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2010年11月 8日 (月)

Batavia 100年1915(5) その頃のバタビア tempo dulo

「バタヴィア市の1912年の国勢調査によると人口は162,000人、内訳は欧州人15,000人、プリブミ114,000人、チナ人3,000人、アラブ人 1,800人、その他1,200人である。バタヴィア市はBatavia
Batavia 地区とWeltvreden地区に分かれ、又衛星都市Meester Conelis(現 Jatinegara)を持っている。バタヴィアとはKota Lamaでプリブミとチナ人、アラブ人が住んでいる。街路での活況はイギリスの東洋の植民都市と比べものにならない。 海岸に位置し湿地帯で人口も多く衛生的ではない。しかしここが商業の中心地で銀行や海運会社、保険会社その他欧州人が持つ会社の事務所がある。ここで一番賑やかな道路はカリ・ブサール、ピントゥ・ブサール、ピントゥ・クチール、パサル・バルでチナ人の店が繁盛している。 コタはチリウン河がコタ方面に貫くいくつかの運河に取り巻かれている。
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運河は護岸されところどころ階段がある。水は茶緑色で、その中でマンディもするし洗濯、中には食べ物もここで洗ったりする。 」

古写真は洗濯風景であるがこれだけ多くの人が出てきている所はパッサル・バルの手前で川幅もここが一番広いのでそうだろうと思うが背景の家が他の写真と違うのは時代が違うからかなとしておこう。 今日の文章で1912年の国勢調査が出てきたので、この時代は1912年より後であることが判ったので切り良く1915年とタイトルを変更しよう。バタヴィアはジャカルタの前の都市名でありバタヴィア地区も同じ名前であるので前者はKota Bataviaと言い後者はOude Batavia或いはKota Lama等として区別する。

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