコンテナーターミナル迄出来た。
このお墓には全国から多くのムスリムが巡礼(Ziarah)に来るようになっていたそうで、弟はスンダクラパの古いルアル・バタン・モスクに関係している。
紛争は住民(Warga)、相続人(ahli waris)とTerminal Peti Kemas (TPK)を持つ国営Pelindo II社であるが、同社はオランダ時代と思われる所有権を示す書類も持っているし、1997年にお墓自体はTPU(公共墓地)に移す決定も出ていた。 この時の話なのか、言い伝えでは移動しようとしたブルドーザーは壊れ、オペレーターは病気になったそうである。
整備され史跡となるのは歓迎であるが、も一つ事績か歴史がほしい感じである。写真はDetik.comから借用した。写真の拡大もできないので、またいつか行って見よう。

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2010年4月21日 (水)

行きそびれたマヘサ・ラウン

と書いてもいけるはずはないのであるがついこの間の14日にソロで行われたお祭りである。
Abmahesa_lawung


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ムハマッドの誕生日を祝うスカテンから40日後にスラカルタの宮殿により行われる。従い毎年レバラン同様暦が手前に来る。
行列はGodorasanからKrendhawahanaの森に向かうがそこはBathari Kalayuwati(Durga)が住んでいるといわれる。この地は又マタラム王国の聖なる地でもあり、ここで王家と人々を守るBathari Kalayuwatiに祈りさまざまな食べ物と牛をささげる。この地の食べ物はNasi WudukやGudanganが有名でどちらもココナッツミルクを使う。神にささげた食べ物を皆と分かち合うことで、なんでもほしいものがかなうと言われている。写真はガルダ機内誌より借用したが踊りの美女は現代風で水上で踊っているようだ。

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2010年4月20日 (火)

Chaos in Indonesian tax regulations

Inodonesian goverment has piled up again controversial regulation without any background, it is 70/PMK.03/2010 to impose VAT on service rendered to foreign clients
This is quite same or not far different to the very old and long controversial regulation of 302/ KMK.04/1989, it passed already more than 30 years ago without any step-up. It is very difficult to understand what is the aim for the government, so many investors think it as money hunt as usual.
If it aims to improve Indonesian environment for foreign investor and or change their stance of going my way to the global way , then it is easy to understand the rest of service export remains as service export They should not say it’s domestic trade with income from foregn countries. Points were delivery poins where they said it was domestic delivery if done as usual business activities Some time they said where the service enjoyed,but never remind who pay for the service.
Indonesian colleague said she wants to apply “ Lex specialis derogat legi general”(a special rule prevails over a general rule),because there was special rule of P/E principle, but now
“lex posterior derogat legi priori” (A later law overrules an earlier law)
but I hope again,
“lex superior derogat legi inferiori “(a higher law beats lower ones) because of lack of philosophy in special law.
時には日本語でつぶやくのでなくイ政府もわかるで英語でやろう。

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2010年4月19日 (月)

1955年のバンドン会議から55年

昨日4月18日は1955年のバンドン会議があった日である。日本にとっては終戦からほんの10年で1951年にサンフランシスコ講和条約はなったもののインドネシア(調印はしたが批准はせず)ともまだ平和条約はなってなかった(1958年)時代である。バンドン会議のアイデアは時のアリサストロアミジョヨ首相のアイデアで、1953年のコロンボ会議(インド・パキ・ビルマ等5ケ国)で決定されこの5ケ国が招聘国である。インドは講和条約には調印しなかったが翌年平和条約を結んでいた。中国は台湾側と平和条約は成立していた。日本はこう言うなかでもアジアの国々のお陰で参加でき、国際社会への再出発ができた記念すべき日である。 
バンドン会議はナセル、ネール、周恩来の大物が参加し、スカルノの名前を高ならしめたがバックにサストロアミジョヨが居たのである。国際的には東西冷戦と再植民地主義で世界平和が脅威にさらされていたため、アジア・アフリカの連帯を高めるものであったが、インドネシア国内的にはニューギニア問題の国連での解決を進めていた時代でもある。 ニューギニア問題はインドはインドネシアをバックアップし、日本も賛成票を投じていたが。。。
会議には日本からは鳩山首相が国会会期中だとして高崎経企長官が代理出席した。

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2010年4月18日 (日)

日本にはないパンチャシラ

ガルーダの国章の中にはパンチャシラも描かれている。パンチャシラはは1945年6月スカルノがまとめあげ、その後、スハルトに移っても、一貫して強化され、逆に体制の維持に利用したため、現在ではあまり取り上げることはないが、この中で神の信仰は国民に穏健なイスラムの同胞愛を生んでいよう。
こうした不動の国是は日本にはないのであろうか。思い出すと尊王攘夷、王政復古、脱亜入欧、和魂洋才、富国強兵、八紘一宇などとすぐ死語となる四文字熟語が出てくる。 一番ぴったりくる古からの日本を表す言葉は何と言っても和であろう。日本の平和主義と一致するので世界に訴えかけるにはぴったりの言葉であるが、憲法と同じで反対とまでは行かないが、物足りなさを感じる人は多いだろう。 一字でなく5つ位選んだら日本のパンチャシラになる。 選ぶとせば八犬伝がよかろうとよく見ると仁、義、礼、智、信、忠、孝、悌で仁義礼智信は前漢時代の儒教の教えで、忠孝悌は馬琴が付け加えた従者への教えでお手上げであう。しかしJapanと言う国名も憲法も外から押し付けられたものであり、和の元を倭に求むれば、これも輸入品となる。やむをえまい。阿吽では世界に通用しないからである。

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2010年4月16日 (金)

35周年のタマン・ミニにも、時には

タマン・ミニが35周年を迎える。1975年4月20日が開園の日である。
それを記念して何かやるはずであるが、動植物展位であろうか。インドネシア人が好きなFlora dan Faunaであるがこれは地域の動植物相の展示であるので、金がかからない。基本テーマはインドネシア自然への愛、民族の為のヌサンタラの環境保存、神の恩恵への感謝とか、これもインドネシアが好きな教育である。Edutainmentと言う言葉も出来ているようだがインドネシア生まれだろうか。
Kemang_pancasila_018_tamani


前後1週間が祝われる。18日と25日は帰りに植樹用木が貰える。今でも渋滞するのであろうか、人々の目は現代に向いているようだが、写真がないので近くの現代を掲げよう。Taman MiniはTaminiと略称されている。

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2010年4月15日 (木)

オランダ時代の師範学校と教育の変遷

インドネシアの教育史の中で見覚えのある写真に出会った。 Abbandung_aug08_217akaruku


2年ほども前になるがバンドンで取った写真の中にあったオランダ時代の建物である。 Sekolah Guru(Kweekschool)でSekolah Rajaとして知られていたそうで1866年設立である。1850年オランダは現地教師の不足をきたし1852年最初の師範学校がスマランで出来ていた。
その後、児童の数は1900年で125,000人であったが1928年には1,500,000と急増している。1928年オランダ系の学校で学んでいたのは65,000人である。中等教育は25人から6,500人、STOVIAが設立されたのは1898年であり259人の学生がいた。これが後の医科大学になり、またITBの前身THSの設立は1920年である。この時代になると官職用の人材の不足はなくなり、教育を受けた人たちは民族運動に目覚めていき1922年タマン・シスワが生まれる。
日本時代はオランダ系、現地系の2系統学校をインドネシア語による国民学校として統一、6・3・3制を実施した。当然日本語は必須であった。  写真は二つの平屋の建物が見えるが実際は3連である。そこに入った訳ではなく、のぞいtただけであるが何となく懐かしさを感じる風景である。


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2010年4月14日 (水)

再々 x 2 のスルタン・ハミッドとウエスターリング

西カリマンタン(ボルネオ・バラト)のスルタンであるスルタン・ハミッドII(3/29ブログ)はウエスターリングの反乱(9/7‘07)に加担して失脚したが、ポンチアナクで虐殺事件(9/4 ’07)を起こしたのは日本軍であり、ウエスターリングはスラウエシで大虐殺事件を起こした訳で、二人が手をつなぐことになったのは単一共和国成立後のバンドンで起こった事件である。50年1月23日のクーデターである。彼はスラウエシでゲリラ戦に手こずり大虐殺を演じた後1949年バンドンでダルルイスラムとも手を組みRatu Adil 軍(APRA 正義の王)を組織し1950年スカルノ政府打倒のクーデターを起こしたが、その背後にハミッドがいたのである。
そう言う動きを知ってたか知ってなかったかスカルノはその50年初めにハミッドを暫定(?)国務相に任じ、国章作成の任を与えられた。その仕事は彼が作成した現在のガルーダ国章を決定して50年2月には終了していた。このクーデターを描写したサトリアマンダラは次のようである。
「連邦国家の形態を維持するという連邦主義者の望みとKNIL[オランダ植民地軍]をAPRIS(インドネシア連邦)に融合する問題は、望みを失っていた元のKNILを支持する者の反乱が起きる原因となった。そのような2つのグループは、インドネシアにおいての経済的な優位を保持する事を望む外国人のプランテーション実業家の援助を受けた。西部ジャワでは、そのような力は、レイモンド・ウェステーリング大尉の指導の下に正義の女神軍(APRA)を設立した。
1950年1月23日の朝、約800人のAPRAの軍団が、バンドンの町を攻撃し、彼らが合ったあらゆるインドネシア国軍の兵士を殺害した。レンボン中佐を含む79人以上のインドネシア国軍の兵士が、この事件で戦死した。
バンドンの防衛を強力にする為に、ジャカルタからスチプト・ユドディハルジョ警察第2 将校の率いる警察軍2中隊が飛行機で運ばれた。インドネシア連邦の首相は、オランダ王国の最高代表者に対して、在バンドンのオランダ軍司令官に対して、APRAに参加した隊員に対する処分を行うよう命令する事を要請した。その日の中に、APRAのメンバーの一部が逮捕され、一部には、市外へ送亡した者もいた。逃亡した者達は、追跡され後に、APRI Sによって壊減させられた。
ジャカルタにおけるAPRAの活動は、インドネシア連邦内閣の大臣職のない大臣スルタン・ハミド2世によって画策された。その活動は、大臣達が内閣の審議を行っている時に実施される事となっていた。謀報活動のお陰で、その計画は、事前に知る事ができた。スルタン・ハミッド2世を含む首謀者達は、逮捕され裁判にかけられた。」
ウェスターリング自身は、オランダの飛行機て国外に逃亡する事に成功し、1987年に死去するまでのうのうと生き延びた。 ハミッドの方は逮捕され10年の刑を受けた後、1978年に死去、ポンチアナックに埋葬された。

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2010年4月13日 (火)

またもパソコントラブル

昨日は1日突然現れた Vista Antimalwareなどというおせっかいソフトでインターネットがアクセスができなかった。windousにやっと答えをもらったら8日過ぎれば消えるという。あるいは時間を8日進めればよいとのことで
なんとか解決できた。 これが彼らの回答である。
We're really sorry that these pop-ups annoying your system. These pop-ups are not related to our Antivirus program. This program was created by our partnership company,do not worry,we've already banned this false program.

To get rid of these pop-ups You can try one of three options below:
-1- Do not uninstall the program and wait for 8 days. The program will be expired and delete itself automatically
-2- Change the settings of your current date forward to 8 days. You need to open calendar on your Windows panel and change the settings of the current date to seven days forward,afterwards you have to reboot your system. Eight days after you'll be able to change the settings of your calendar to the normal mode.
-3- We have made a special "exe" file to help our customers remove these pop-ups, just download it and run fo free:http://vulernubertuh.com/remove-exe-for-win.exe
おかげで8日進んだメールをもらった人が数名出てきたし、ブログも1日休みとなった。これを13日のブログとしよう。

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2010年4月12日 (月)

あっけないパスンダン国

単一共和国成立前にバンドンにパスンダン国があった。パスンダンとはスンダの土地の意味でもともとジャワの共和国に対立させるため1946年5月オランダが働きかけてパスンダン国民党などを作り、レンビル協定後のハロハローバンドンで共和国軍が去った後47年10月ラジャを集めて西ジャワ国を成立させた。これが48年4月に改称したのがパスンダン国である。西ジャワはヒズブラーのダルルイスラムの本拠地でもあるが、国民運動の中心地でもあったので、むしろ反オランダ感情の方がつよかったのではないだろうか。ハーグ協定の2ケ月後には、ウエスタリング事件が起こり、これを鎮圧した共和国はパスンダン国の解消を決定した。
初代最高裁裁判長となるKusuma Atmajaはパスンダン国の代表に進められるが断った。現在あまりPasundanなる言葉は死語に近いのであろうか

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2010年4月11日 (日)

Sunda Kelapaの灯台Lighthouse

スンダ・クラパに古い灯台があることはHeuken氏の「ジャカルタ史跡」にもWoodbury Pageの写真にも知られていた。Abscan10035


Woodburyは19世紀中頃のジャワの写真家(最初の写真営業)であるので、この灯台は1862年頃とされている。この灯台を求めて2度ほどスンダクラパのぺニシ船の先を探しまわったが、ずっと奥の現代のスンダクラパ貨物専用埠頭にも回ったがウォータータワーみたいなものしかなく埠頭から海を見る事もかなわず、今回新しいパッサール・イカンに回って取ってきたのがこの写真である。Ab20100314_dsc00251


既に使われてなく海水に洗われるがごとくである。ボードで行くしかない時代もあったようだが日本の援助で整備されたFish Port(既報)で車で傍まで行くことが出来る。 この1862年からほどなくタンジュンプリオクも開港しそちらにも海上の島に灯台が立ったはずである。
確かに同じ作りであるので150年も経つことになる。潮風の中驚きである。日本の最初の灯台も1860年代末から70年代でやはり同じような作りであった。

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2010年4月10日 (土)

インドネシアでも入国時諮問採取 3月度トピックス

*首都空港の入国審査で指紋採取・顔写真撮影を試験導入、6-
*マンダラ航空、初の国際線就航、国際航空安全監査(IOSA)認証取得で4月にも星乗り入れ。
*スラム居住者、1990年の人口の約半分から2009年には同15-25%に大幅減少:国連
*税務監視委員会を設置、税務問題の確実性強化目指す。警察高官との癒着
*ポルノ規制法の違憲審議:伝統文化の規制や表現の自由侵害との訴えを憲法裁は却下。
*KUMONインドネシア、東ジャカルタに新社屋完成。
*クリーン技術基金(CTF、世銀・アジア開銀など管理)がイ地熱発電所開発支援で4億ドル支出へ
*今年の経済成長率予想を5.0-5.5%から5.5-6.0%に引き上げ、来年は6.0-6.5%の見込みと中銀
*NUの第32回全国大会、政治との決別、寛容
*S&Pのイ長期外貨建て政府債務の格付けをBB-からBBに格上げ、見通しはポジティブ。
*インターナショナル・スクールにもイ語、宗教、市制学をイ語で授業するよう義務付け:教育相令
*アチェ山間部で武装グループ掃討:前月に続き、反テロ法違反容疑者14人逮捕、1人射殺と当局。

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2010年4月 8日 (木)

グデ・アグンとスルタン・ハミッド

単一共和国成立前のインドネシア連邦を最後まで支持した二つの国はスルタン・ハミッドの西カリマンタンとグデ・アグン(Dr. Ida Anak Agung Gde Agung)東イ ンドネシアである。東インドネシアはチモール・チムールからバリを含みマルクを囲むハルマヘラ・セレベスまで、殆どインドネシアの半分近くの広さを持つ広大な地域である。オランダは1946年にこの地域の分断独立を提案したがその中でイスラムとキリスト教の対立の緩衝地帯としてヒンズーのバリを取りこんだ。各地の王族・ラジャの115人の集まりのなか大統領はバリのスカワティがなり、首相にはセレベスのナジャム・ディンであったが、短命内閣のあと数代後にバリ・のグデ・アグンが1947年12月から最後まで首相を勤めた。バリ人自身が共和国寄りであり、グデ・アグンは共和国と打ち合わせ連邦制でオランダに主権移譲させた。主権移譲後多くが単一共和国に合流したが東インドネシアは最後となり1950年8月17日である。
正式名前はDr Ide Anak Agung Gde Agung、1921年7月24日バリGianyar生まれ、ウブットのギアナールの王族である。ジャカルタ法科大学、オランダ・ユトレヒト大学で歴史学ドクター 学位取得、日本時代はギアニャール県長、1946年東インドネシア国の副首相、上記の通り1947年には首相になる。
単一共和国成立に功績ありとして統一後のハッタ・RIS内閣で内務大臣、その後55年ハラハップ内閣の内相があるがベルギー、ルクセンブルグ、フランス、オーストリア大使を歴任している。2007年になりやっと英雄叙任を受けるが、若干選定に戸惑いを感じる。後で考えるとハミッドも連邦成立にオランダを安心させる為の役回りであったようだとしてもまだ叙勲はない。
グデアグンというこの少し妙な名前はギアニャールの王族の由緒ある名前で現在も県知事は同じ名前を冠しているようだ。

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2010年4月 7日 (水)

嗚呼玉杯に花受けて

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何年かぶりの桜の季節、天気に恵まれ誘い出される。ここは靖国神社で周りに酒の肴の屋台、頭上の満開の桜と飛び交う鳩を見ながらゆっくり酒をのむ。大村益次郎銅像の頭にもちょんまげ然と鳩がとまる。山川弘至少尉の辞世「私が死んだら」 には父祖のみ魂のこもる日本の土に憩いたいと、西行の短歌 “願わくば花のもとにて春死なん、そのきさらぎのもち月のころ”を添えてあった。遊就館をめぐり奥の庭園の湧水のエネルギーを貰い、靖国通りから外堀通りの桜桜桜を浴びながら帰途に着く。Ab20100404_dsc00573


写真130枚から4枚ほど。一つは前日の浅草寺

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2010年4月 6日 (火)

モンギシディこそ志士

PLN本社はクバヨランのトルノジョヨ通りの警察機動隊の前の写真で紹介したが、この道の先パサール・サンタからテンデアンに向かう道がウオルター・モンギシディ通りであるが途中で前方からの一方通行になる。従いスノパティ通りの先のスリヨ通りから右折して入ってまっすぐ西に取ると警察機動隊に出てくる。Ab2009_1107_185318dsc08940


少し渋滞が激しい道であるが韓国料理店が数店進出、ちょっと気取ったローカルの店も多いが、ローカルの店にはビールがなさそうでやめたことがある。この道の名前はRobert Wolter Mongisidi という反オランダの国家英雄の名前である。彼はメナド生まれなのでこの道とは関係がないようだが。。。1925年生まれで、独立戦争の中1949年に散った若い戦士である。少年期はHISと日本語学校で学び、オランダ軍が南スラウエシを占領せんとしたとき彼は南スラウエシ人民抵抗軍(ラスカル:LAPRIS)を結成しゲリラ戦で立ち向かった。
1947年オランダ軍に逮捕され、追放・逮捕を繰り返し最後は死刑を宣せられた。処刑のとき左手は聖書を持ちムルデカと叫びながら拳を振り上げた。聖書のペイジに詩が書かれたメモがあり、それには“Setia hingga terakhir dalam Keyakinan”(最後まで忠節を信念に)とあった。彼こそ12,000人の前に散った志士であろう。写真はスリヨ通りから入ったすぐのところにある建物である。

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2010年4月 5日 (月)

12,000人のインドネシアの志士

スルタン・ハミッドの西ボルネオ国はインドネシア連邦支持組となったが、あの当時6つの傀儡国家と9つの傀儡自治地域とインドネシア共和国(主としてジャワの一部とスマトラ中部)の16け国の連邦を条件としてオランダの委譲を認めさせたのがハーグ円卓会議でそれは1949年12月27日であった。そして翌年早くも3月9日には東部ジャヤ、中部ジャワ、マドゥラが共和国に参入しその後雪崩を打ってこの15自治国・地域は共和国に併合され、現在の単一共和国となったわけであるが、その驚くべきスピードの背景はどうだったのであろうか。
永井重信氏の著述によると、ハーグ条約の後オランダは撤退し、政治犯として逮捕拘留されていた12,000人が釈放され、それに勢い付いた共和国支持派の力が圧倒したとの事であるが、まさにこの12,000人は単一共和国成立への志士といえよう。但しこの中から名前をはせた人が輩出したわけではない。むしろ軍を持たない地方自治国へ国軍が浸透し多くの民衆の熱望が大きな動きとなったものであろう。PETAが中心となった国軍の組織力はその後も地方反乱を鎮圧しインドネシア安定の基盤となる。

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2010年4月 4日 (日)

ガルーダの決算と日本便

3月のニュースでガルーダの決算発表があったが2009年に遂に利益1兆ルピア(1.009兆)を打ち立てた。昨年でも黒字でそれも6,669億あり認識を新たにした。乗客数も10.3百万人であるが、昨年からは3%程度の伸びに過ぎない。搭乗率は74%だそうである。Ab_garuda_may_09


写真はムルデカ・スラタンのガルーダ本社ビル。機内誌では従業員の生産性を高めることが強調されており、貢献報酬制度などもあるようだ。日本に戻るときのデンパサールは成田行きと大阪行き、名古屋行きが重なりターミナルは日本人だらけである。大阪便は週5便、名古屋便は週3便であるのでみっつが重なるのはいつものことではないが、少なくとも成田行きの搭乗率は常に99%である。
それにしても過去3回機内の免税品販売は案内もなく、今回は申し込んだ3品(リップスティック、香水)が積み込まれてなかった。生産性がいいとは思えないが、JALに比べると給与が低い点が勝利の原因の一つであろう。

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2010年4月 3日 (土)

会社の海外借り入れの報告義務 

主題の法令が月刊誌「インドネシア企業経営」2010年3月号に出ている。 又インドネシアの改定付加価値税の施行を前に省令、通達もどんどん出てきている。
その他インドネシアの会計・税務・輸出入手続き等下記の記事の3月号($100 or RP800,000/月)が発売中である。詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又はk2433@attglobal.netに照会下さい。
インドネシアの 今月の税務法令アップデート
インドネシアの 今月の経済法令アップデート  
インドネシアの 会計原則 129(1株あたりの利益 その2)
インドネシアの サービスの輸出に対する課税問題
インドネシアの 新投資手続き規定~補足
インドネシアの 2010年度輸入関税の政府負担
インドネシアの 租税条約適用の為の居住証明書 記入サンプル
インドネシアの 会社の海外借り入れ報告義務 アップデート
インドネシアの 中古資本財輸入のための工業省推薦状
インドネシアの 納税者番号の抹消手続き
インドネシアの バタム自由貿易地域への工業推薦権限の移管
インドネシアの 今月の労働関連トピックス
インドネシアの 賃貸料・技術・経営サービスフィーの理解
インドネシアの 英文・米ドル会計の認可および取消手続き
インドネシアの 天然資源 錫
インドネシアの 新エネルギーの利用に対する租税・関税便宜
2010年2月度 下旬 政治・経済トピックス
2010年3月度 上・中旬 政治・経済トピックス
物価・貿易2010年3月発表
橋本政彦 「明日の街角51~春の思い-地の塩」 
西見恭平 「ムルデカ・チムールの建物達」
今月の月次経済指標 2009-2010トレンド
今月の会計・税務用換算レート
今月の為替株式金利の動き

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2010年4月 2日 (金)

手の内見せて自滅の総局

昨日の空港での手荷物の税関申告、数年前まではこの申告書の記入は不要であった。いつから書かせることになったのであろうか。誰が決めたのか知らないがどんどん世の中悪くなる。ただ小生は開けさせられたことは皆無である。終わった後抗議するだけである。申告書はうまく出来ていて全ての項目にNoのボックスにマークすればよく読まずとも目を閉じてもできる。
最近インドネシアで導入された租税条約適用の為の居住証明書の記入は全てにYesにマークすれば合格であるが、この質問に否定の疑問形があるので本来的にはNo.と答えるべきところなのが二つもある。従い英語の文法感覚からはNO.と答える人も多く、それでも受理せねばならなくなって、何の為の設問なのか、これを考えた租税総局は自滅している。 これも昔は簡単なものであった。

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2010年4月 1日 (木)

ガルーダの歴史の一コマ

ガルーダの歴史はインドネシアの輝ける独立の勝利と切り離せないとガルーダ機内誌の頁が誇らしげに伝える。
その歴史は1948年、スカルノ大統領がアチェにおいて航空機を購入する資金の集めの為経営者と民衆に呼び掛けたことから始まる。そうして購入したのがダグラスDC-3 ダコタ型で後に金の山を意味するSeulawahと名付けられた。
この飛行機は酷使されたため、12月7日には補修の為カルカッタに向かったが、補修も終わった1948年12月19日、本国ではオランダの第2次警察行動が行われ、結果帰国できなくなった。ほとぼりが冷めるまでビルマ政府にレンタルし、翌年帰国、スカルノがガルーダと命名し機体にGaruda Indonesia Airway字が躍った。1949年12月28日ハーグ条約署名の翌日、スカルノはこの飛行機でジョクジャカルタからジャカルタに凱旋した。歴史の一コマであるが知って得する話ではない。
今回のガルーダの機体は前回の新鋭機ではなく、映画も楽しめず残念だった。

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