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2010年12月の投稿

2010年12月31日 (金)

インドネシアの2010年十大ニュースと新春ゴルフ

独断で選んだトップは「強い消費意欲に花やぐモール」とした。Abdsc02387
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自動車も昨年48万台が驚異の76万台に、ショッピングモールやレストランも花盛りである。これに日本の企業も盛り上がり、吉野家、大戸屋、紅花、モスバーガー、セブン-イレブン、楽天まで参戦している。
新製品投入、拡張は枚挙にいとまがないほどであったがプロジェクト・新規事業をピックアップしても、伊藤忠石炭インフラ、住友建機、日石、新日鉄鋼管、日立粉末冶金、昭和電工、日揮、TOA、日本触媒、トヨタ織機、帝石、ジェイテクト、ANA、IBJリース、JAPEX、INPEX、小糸、住商地熱、王子紙、新日鉄ラテヌサ・仏トータル受注等があった。
日イ首都圏投資促進特別地域(MPA)構想も前原外相来イで調印され、2012年Q2までにマスタープラン策定、早期実施事業は2013年末までに着手、全事業の運用開始は2020年を目指すとか。2020年には皆さま共々是非参加したいものである。

小生の2010年は機械の逆襲に襲われた。理科系に弱い小生はますます難しくなる。事の発端は何も知らずにVistaを購入したことで、これには何度も何度も悩ませられる。Sonyのデジカメも失敗ばかり、Canonのプリンターも寿命、この三つは全部買い換えたが、たった三つと思うかもしれないが関連して筆舌に尽くしがたい問題が続出した。最後はE-mailである。こちらは小生の契約プロバイダーのAttglobalがインドネシアを撤収したことである。多分規制等インドネシアの唯我独尊に耐えられなかったのかもしれない。あす1月1日からどうなるか、今日現在Attglobalと切れてないので心配だ。とりあえずインドネシアで昔から用意していたアドレスで長く使ってなかったものを使うことにした。nishimi@indomalco.comで、安全を撮って新春スケジュールを連絡して置きたく。1月は6日からジャカルタで7日はプロマス、8日はクマヨランで決りである。

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併せて、2010年のご愛顧、ご指導に深く深謝申し上げますとともに皆様方のますますのご繁栄を祈念して、新春の言葉とさせていただきます。
西見恭平

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2010年12月30日 (木)

2010年の悪夢 領土観念の喪失

2010年日本が内向きに揉めている間に日本を取り巻く諸国は日本の領土を実力で侵略し始めた。ロシアの歯舞・色丹・択捉・国後領有、中国の尖閣諸島、韓国の竹島、米国の沖縄と一挙に噴き出し最早日本自身の手では解決は難しい状況である。問題の裏側には必ずそれぞれ相手の論理があり、あると言う事は無為無策・失政の我が過去を考えれば認めねばなるまい。米国の沖縄はここに日本に属したいとする人々がいた事で感謝せねばならないが、領土問題とは根本的に違うが一つの領土形態と考えればヒントとなる。悪夢のついでに朦朧とした頭でよぎる事を記して見よう。北方領土には追い出し占領を追い返せなかったばかりに今やそこにはロシアを母国とする人々しか居住していない。領土問題は結局は居住者が決めると言えば経緯はともあれ日本は不利で、これを粘り良い交渉で解決しようとしても好転する事は絶対ないことは古今の歴史が教える所である。一時ロシアは日本に一部返還する所まで行っていたが日本の態度で硬化させたと言う。 ここまで来ると長い事はますます悪化させる。 幼稚な頭では、領土問題は最終解決は折半・交換・協同管理しかありえないと結論づけることが出来、こういう方向で考える事は出来ないのであろうか。竹島・尖閣等は人が住んでないはず故即時でも考えられる。両国が領土権を国連に委託し協同で信託統治する訳である。 宇宙戦争や地球最後の日を思い浮かべは幼い頭でも思い浮かべる地球の将来図であり、世界に先駆けて模範を示しうる事になる。 島と言う陸をだけを考えるのではなく陸と海と空を分けて考えるのも面白い。 少し離れるが日本の食料自給率が問題となる事もあるが、これは資源問題ですら、ほしい国が自らの資金と技術で獲得出来るわけであり、食糧など植民する迄もなくプランテーション経営で解決出来る。日本はもっとこの面でも世界に出かけていくべきである。これが領土獲得と実質大差がないこととになろう。
所が中国は日本でどんどん土地・建物を購入しているという。外国からの土地購入には制限は設けていないのであろうか。いずれ日本の土地は中国人の所有になっていく悪夢もよぎる。ならば日本も国後でも出かけて行って買えるよう運動したらどうだろう。
昔インドネシアが金融危機の時代に、この際日本がインドネシアの島でも買ったら大きな援助になると思った時があったが、その後傷は日本の方が大きかったのでがっかりしたことがある。考えると色々この問題は大きい。どこかで噴出していたが、日本も大統領制で大きな視点から政治をやれるようにする時代になるのかもしれない。維新を求める声が湧いているのだ。 インドネシアを取ってみても比較してみる教材はある。 大統領制に副大統領、大統領諮問機関、政治治安調整大臣、利点・力量は評価してないが、日本もどうだろうか、日本も首相と大統領の分担なども考えられる、更に大きく・将来を拓く(領土・資源など)専門副大統領なども必要であろう。 
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時はつごもり迫り、テレビは芸能人が占拠して良識あるディレクター不在の元禄時代である。ダーツで刺さる事は無理ならTV朝日のサバイバル生活日本全国・北南東西か或いはNHKが新春の日本・東西南北などやってほしいものだ。

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2010年12月29日 (水)

インドネシアの最高良識・賢人たち

Jalan Juandaの先で右にU ターンしJalan Veteranに入りそれからモナス経由タムリン道路に出るべくムルデカ宮殿横の道に入る。ここからモナス迄の200m内外の短い道はJalan Veteran IIIである。この道は昔からあり、オランダ時代はGang Sekretarieである。
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そこに白い柱が曲線の玄関を飾っている建物があるがこれが大統領諮問会議(Wantimpres:DEWAN PERTIMBANGAN PRESIDEN)であるが手元のJJCの国家機関の中にリストアップされてない。手元のJJCハンドブックVersionが古いからあるが、古い人間ならこれの元をたどるとスハルト時代の国権の高等機関の一つに挙げられていた最高諮問会議DPA :DEWAN PERTIMBANGAN AGUNG)だと想像がつく。 
DPAは昔は憲法上第3章に独立した規定を有していたが、2002年の憲法第4次改定で その1項目として第16条に諮問機関の設置が出来るとして国家高等機関の一つから大統領の下の機関と格下げとなった。実際は2006年法律19号でWantimpresの設置が決まったものである。大統領の諮問にこたえる役目であるのでインドネシアの最高の良識を備えた人が任命されているはず故その名前を以下に書いておこう。
Prof. Dr. Emil Salim, S. E.
K. H. Ma'ruf Amin
Prof. Dr. Meutia Hatta Swasono
Prof. Dr. Ginandjar Kartasasmita
Widodo A. S., S. IP
Dr. N. Hassan Wirajuda
Prof. Dr. Jimly Asshiddiqie, S. H.
Prof. Dr. M. Ryaas Rasyid, M. A.
Dr. dr. Siti Fadilah Supari, Sp. JP (K)

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2010年12月28日 (火)

バタビア1930 (7)  タナー・アバンも観光地?

次の市内観光はタナー・アバン方面である。原文が意味不明ながら直訳すると
「8時に出発、Gang Chaulanを通ってタンゲラン方向に歩いて行く。半時間ほど歩くと
中国人の墓がある所で南に曲がる。Djattiに向かう葉影深い墓地を通り抜ける。45分程度でDjattiに着く。そこがTanah Bangのパッサールでそこからはdos-a-dosに乗りホテルに戻る途中にある欧州人のお墓に立ち寄る。」とこれだけである。

Gang Chaulanとは今のHasyim Ashari通りでガジャマダ・プラザの手前で左に曲がりRoxi Masを超えてCiputraに向かう道である。もっと南のプタンブランの他には、この辺りに中国人の墓地はない。 Djattiは現在Cideng郡の中にあるJati Baru村等に名前が残っているが、そこより南に現在のパッサール・タナー・アバンがある。そこから馬車ドサドスに乗って北上すると現在Tanah Abang 1通り奥にプラサスティ墓地記念公園がある。多分ここに出てくるホテルはHotel des Indesであろう。
現在の繊維博物館は元アラブ人の居宅であったが観光地になっていたか疑問であるものの、タナー・アバンからは運河越えでこのサイトシーイングには出てこない。
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パッサール タナー・アバンは パッサール・スネンを開いたVinckeと言う人が開拓したとの事で多分1730年頃であるがその後でも写真のようであった。現在のものと少しギャップがあるが現在のPasar Tanah Abangは大きなKecamatan故場所の特定は難しい。

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2010年12月27日 (月)

「インドネシア企業経営 」12月号出版案内

インドマルコ社の月刊誌「インドネシア企業経営」2010年12月号が発行された。 11-12月に発行されたインドネシアの会計・税務・輸出入手続き等下記の目次の通りである。詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又はwww.indonesialink.net/indomalco/に照会下さい。

1. 今月の経営情報・事例研究
  1 ) インドネシアの 今月の税務法令アップデート
  2 ) インドネシアの 今月の経済法令アップデート  
  3 ) インドネシアの 会計原則 137(会計方針、会計上の見積りの変更及び誤謬2)
  4 ) インドネシアの VAT申告書記入ガイド 2011
  課税商品・無形固定資産・サービスの輸出リスト
  5 ) インドネシアの 税額票による国内販売の売上税リスト
  6 ) インドネシアの 乗客・乗員・越境者の持ち込み品通関制度
  7 ) インドネシアの 2011年主な州の最低賃金速報
  8 ) インドネシアの 課税・非課税取引共通仕入れ税の配分
  9 ) インドネシアの 国際郵送貨物の通関制度
  10 ) インドネシアの 就業規則の承認申請添付フォーム(翻訳つき)
  11 ) インドネシアの 租税総局内の特別調査の体制整備
  12 ) インドネシアの 到着ビザ規定の改訂
  13 ) インドネシアの 株式会社と財団の官報公告
  14 ) インドネシアの 銀行活動の付加価値税
  14 ) インドネシアの 環境管理書類未取得の事業者の措置
  15 ) インドネシアの 2010年投資環境トピックス 兼重大ニュース
  16 ) インドネシアの 今月の労働関連トピックス
 
2. 今月の政治・経済情報
  1 ) 2010年11月度 下旬 政治・経済トピックス
  2 ) 2010年12月度 上・中旬 政治・経済トピックス
  3 ) 物価・貿易2010年11月発表
 
3. 暮らしの随筆・その他
  1 ) 橋本政彦 「明日の街角60~見極める」 
  2 ) 拓海広志 「初めてのヤップ(7)」
  3 ) インドネシア 今日は何の日 1月のクロニクル
 
4.今月の金融・経済関連データ
  1 ) 今月の月次経済指標 2009-2010トレンド
  2 ) 今月の会計・税務用換算レート
  3 ) 今月の為替株式金利の動き


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2010年12月26日 (日)

クリスマス・デコレーションはHARAM

またインドネシアのイスラムの幹部がキリスト教に対し文句を付けたようだ。この時期になるとこうした宗教間対立の言葉が乱れ飛ぶ。Jingle Bombsと言うのもあったが、このクリスマスのデコレーションに関して噛みついたのはイスラム・ウラマ協議会(MUI)のFatwa委員長(元?)で大統領諮問協議会(Wantimpres)のメンバーでもあるMA’RUF Amin師であるから考えものだ。
師はクリスマスを否定するのではないが、そのお祝いはイスラムもいる社会では余り派手は問題だとしている。信仰する教徒は少ないのにモール等がオーバーに宣伝する、イスラムはレバランでも静かに宗教生活を祝っていると言うのが文句の根拠である。イドル・アドハの時のインドネシア中に漂うカンビンの死臭には小生はこらえられないのであるが。。MUIはムスリムに対する宗教令であるFatwaを出す役目を負ってNUやムハマディア等が集まった官製機関で、彼はそのFatwa委員長である。
Fatwaの中に Fatwa WanitaとかFatwa Pekerja Perempuan di Kantorとか目についたがクリックするとウイルス・バスターが警報を出したので未だ読んではいない。後者はぜひ読んでみたいものである。

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2010年12月25日 (土)

最近のインドネシア日本を抜くか-あと20年

12月 
*首都圏投資促進地域構想、日イ(前原ーハッタ)覚書調印
*中部ジャワでテロの脅威、手製爆弾続発。 テロ指導者のメダンの銀行強盗首謀者逮捕
*バアシル師の拘置期間延長。 テロ組織の4人逮捕、師が銃器購入承諾
*今年のパーム製品輸出140億-150億ドルに到達の見込み、CPO価格の上昇でと商業副大臣。
*完全失業者数8月時点で832万人、失業率は7.14%で前回(2月)の7.41%からまた改善:統計局。
*今年のイ国民1人当たりGDPは3千ドル突破の見通し、3,016ドルとS&P。
*インドネシア版ウィキリークスともいえるウェブサイト「インドリークス」(www.indoleaks.org)
*来年の外国人観光客誘致目標730万-760万人:文化観光省。
*12/8 イ株価指数が最高記録更新3,769.993ポイント
*2輪車販売750万予測、昨年減の反動で28%アップ、自動車は6.9万台:年76万台か
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*スナヤン・トリカルヤ・スンパナ、3棟目のオフィスビル完成。(写真は1棟目)
*JX日鉱日石、MM2100で潤滑油製造会社設立へ、資本金2,820万ドル、アンダランが20%出資
*ネスレ・インドネシア、西ジャワに新工場建設計画、投資総額1億ドル、2015年完工予定。
*トヨタ自動織機、デンソー、豊田通商、MM2100でカーエアコン用コンプレッサー製造会社設立へ。
*新政党法が国会で可決。国会議席獲得に要する最低得票率を2.5%から5%へなど。
*1992年第4号住宅法の改正で外国人の住宅所有について明記:国会と政府が合意。

11月
*今年の輸出1,500億ドル見込み:統計局。
*メラピ山噴火:噴煙が首都近くにまで接近。成田出発したJAL便も引き返す騒ぎ
*世銀のビジネス環境ランキング:イは183カ国/地域中121位(前年115位)。
*外国人労働者へのイ語習得義務再び、来年にも規定と教育省筋。
*ANA来年1/7から成田発8:40でジャカルタ着14:25、戻りはJKT発21:10で成田着翌朝の6:30。
*市中銀行の中銀(BI)への預け率5%から8%に引き上げ開始、銀行に流動性監視求められる。
*バクリー、東クタイで金属産業のための工業団地開発計画か、投資20億ドルとも。
*国営通信テルコム、カンボジアの通信会社買収でアセアン市場シェア拡張計画。
*首都の来年最賃15.38%増の129万ルピアに最終決定、賃金委の提案をほぼ倍驚きの声。
*今年の貧困者数3,100万人、総人口に対する貧困率13.3%:統計局。
*イ経済2030年までに日本超える:イは若者層が厚いことが理由と国家経済委員長
*ヴァラー(ロスチャイルド家投資会社)、計30億ドル投資計画。ブミ・リソーシーズ株25%、
ベラウ・コール株75%を取得後、ブミに社名変更してロンドンに上場。バクリーが株式43%保有。
*伊藤忠、中カリマンタンの石炭の物流インフラ整備に100億円以上投資の計画。
*LGエレクトロニクス・インドネシア、来年の売上は輸出と合わせて22億ドル、今年より13%増。
*アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)構想:環太平洋経済連携協定(TPP):イは慎重姿勢。
*スンダの竹楽器アンクルンもユネスコの無形文化遺産に。ワヤン、クリス、バティックに続く。
*国営製鉄クラカタウ、イ証取所に上場、6.63兆ルピア調達、資本総額20.3兆ルピアに拡大。

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2010年12月24日 (金)

BSDは60万本のGreen City

最近のジャカルタのモールは大規模かしており、単なるPrazaやMallから飛び立ちCityやVillageを名乗っているので、空間を広く取り木々を植えてGreen Cityを打ち出している。土地が高い日本ではこの余裕はない。
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SerpongにあるBSDは既に600,000本の植林を行っているようだ。ここは総面積が6,000ヘクタールと、
フランス首都パリの面積の半分とか、そこにある公園も規模違う。2004年開発のTaman Kota Iは2.4ha、2006年に出来たTaman Kota IIは2haの池を含んで9haもある。
ここへの自動車のアクセスは渋滞知らずでポンドクインダーとの間、及びKebon Jeruk間があり、また二つの計画も動いている。その二つはスカルノ・ハッタ飛行場との間と Tiga Raksaとの間の高速である。
あのSinar MasがやっているがMas好きのグループだと思っていたが今は感心している。

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2010年12月23日 (木)

Batavia百年1915(8) 中心地は緑濃きレイスウエイク

「Rijswijk(米の町)はノルトウェイク通りと並行している最もポピュラーな道でタナー・アバン通りにつながる。その端にハーモニークラブがある。美しいAsamの木々が傘のようになってつながる道には多くの住宅が皆又生い茂る木々が植わった庭に囲まれてつながっている。運河にそって蒸気を吐きながら電車が走っている。
この地区をGang Poolが横切りそこにオフイシャル旅行案内所がある。その東側に法務省が建ち、その後ろに総督官邸がある。Rijswijk通りに添ってHotel der Nederlanderや 植民地内務省及び Grand Hotel de Javaがある。」

ハーモニークラブは1985年、壊されSetnegが建っているがこのSetnegとIstana Merdekの間をモナスから北上して突っ切る小さな道がGang Poolであった。運河添いのNederlander(Dharmanirmala)もGrand Java ホテルも既にプログした通りである。 写真はHotel Sriwijayaの前からSetnegの方角にVeteran通りを撮ったもの。
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現在もこの道はAsamの木なのだろうか Asamと言えばTamarindoの大木のはずで写真では小さい木である。Setnegの辺りは大きな木が残っている。
よく植物の名前などで二つ以上の名前を持つと何が何か分からなくなるがAsamとTamarinndoは同じもので大きな豆の鞘をぶら下げた奴である。インドネシアでもう一つ代表の木はWaringinであるがこちらもガシュマロやBanyanの名前がある、パンチャシラの象徴の木で気根があるやつである。 
葉が生い茂るとはインドネシア語でRindangであるが、これには有名なベルリンのUnter den Lindenを思い出したがこちらはライムの木で北ドイツの木(?)は熱帯のインドネシアにあるかどうかは調べていない。

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2010年12月22日 (水)

Balai kotaはどちら

バタビアの市庁舎は最初はファタヒラーにある現在のジャカルタ歴史博物館でCity Hallとか同じ意味のオランダ語でStadthuis、現地語でバライ・コタとも呼ばれる。バライ・コタ Balai Kotaと言えばモナスのムルデカスルタンの現在の市庁舎にある謂れのある建物も同じ名前で、こちらの方が新しい。バタビアの中心が南部に移ってきたのは、まず早くも1650年にはClemendt de Longheと言う人がバタビア市建設計画地図を作製したがこれが南部開発を提案した最初であるようだ。 そして18世紀になるとバタビア市の住民はより高地となる南に向かって移動し、1809年頃ダーンデルス提督が城壁を破壊し、ウエルトフレーデン宮殿建設に着手した。 バライ・コタとしてはファタヒラーの方が、最後は西ジャワ州政府の事務所として1942年まで使用されたが、1905年にStadt Batvia市制になってから1913年に市役所はAbdul Muis No.35 に移転、更に1919年にMerdeka Selatan 8-9に移転した。Abbalai_kota_may_09

現在の市庁舎の横に残されたWoonhuis風/或いはTuscan風建物は、Gedung Balai Kotaと呼ばれるがここがNo.8 で当時の市長の事務所であった。 1850年頃の植民政府は地方にResident(弁務官?)を置き、行政、裁判等行わせた。Javaに17のResidentが指名されBataviaにもここにResidentが執務したのである。主たる市行政の事務所があったNo.9の 建物が壊され24階建ての市役所ビルが完成したのは1974年である。

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2010年12月20日 (月)

ジャカルタ ショッピング センターの名称

インドネシア景気の好循環に支えられた中間層の強い消費意欲でジャカルタはショッピング・モールと趣向を凝らしたレストランの花盛りである。リストを作成してみたら255モールにも達した。 昔はPasarがショッピングのスポットであった。 代表はPasar Baru。日本人にはPasar Santa,Majestik,Cikiniの時代もあったが80年代には早くもRatu PlazaやGlodokなどPlazaが現れた。その次がMallで今はSquareが多く、更にCityから次の個性的名称を模索しているようだ。 その間にシンガポール等中国系の「中心」のCenterのバラエティ Trade Center、ITC、WTC、Pusatなどなども多く出てきた。
数えて見たら Plaza とMallが代表格で51ずつ、Squareも既に23を数えるほどになった。 
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この文章(リスト)はいつも高速から見るカラフルなスクウエアーで、仲々シャッターチャンスに恵まれない(失敗する)BekasiのSquareを書きたくて作成した。 DeveloperはPT Kilap Pro¬pertindo、社長はDjoni Hasjim、カナダの大学を卒業後、豪州不動産会社のCEO迄勤めたプロでバリでも展開中の53歳、ジャカルタから離れたhinterlandの成否が注目される。このプロジェクト計画ではアパートとホテルを併設する事になっているがやはり未だのようだ。Carrefour の他にBioskop 21映画館と Amazoneゲームセンターがあるようだが、まだ中に入った訳ではないので様子はわからない。

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2010年12月19日 (日)

インドネシア官吏の仕事ぶり

インドネシア公務員の幹部の任期は大統領、国会議員等の任期5年に横並ぶ5年が多いように見える。この5年は結構約束された年数でその間に縦横に権限を振るうことが出来る。その為多くの規則が再発行されそこに署名して自分の権限の基礎作りに励む事になる。そのように見えるのはそれら規則を読んでいるときに意味のない形式主義に振り回される悔しさからの感想である。ある規則に添付されたガイドもそうであるが、取り上げた内容は基本的に変わらないものを形式的語句の補充にの為、例示の会社名、時期、金額を少しずつ変えている程度である。その会社名であるが最初の出てくる会社名をPT.CeriaからPT.Bagusに変えただけで後は同じ名前を踏襲した。ちょっとふざけた仕事ぶりであるが、インドネシア語の勉強になるかも知れないので紹介すると、
PT.Ceria(PT.Bagusに変更)
PT.Cantik
PT.Cerdik
PT.Pandai
PT Perangi
PT.Bintang
PT.Aman
PT.Bahagia
PT.Damai
PT.Sentosa
それではどんな名前を使ったら良いか対案を出せと言われたら、アイデアはない。

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2010年12月18日 (土)

タイヤのNursalim親娘

Cherie NursalimはGITI グループのエクゼクティブ ディレクターである。父親はこのガジャ・トゥンガルグループの創始であるSjamsul Nursalim で42歳。
彼女は健康・環境・社会正義を掲げる財団に献身的に貢献しており、Forbes誌により、アジアの慈善英雄48に選ばれている。United in Diversityを通じ、車いす配布、奨学金支給、災害救助のキャンペーンを企画、夫Dr Enki Tanと世界慈善サークルにも参加している。
Sjamsul Nursalimは1998年の金融危機のときグループの銀行(BDNI)の債務救済に3百万ドルの政府の流動性支援(BLBI)を受け、その後その返済で横領があったと訴えられていたが、個人資産で返済済として無罪となった。(収賄の検事が逮捕されたが)
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Gajah Tunggalは世界第12位のタイヤメーカーでそのキャパは自動車用で3万本、二輪車用で6万本(いずれも日量)である。Michelinグループの生産契約、国内50社のディーラーを有し、海外100ケ国に輸出している。リテールはMitra Adi Perkasaが担当している。
又彼は石炭鉱山会社Bukit Baiduri Energyを持って居り、これが彼を以前に比べリッチにしているといわれ、
彼は2009年インドネシアで第27位、$507百万の大富豪として健在である。現在68歳、会社は1951年に創設している、現在の社長はChan Siew Choong、売上げ6兆ルピア、本社はHayam Wuruk No.8の逆さピラミッド風ビル、電話386-1391である。
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スンダクラパの昔の造船書跡地は彼が整備し保存している。ここのカフェはぞくぞくして冷たかったのを覚えている。

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2010年12月16日 (木)

ここにあったかGrand Jawa Hotel

バタヴィア百年シリーズでウエルトフレーデンのいくつかのホテル名が出てきたが、この中にGrand Hotel Jawaがあった。Collectie_tropenmuseum_het_grand_ho


小生は解説でSetnegとの間にPool小路がありそのあたりと片付けていたが、これは間違いで本当はもっと東よりの現在のスリウイ^ジャワホテルの手前で宮殿横のJl.Veteran IIIとの中間点にあった。Hotelとしては古く1834年オープンであるがこのホテル敷地は運河添いのRijswijkレイスウェイクからモナス側のKoningspleinに突き抜ける長いもので広場の風が心地よく吹き抜けるPavillion形式のホテルであったらしい。 ゲストも旅行者より長期滞在者が多く、為に旅行記などで取り上げられることも少なく名前の割に有名ではなかった。 インドネシアが独立後この敷地は南側が内務省ビルに北側は国軍の土地となった。この国軍の土地も広くグランド・ジャワホテルの敷地からスリウィージャヤホテルの間は縦にモナス側までを占めておりこのモナス側にはスディルマン将軍の銅像も建つ陸軍本部であるが北側はTaqwa館等はあるが軍らしいものはない。 又Hotel de Franceと言うのも上記旅行案内に出てきたが、これはどこか判らない。残った者同士紐付けるとこちらはSriwijaya Hotelの前身Hotel du Lion d‘Orかもしれない。
写真はTropenmuseum所蔵より借用

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2010年12月15日 (水)

フランス大使館一世風靡のインドネシア建築

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タムリンの大通りにありながら横を向いているので気がつかないがサリーナデパートの横の通りにあるのはフランス大使館である。その隣は何かと思いだそうとしても仲々思い出せないのはフランス大使館のせいだろうか BIIビルである。 そう言えば英国もドイツも横を向いているので位置関係を頭に描ける人は少ないかもしれない。そのようにここタムリンには日英独仏4ケ国の大国の大使館がある。イタリヤはといえば少し離れたデポネゴロ通りである。
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この大使館は1975年建築故小ぶりであるが、オランダ亡き後のインドネシア建築第1~2世代のインドネシア建築家Sujudiの設計である。彼はASEAN事務局ビルやマンガラワナ・バクティ博物館も手掛けている。どれも窓が奥目か小ぶりで、コンクリート壁で暑気を遮断する印象を受ける。
ちょっと昔ここを訪ねた時守衛はフランス人の大らかさを感じさせ、小生が尋ねたスペイン大使館の所在地を指差してくれた。

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2010年12月14日 (火)

じょんがらの国際貢献

細川たかしと香西かおりのジョイント公演を明治座に見に行った。芝居と歌の3部作であるが3部のヒットパレード、中でも津軽三味線9連打と6組和太鼓、渺々と吠える尺八の競演の中、望郷じょんがら節の熱唱に素直に手が痛くなるほど拍手を送り続けた。Abimg


劇中の劇の日本舞いやいなせな振付にもこれこそ外国旅行者に見せたい気がして何度も見まわしたが周りは高貴高齢者ばかりである。 帰り際掴んだパンフレットにこの公演の海外公演の案内があった。進出先は 台北であるが、それに「トラベル日本」旅行社がそのチケット付きの3泊旅行を組み合わせているものであった。 今回原田直之、小杉真貴子、大川竜之介の共演もあったが、津軽三味線、和太鼓、尺八の出来栄えには舌を巻いた。ぜひ彼らも随行してほしい。 更に欲を言えばマスゲームでごまかす北朝鮮にもぜひ出掛けて、日本人のごまかしのない一人ひとりの技術の素晴らしさを訴えてほしいものだ。 師と仰ぐ三橋美智也の遺影の前の二人の熱唱も又小生に力を与えた。念の為書いておくと、達者でな、古城、あの娘が泣いてる波止場、夕焼けとんび、赤い夕陽の故郷、星屑の街、リンゴ村から、哀愁列車、どれも慈恵にあるかなと思いがよぎった。 良いことには後押しする主義でこの格安ツアー(98,000円)の電話番号は03-3574-8194をメモしておこう。

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2010年12月13日 (月)

DEPERDATAMがBAPETENに

先日の忘却ジャカルタ忘年会で少し話題となった昔の工業省であるが、今日お二人の先輩コンサルタントの記憶からその所在地を突き詰める事が出来た。
安東コンサルタントによると工業省の横の道を約半キロ位行ったところの道路の左手に、消防署が有って、消防車の納入の事で、よくSukuma署長のところに通った事、思い出されたそうで、小生がこれではないかと送った写真の中の1枚の、Badan Tenaga Nuklir(原子力庁?)の建物が、何だか昔の工業省のガジャマダ通りに接した玄間部分(奥に向かって建物が伸びていたような記憶あり)のようなとの事で、又広沢コンサルタントも昔の地図を送って来て頂き、それには工業省はHasym Ashari道路に面した角にあったようになっています。広沢さんによると、昔はDepartemen Perindustrian Dasar dan Pertambanganが正式名称で、略称DEPERDATAMと呼んでいたそうで、つまり1960年代当時の工業省の正式名称は、基幹工業・鉱業省で、その後、鉱業省は分離して、Merdeka Selatanにオフィスを構え、工業省もガトット・スブロトに移ったそうです。
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但しこの角地には現在Lion Airが入居しているビルがあるが、そのとなりが昔の名残を残した玄関部分で少し離れて後ろにBAPETENと表示された本館がある。BAPETENとはBadan Pengawas Tenaga Nuklir Nsional 国家原子力庁である。本館は写真ではかすかに見える横に縞模様のあるビルである。念の為JJCのハンドブックを調べたら住所がJl.Kuningan Baratとなっていた。そのような住所名はおかしいが、また調べる必要がある。レストランJun Njanの話もあったが、それはGaja Tungggalの逆さピラミッドの所に出てくるBatu Ceperにあり漢字では永源であるようだ。

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2010年12月11日 (土)

シンガポールの牛車水のひと時

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どうしてこんなに天気がいいのだろう。午前中のセントーサ島のあとホテルに戻り又チャイナタウンに出かけた。
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正月用のお土産なども買い、昼食に道路にはみ出したレストランで蟹は歯を痛めるのでバンブーシェルにタイガービールを傾ける。青空とショッピング街の邸宅風建物が色鮮やかだ。その一角に古い家があり、牛車水と言う本も棚に並んでいたのでそのような華僑の成功物語を記念するものかと会話するも通ぜぬままそれはチャイナタウンの歴史博物館であること、牛車水とは昔チャイナタウン周辺で牛に車を曳かせ水を売っていた事に由来する言葉で、現在のシンガポールのチャイナタウンの事を言う事が判った。確かに帰りの地下鉄で見ると駅名がそうなっている。博物館には中国語の本しかなく仕方なくプラステックに写した古い写真のキパスを買ってきた。「活気にあふれた倉庫群と列をなすはしけと船員たちの風景は1900年代の初期のシンガポールリバーの追想である。」とある。そうして小生は又先週末のシンガポールのひと時を反芻、追想している。

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2010年12月10日 (金)

KKOは生きている

レストラン AMPERAとレストラン Bandar Bataviaをブログにしたがこの二つをつなぐ道がある。レストラン・Amperaがある訳ではないがクマンから南下する道がAMPERA RAYA通りでこれが南のチランダックにはいる所からJl. KKOとなりそのNo.22にレストラン Bandar Bataviaがある訳でブログの話題がつながっただけである。
所でこのKKOと言うのはよく目にするが元ジャカルタ市長のアリ・サディキン氏もKKO中将であり、スカルノ時代マレーシア対決作戦でシンガポールに侵入しマクドナルドを爆破し銃殺された爆弾三勇士もKKOの作戦である。
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つまりKKOとはインドネシアの海兵隊である。インドネシアの海兵隊はKorps Marinirと言われTNI海軍の一つの主力司令部(Kotama:Komando Utamaで海軍の組織である。他の主力にKoarmatim(東部艦隊), Koarmabar(西部艦隊)等がある。
Korps Marinirの由来は1945年11月15日に遡る。初代司令官はAgoes Soebektiで、この日が海兵隊の記念日となっている。 1948年この部隊はKorps Komando Angkatan Laut (KKO AL)と呼称されたが1975年にKorps Marinirが正式名称となった。 ゲシュタプ9.30事件の際、ルバン・ブアヤの穴から犠牲となった7将軍を掘り出したのも海兵隊でスハルト崩壊時街の治安にあたったのも海兵隊であるが又農民銃殺Alastlogo事件等も起こしている。本部はKwitangのGunung Agung書店の前で、3旅団(Brigade)、3大隊(Batalyon)編成でその一つがここCilandakにあるのである。

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2010年12月 8日 (水)

空に幸せの丸い虹

月曜日帰国の日、殆ど2年ぶりの友人とゴルフすることが出来た。 養生2年で酒もたばこもやめ、ゴルフには復活すると言う、ブランクを感じさせないシャープなアイアンの切れ味を見せた。空は晴れ、ゴルフ場は月曜日の為ガラ隙で、体調半分の二人のカートに、流れる風は心地よい。 スコアは別にして充実した心と体にはビールがうまい。 夕方ひと雨あったが零時過ぎ飛び立った時の眼下はジャカルタの街の灯が広がっていた。うとろうとろで空は明け泥んでくる。 
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日本は今日は雨だと機内放送があったが、その厚い雲海を太陽がさし、丸い虹の輪がかかった。輪の中に何やら黒い影が見えるので、眼を凝らしているとそれは飛んでいるこの飛行機の機体の影であることが判った。 降りた成田は晩秋の太陽がさし、今日もすがすがしい天候である。

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2010年12月 7日 (火)

恥さらす日本人 JKT-NRT

この10日間で3回もスカルノハッタ出発ターミナル内のヌードルバーに現れたので店員もびっくりかと思いきや此処の人達は当然といえば当然であるが人の名前を覚えるのは得意ではない。さて今日はどうなるか。
Garudaの搭乗率は6割程度か、その中でインドネシア人が5割を占めていた。
成田に着いた時後部コンパートの小生のターミナル・モノレールは2台目であったがここでは50人中日本人は5人程度だったろうか。 先に成田の事を書くと、この時間9時半過ぎは、入国審査に並んだ日本人は小生1人、手荷物は既に出ており、ガラガラである。検査官も小生一人なので質問等しやがる。1台目のモノレールに乗り遅れたと言うたったそれだけでの閑散さであった。ジャカルタ出発は23時50分であるが搭乗開始は23時20分と言うので早めに入って待ったが誰かえらい人を待つようでなかなか始まらない。当日他の事の提案もあり、お客には早く集まれと言うがいつも遅れるとクレームを付けておいたが案の定50分ごろ足早に来た人がいたが制服から判断してどうも機長であったようだ。このような遅れの原因は初めてであった。
この便には日本の添乗員も一人乗っており流暢な日本語で出発が遅れた事を謝罪していた。到着時もこの人は到着が15分遅れたことを謝っていた。かなり出来る日本人をスカウトしたようだ。今回もお顔を拝む事が出来なかく残念なことであった。提案したと言うのは携帯の使用である。先般シンガポールからの機内ではインドネシア人や中国人が5~6人も機内で携帯をやっていたのを苦々しく見たので、不使用を徹底するようお願したことであったが、今回はチワ話を繰り広げるおっさんや携帯の呼び出し音で目が覚める女、二人とも日本人であった。

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2010年12月 5日 (日)

Cilandak のBandar Bataviaとゴルフ

チランダックの国軍のミュージアムを訪ねた時、これがそうかなと思うほど大きくて風情のある施設を見つけた。左手には古いバナナ葺き屋根のポンドク風レストラン正面に大きなクラブハウスを構えたゴルフ練習場であった。 
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来るまでは大変かもしれないが来ると大きく自由な駐車場もあり、のんびりできそうだ。 そしてついその日の夜、ブロックMのレストラン「遊蔵」でここの割引宣伝クーポンにお目にかかった。 大きくBadara Bataviaと書いてある。 そうだこの施設の名前がそうなのである。そのクーポンには「Bandar Bataviaに 火の蔵メニューが新登場、焼き肉・海鮮を炭火で楽しんで頂けます。」とある。遊蔵との関係がありそうであるが、未だ聞きそびれている。 焼き肉は88,000と95,000ルピアで場所は Cilandak KKO No.22、電話 TEL021-7829921である。

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2010年12月 4日 (土)

幸せのセントーサ

久しぶりのセントーサであったが、タクシーで15分程度で行けるとは夢思わなかった。昔の記憶がないがあのケーブルだけ写真でもおなじみであったが、今やブリッジもあり、モノレールも走っていいるので市内と変わらないのだ。島の中は無料の遊覧バスが縦横に利用でき、このモノレールまで無料である。 街の人々は親切でタクシーの運ちゃんと喋りながら観光もでき、観光客誘致もここまで来ると本物である。シンガポール陥落の降伏文書に調印させている山下将軍だったかかその絵を見に行くためで、あと英軍が守ったシロソ砦もコースにあったがシロソはホテル建設中で近ずけなく、
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イメージ オフ シンガポール歴史博物館は時間切れで諦めた。人々の記憶には山下などとっくにない様である。 JKT-SPRはガルーダのドル箱路線であるはずだが、距離が短い為シティジェットで小さく満席である。通路が一つなので席に全員が着くまで30分はかかる渋滞である。チキンマカロニは頂けないし、着陸後のジャカルタはバスに乗らされ、ここはジョグジャに着いたかと思った。

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2010年12月 2日 (木)

バタビア1930 (6) ジャティネガラへ

今日は3回目のバタビア コタ・トゥアーである。
「同じように朝早く蒸気機関車のトラムに乗って一番遠いMeester Cornelis で降り、Buitenzorgに向かう駅のBidara Tjinaへの道を1時間ほど歩く。大樹がおい茂り涼しい道路である。それからぐるりと回る道のMeester Cornelisの小さな町を通って電車駅に戻ってくる」

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読むとたったこれだけの紹介であった。Meester Cornelisとは今のJatinegaraでBidara Cinaという地域名は今もありジャティネガラより少し南のOTISTA通りのSt.Antoniusの北の地区である。ここまで行ったと言うので多分このプロテスタントの教会以外訪問すべき所はないように見える。ジャティネガラはGreja Koinoniaを起点としターミナルを終点とした東西の道で囲まれた縦楕円形の地区でBALIMESTER郡と呼ばれ、その中心にパッサール・ジャティネガラ(Pasar Mester)がある中国人の街である。何故ここの飛び地にまで電車道があったのかは多分バタビア城市の昔から軍の拠点であったからであろう。
この地は1661年にバンダ島からやってきたクリスチアンの宣教師のCornelisと言う人が
Jatiの木の土地を開いたことから敬称を付けてMeester Cornelisと言う地域の名前になった。その後衛星都市として発展したこの地は1924年にKebayoran、Bekasi、Cikarangと共に4つの県の一つになった。Jatinegaraと呼ばれるようになったのは日本が占領した時にオランダの名称を全て捨てさせたからである。ただMesterと言うのは残ってしまった。

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2010年12月 1日 (水)

全部のメニュー

スノパティのファッション化しているスノパティにZenbuなるレストランが開店していた。名前から日本料理店であるが、これはこちらのクトゥルナンがやっている店でこの10月にはプラザインドネシアに5店目もオープンした。
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日本のレストランを現代都会風且つインドネシア人に合うようモディファイしたそうであるが メニュにはカロリー表示もありシェフと向かい合う鉄板焼きのカウンターからオムライス、寿司、麺類から酒肴まで全部ある所が店の名前になっているようで少し日本語が頓珍漢な所があるがメニューに工夫を凝らした所を紹介すると
パチンコ、ビッグ・バン、バンザイ、六本木、トッティフルッティ、緑・クランチ、野菜ラーメン、ウナギ・もざる、カレー焼き飯、サーモン明太子、マグロ・チーズ、トビコトーフなど数多い。Deliveryは021-2992-3648である。

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