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2010年6月 7日 (月)

プタンブラン日本人納骨堂訪問記

広沢さんが15年ぶりにジャカルタを訪ねた時の、プタンブラン墓地を案内した話は氏のブログhttp://www16.plala.or.jp/bouekitousi/sub28.html - 15nenburiに出ている。Abjan_31_026


初めて中に入り、3メートル四方の両サイドの壁の棚に日本人物故者のつぼが保管されている。歴史の割には数えられる程度であったが、小生が元々関心があったのは金勢咲子(?)さんであったが、ちゃんと亨年25歳として置かれてあった。彼女に関連する記事を2008年のブログでそのまま紹介すると;
スカルノ第三夫人 南溟に消ゆ 7月24日
「何かの時にメモしていた西木正明著の「わが心、南溟に消ゆ」を読み終えた。知らなかったが、ついこの間といえるインドネシアでは金融危機の最中の1997年から99年にかけ婦人公論に連載されたものである。
デウィ・スカルノの蔭に浮気者スカルノに舐められ浴槽に剃刀の鮮血を染め果てた周防咲子第三夫人の毅然たる一生である。昭和9年の生まれ、日イ賠償協定の1年後の1959年、25歳の若さであった。その死亡は人知れずジャカルタ西北郊外に葬られたそうで、作品では1980年、「市街地開発事業のため。。現在は広い幹線道路になっている」と淡々と締めている。全身全霊で18歳の若さで尽くした医学生丹野、賠償商権に人身御供を画した木下産商の木下社長、キャバレー紅馬車に現れる岸首相、性的タフガイ・スカルノ、不思議な叔父大沢、これら男達の犠牲であるが、西木は描写は生半可で清々しない。死の直前、彼女が詩を書いた時の熱帯の邸宅での閉塞した気持ちが残ったままである。「蝶よ お前は私の翼 風に乗り 海を越えて 伝えて欲しい 遥かな人に わが心 南溟に消ゆと」 解説の杉江松恋はジャガタラ文を思い浮かべ 周防咲子も。。日本恋しや こいしやと泣いたのでしょうかと結んで鎮魂の積もりでいるが、スカルノはその後数年で失脚、木下産商も蔭も形もなくなったことがせめてもの救いである。住んでいたところはムントン街で高い椰子があると出ているがメンテンのスウイルヨ通りだろうか 遺骨は日本人墓地に移されたのであろうか 」
Ab102


この納骨堂には広沢さんと佐々木教授と5月の土曜に、その場所だけでもの積りで訪れたが、運の好いことにちょうど係りの人がドアを開け周りに打ち水しながら掃除の最中であった。 多分ジャカルタ日本人会が雇っている人だろうから、真面目に仕事していると事を報告してあげると写真を撮った。お礼に5万ルピア、と周りに箒などを持ったおばちゃんたちが集まり、その5万で何とかしろと目配せしたが追加で払えと言うのでまた5万、入口でお花を買っていたので2万、お花を買ってきてくれた男が最後までついてくるのでまた2万、最後は数名の子供たちである。中国人の風習を思い出しポケットにあったコインをばらまきやっと脱出出来た。

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