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2010年10月 1日 (金)

フイリップ・フランツ・フォン・シーボルト 再レビュー

シーボルトの家族再会の話は杉本苑子女史の小説「埠頭の風」にも描かれている。
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シーボルトは丸山おいらんの滝とちぎり 稲という娘をもうけるが稲2歳の時シーボルト事件で国外追放となる。
稲は周りの冷たい目の中で育つも有能な蘭方女医となっていたが、父の一人の弟子に凌辱され娘をひそかに産まされていた。シーボルトが30年後再度日本の地を踏んだ時、父を迎える稲は畏敬と憎悪の複雑な気持ちであったが、父が去る迄に父の深い家族愛を知り、お父さんと呼び慕う気持ちに変わっていたという筋書き。歴史の推敲がなされているか不明であるが前回の小生のブログの下敷きもあやふやである。
1797年 シーボルト生まれる
1823年 7月6日 日本に赴任 (文政6年 苑子女史による) 26歳
1828年 シーボルト事件 国外追放を1831とすると幽閉が長くなりすぎおかしい
1831年 国外追放 30年後再来日を果たしたと言うから1861-30=1831  
1861年 7月6日 再来日 (文久元年 苑子女史による)
1862年 帰国。日本を去り4年でなくなったというから 1867年から4年を引くと63年
1866年 死去 70歳であったというから1867年か


*シーボルトは日本赴任から国外追放まで6年滞在、国外追放から家族再会までが30年と言うがこれを使うとつじつまが合わなくなる。足かけとかあるのであろう。尚国外追放後も日本の家族に再会するのを期してドイツ人との結婚は16年間も待ったそうである。そうすると1846年か1847年、かれが49歳のときであったと言う。ウイレム国王に建言し、国王から将軍へ日本開国の助言をしたのが1844年であるのでドイツ夫人との結婚前である。
*鳴滝塾には全国から多くの俊才が集まった。高野長英が有名だが。女史の本には二宮敬作が登場、彼は事件で獄門につながったり、稲の後見役として指導、甥の三瀬周三が再来日のシーボルトを敬作老人に代わり尽くす、後、稲の娘 只子をめとる。
*1862年は坂下門外、生麦事件等あり(女子の記述と一致)、日米和親・通商両条約はなっていたとしても未だ完全に開国した訳でなく物騒な時期。 シーボルトは幕府の招待で顧問としてこの時期江戸に上っている。帯同した息子アレキサンデルは英国公使館通訳として勤務した。

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