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2010年11月 2日 (火)

バタヴィア 1930 (3) 東の女王

「ウェルトフレーデンは疑いもなくオリエンタルの最も素晴らしい街の一つで、旅行者は一度は行くべきだ。
バタビアの古い街から馬車を借り、雑踏の市場を通り過ぎ、整備された運河添いに南に走る。運河では土人の子供たちが水を掛けあい、泳いでいる。女たちが傍で衣類を打ちつけながら洗濯している中を男たちは小さなボートであちこち動いて、全てがこの古い町の謹厳さをパロディ化する奇妙な戯画である。
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この運河はタマリンドとワリンギンの木が並んで、その先に椰子が実り、マダガスカールの火炎樹が咲き誇る新しい街の広い道につながる。
バタビアの主要道路は電車線路沿いにモーレンフリート、ライスワイク、ノルドウィク及びクラマット、タナバン、ケボン・シリーである。
郵便局と電信局(一つのビルであるが)は劇場の近くの運河添いにあり、電車で行ける。営業時間は7時にオープンし夕方6時迄オープンしている。日曜は9時から5時までである。
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ウエルトフレーデンのホテルの近くのハーモニー・クラブから、旅行者にインシュリンデの首都を理解してもらい、きっと新しい思い出を残すいくつかのサイトシーイングを紹介しよう。」(次号へ)

東インドとはコロンブスのアメリカ発見以降西洋の島々を西インドと呼んだので本来のインドが東インドであったが、オランダの植民の力が増すにつれオランダの東インド:Dutch East Indiesから何時しか東インドは現在のインドネシアを表すようになった。Hindia Timiurともいう。Queen of the Eastなる言葉は17世紀、オランダが黄金時代を築いたディーメンス~カンプ・ハイス総督時代に一度出ているが、19世紀になっても復活している。
Hinduの時代からRatu Watan(東の女王)の言葉があり、当初はダイヤモンド城を持つ城壁都市バタビアを指したようだ。1800年代ダーンデルス時代から今のモナスのKoningspleinに都市を移転するとその地はPearl of the Orientと言われ、更に19世紀から20世紀に掛けて特にウエルトフレーデン、Nieuw Batavia(対比するとKotaはOud Batavia) をそう呼んだ。似た言葉に1860年にドゥエス・デッケルの「マックス・ハヘラール」にインドネシアを呼んだ「エメラルドの首飾り」が出ている。
インシュリンデは東インドと同じであるが語源はラテン語か、Indes とInsular 島の意味の美称であるが、甥のデッケルたちが作った東インド党の解散の後を引き継いだ党の名前でもある。
電車或いは馬が引く列車がタンジュンプリオク開港前からスンダクラパ – ファタヒラー - モーレンフェルト(ハヤム・ウルック)- ノルドワイク(ジュアンダ)を通っていた現在のマジャパヒット通りからタナーバンへ行く道或いはスネンからクブンシリーを通ってタナバン、グヌン・サハリからクラマットを通ってMeester Cornelis(ジャティネガラ)に行く道が主要道路であった。

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