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2010年8月24日 (火)

バタビア誕生前後の列強の日本進出

バタビア誕生の前後は欧州列強のアジア進出盛衰の歴史である。バタビアを遠く離れた日本も同じようにポルトガル、スペイン、イギリス、オランダが相まみえた。この時代を日本の年号入りでその進出盛衰を辿ってみよう。

1511年:ポルトガルマラッカ占領、以降アンボン、広東、寧波へ
1543年(天文12年):ポルトガル更に北上、種子島に漂流、鉄砲伝来
1549年(天文18年) サビエル、薩摩に上陸し、キリスト教を伝える。平戸でも伝道に成功、ザビエルはポルトガル王が派遣したスペイン人宣教師
1550年(天文19年天正?):ポルトガル、倭寇・外国貿易に熱心な松浦氏の平戸へ。南蛮貿易開始
1557年(弘治3年):ポルトガル、マカオ政府の官許船が定期入港するようになり貿易隆盛となる。中国生糸を輸入し日本の銀で買う(輸出)。西の都として栄える。
1561年(永禄1年):ポルトガル、平戸で殺傷事件、松浦氏もカトリック忌諱で、ポルトガルは去る。
1573年(天正元年) 織田信長、足利義昭を追放して、室町幕府滅亡。
1582年(天正10年) 本能寺の変
1582年(天正10年) - 1590年(天正18年) 天正遣欧使節が渡欧。スペイン・フェリペII謁見
1584年:スペイン1571年にマニラを拠点化後、平戸に商館
1585年(天正13年) 豊臣秀吉、関白となる(翌年、太政大臣)。
1587年(天正15年) 豊臣秀吉が、バテレン追放令を定める
1589年:英西戦争(無敵艦隊敗れる)でスペイン、日本を去る。1624年断絶、来航禁止となる。
1596年(慶長元年) サン=フェリペ号事件 (スペイン船、土佐漂着、積み荷没収)
1600年(慶長5年3月):オランダリーフデ号、豊後漂着、オランダ人ヤンヨーステンやイギリス人 ウイリアム・アダムス(三浦按針)は幕府の顧問に。
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦い
1603年(慶長8年) 徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。
1609年(慶長14年):オランダ平戸に国書を提示、布教を前提としない、商館を開く、以降、定期便で幕府に西洋事情を伝える。(定期便は1661年から)。
1614年(慶長19年) - 1615年(元和元年) 大坂の役
1616年(元和2年) 欧船の来航を平戸・長崎に制限する。
1633年(寛永10年) 奉書船以外を禁じ、渡航者の帰国を制限する。第1次鎖国
1637年(寛永14年) - 1638年(寛永15年) 島原の乱
1639年(寛永16年) ポルトガル人の来航を禁じる。
1641年(寛永18年) 平戸閉鎖、オランダ人を長崎出島に移す(鎖国の完成)。
という100年の歴史である。ドイツ人としてはその後のオランダの雇われの身分でやってきたケンペル(1690年)とシーボルト(1822年)を待つことになるが二人の功績は大きい。又アメリカがそして列強が再度訪れるのは1791年の米ワシントン号から1853年ペルー来航の時代となる。

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