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2010年5月10日 (月)

日本商社のコタからタムリンへ

貿易投資コンサルタントの広沢氏と東京外語大学名誉教授の佐々木教授がジャカルタ・ノスタルジー旅行で来られ、ブログのよしみで小生が案内を仕った。その一つが広沢氏の商社兼松の昔の事務所の探索であった。それは2年ほど前、広沢氏から依頼もあり、カリブサール・バラットのジャランコピー51番地と言うことで、現在はドリアンの小売店となっている店を訪ねたことがある。写真に撮り送ったが、どうも様子が違うと言うことで今回見に行ったわけであるが、ジャラン・コピーは変わらないがどうも番地が違うようで角地の3階建てのビルがそうだとわかった。Ab108


写真で紹介するのは気が引けるほど落ちぶれ果て、誰も使用しないまま相当年数がたっている事がわかる。ここはじゃがたらお春も住んでいたという地区でRoa Malakaと言う古い道路名も残っている。いずれ海水が押し寄せるというのであろうか 崩壊を待つばかりであり、心が痛む。他の日本商社もカリブサール・チムール側にあったそうであるが、日本が国交を回復した1958年の後多分1962年頃タムリンに日本大使館が出来、この大使館ビルに日本商社も大挙して移動した。その後1972年に賠償関連ヌサンタラビルが完成したため、また日本商社はヌサンタラに引っ越したが、伊藤忠はスカイラインビルを1974年に完成させたのでそちらに移ったはずである。処で1958年から1962年までの日本大使館の所在地を突き詰める宿題を頂いた。

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