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2010年4月27日 (火)

ナッシール元首相の晩年

モハメッド・ナッシール氏は1993年にジャカルタのRSCM病院(チプト・マングンクスモ病院)でなくなった。85歳であった。その前年の1992年はスハルトの最後の選挙であったが彼はイスラム政党PPPを応援した。1980年代にはアリ・サディキンのPetisi50に署名し反スハルトを鮮明にしたが、それまでは政治に別れて宗教の世界のもどっていたのである。スハルトのオルデ・バルになって自由の身になっても、スハルトもスカルノも同じだと断じた後であった。と言うのはスカルノ時代に逮捕・拘留生活を余儀なくされていた。彼が逮捕されたのはスマトラのPRRI反乱に肩入れしたからである。1961年スカルノはPRRIの政治家たちにアマネスティを与えジャカルタの呼んだが、社会との結びつきを断ち切るため拘留したのである。実際はPRRIのシャフルディン・プラウイラヌガラ内閣には入ってはいなかった。彼を含め西スマトラ出身のバックボーンであるマシュミ党は1960年に地方反乱に加担したかどで解散させられていた、PRRIの反乱とは1956年、フセイン中佐がパダンにバンテン協議会を作り反乱の旗揚げしたたが、反乱軍自体はスカルノの政党解消構想後のジュアンダ内閣の時ナスチオンーヤニ陸軍に降伏していた。ジュアンダ以前の政権は1955のハラハップや1951年のスキマン等マシュミ党と1952年ウイロポ内閣、53年アリ・サストロアミジョヨ内閣の国民党の内閣が入れ違いに組閣していた。 ナッシ-ル内閣は1951年に7ケ月の短命でおわったが、ニューギニア奪回の強硬派国民党との突き上げがおおきく影響した。ナッシール自身は円卓会議に参加したときアグス・サリムと二人ニューギニアを含めない協定には反対していた。それが単一共和国誕生後の最初の首相に抜擢された理由であったとすれば皮肉なものである。首相になったのがナッシール42歳のときでありそれ以降の下り坂は43年であった。伝記を遡って書いてみた。

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