« フランス大使館一世風靡のインドネシア建築 | トップページ | タイヤのNursalim親娘 »

2010年12月16日 (木)

ここにあったかGrand Jawa Hotel

バタヴィア百年シリーズでウエルトフレーデンのいくつかのホテル名が出てきたが、この中にGrand Hotel Jawaがあった。Collectie_tropenmuseum_het_grand_ho


小生は解説でSetnegとの間にPool小路がありそのあたりと片付けていたが、これは間違いで本当はもっと東よりの現在のスリウイ^ジャワホテルの手前で宮殿横のJl.Veteran IIIとの中間点にあった。Hotelとしては古く1834年オープンであるがこのホテル敷地は運河添いのRijswijkレイスウェイクからモナス側のKoningspleinに突き抜ける長いもので広場の風が心地よく吹き抜けるPavillion形式のホテルであったらしい。 ゲストも旅行者より長期滞在者が多く、為に旅行記などで取り上げられることも少なく名前の割に有名ではなかった。 インドネシアが独立後この敷地は南側が内務省ビルに北側は国軍の土地となった。この国軍の土地も広くグランド・ジャワホテルの敷地からスリウィージャヤホテルの間は縦にモナス側までを占めておりこのモナス側にはスディルマン将軍の銅像も建つ陸軍本部であるが北側はTaqwa館等はあるが軍らしいものはない。 又Hotel de Franceと言うのも上記旅行案内に出てきたが、これはどこか判らない。残った者同士紐付けるとこちらはSriwijaya Hotelの前身Hotel du Lion d‘Orかもしれない。
写真はTropenmuseum所蔵より借用

|

« フランス大使館一世風靡のインドネシア建築 | トップページ | タイヤのNursalim親娘 »

インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事

コメント

西見様

バタヴィア百年シリーズを懐かしく読ませて頂いています。
ところで、このGrand Jawa Hotelですが、独立後の名前は、わかりませんか?
1960年代初頭、このホテルに覚えがあるのですが、名前を思い出せません。
お分かりでしたら、教えてください。

投稿: 広沢 勉 | 2010年12月17日 (金) 20時09分

この名前はオランダ語でないのでそのままだったのでは? よくHotel Jawaとか組合せの名前にであいますが。。
所で市電は1962年にはもう無かったのですか

投稿: nankai yoichi | 2010年12月17日 (金) 23時50分

1962年当時、英語表示の建造物の記憶ありません。
フランス語のHotel Des IndesもHotel Duta Indonesiaに代えているので、Grand Jawa Hotelもインドネシア風の名前になっていたと思うのですが。
それと当時のインドネシア語スペルでは、ジャワはDjawaでないといけないはずです。
ご質問の市電ですが、1963年までのジャカルタ風景を撮った写真集の中に、コタのBank Indonesia前を市電が走っている写真があります。
ただ、この頃、私は、Stasion KotaやBank Indonesia前を通って、Jl.Kopiの事務所に通っていたのですが、市電が走る光景を見た記憶がありません。
タムリンとスディルマンの開通は1959年もしくは1960年なので、その頃、市電の運行も止まったのではないでしょうか?

投稿: 広沢 勉 | 2010年12月18日 (土) 15時22分

そうですか
オランダ時代はtempo doeloeとは書かなかったのですね。あのホテルはJava Hotelと呼ばれた時代もあったようですが
国会はわかりませんか KAMIがデモをかけたところはBogor、Sekneg、DPRなどと書かれたものがありますが
今のDPRは確か1968年ごろで建設中だったのかも知れませんが。。

投稿: Jakartan | 2010年12月18日 (土) 17時29分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ここにあったかGrand Jawa Hotel:

« フランス大使館一世風靡のインドネシア建築 | トップページ | タイヤのNursalim親娘 »