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2010年9月20日 (月)

シーボルトの功績

オランダウイレムIIの日本将軍への開国の薦めを思い立たせたのはシーボルトである。彼もケンペルと同じくジャワのVOCと関係なしとしない人物であるので彼の一生を追ってみよう。
シーボルトは実は ドイツ生まれでドイツのヴュルツブルグで1797年に生まれ、
大学もヴュルツブルグ大学で哲学科に入学、医学部に転学し更に自然諸科学・地理学・民族学も修め、探検旅行にも関心をもつようになった。卒業後叔父の繋がりからオランダのウイレムIに仕えることになり、オランダ領東インド陸軍外科軍医少佐に任命されてデ・ヨンゲ・アドリアーナ号で赴任した時27歳であった。オランダ総督ファン・デル・カベレンは直ぐより重要な長崎出島の商館医員に任じた。長崎上陸チェックで危うくオランダ人でないことが露見しそうになったりで、その頃は日本にも有能な通詞がおり、又鎖国の管理も厳しく制度が出来上がっていたことが判る。
28歳で鳴滝塾を開き大きな植物園(薬草園)をも設け、以降、日本全国の動植物の観察や富士山の高度を六分儀で測量したり太陽高度測定、アイヌの研究、銅の輸出査定等多くの事績を残した。江戸にも最初は商館長ステユルレルに従い行き、後将軍にも謁見した。出島植物園内にケンペル顕彰の記念碑を建立。日本人の楠本滝と結婚 31歳の時娘イネを設けた。32歳の時バタビア帰還を命ぜられその出航時台風に見舞われ、積み込み荷物の中に伊能忠敬の地図を持ちだそうとしていたことから諜報の嫌疑で逮捕される。連座した天文方・高橋景保ら処罰される。(1828年シーボルト事件)、シーボルトは幽閉の後国外追放・再入国禁止となる。
34歳で日本を去り、後オランダ・ライデンで日本からの標本等コレクションで日本博物館を開設して、また日本動物誌や植物誌を表した、日本が開国した後、63歳で来日し家族再会を果たすも、帰国、1866年風邪をこじらせ死去70歳であった。ケンペルもドイツ人であったが、二人の間には135年の時代が流れていた。

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