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2011年1月の投稿

2011年1月31日 (月)

カリブサールの最北端の英国商社

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カリブサール・バラットの最北端にはその昔Maclaine Watoson & Co.と言う英国の商社があった。,
同名の会社は現在も存在するも連続性は判らない。この会社は1825年に設立され、同世紀はインドネシアの砂糖を扱う有力な商社であり1880年代の砂糖価格の国際的崩壊にも耐えてゴム産業等にシフトして生き延びたが、それ以降は不明である。この古い写真はWoodbery Pageの1870年代の写真で右端がその一部が見える。前面は見える部分の3倍の幅で奥行きはその数倍である。
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この間写真を撮ったがイメージは大分違うが、位置的には現在のブロックと変わらない。この様な話に誰か興味を示す人がいるだろうか。

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2011年1月30日 (日)

Pulo Mas Golf Course と 競馬

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今日は掲題のゴルフ場に行ったが珍しく競馬をやっており閉鎖されていた。実は連絡があり、わかっていたはずで、16時スタートのつもりでいたのであるが、競馬は12時スタートで午後いっぱいかかるものであった。 連絡の内容はやるなら9時半までにという意味であったようだ。このゴルフ場はグリーン・ホース・ゴルフ・クラブという名前で競馬場のトラックの内側が9ホールのゴルフ場になっているもので内側と外側なので両立する筈でもあるが、競馬自体は月1回程度で、今まで数ケ月何度も行ったが競馬と鉢合わせになったのは初めてである。競馬は今日13回レースがあったそうで8頭くらいの馬が走っていたので100頭位全国から集まっている計算になる。競馬は大きく案内されているものでもなく小さめの観覧席に千人規模が集まっていた。一つだけ見たレースは3/4周走るもので目の前で騎手が落馬する事故付きであった。あいにくカメラのバッテリーが切れており写真は撮れなかったがこのトラックは厚めの砂なので(これが一般なのか知らないが)落馬しても大したことは無かろうがちゃんと後ろに救急車的車が伴走している周到さであった。このゴルフ場は最近少し手入れし、今日見たらレセプションの壁に掲げられていたゴルフ場の名前が消えていた。そういえば経営者が日本人からバリ人に変わっているようである。聞くとこの建物自体は立派なのでいずれホテルにするという。此処の地下1Fのロッカールームは鼻が曲がるので今度このバリ人にあったらホテルにも使えるSpaを作るようにアドバイスしよう。

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2011年1月28日 (金)

7つの罪源シリーズ2

残りの4つは以下の通り。
No.41《怠情》
擬人像は「怠惰」を象徴するロパの上で居眠り。悪魔が差し出す『枕」はこの罪源の属性(アトリピュート)。人間と獣(けだもの)が同じ「怠惰な国」の住人であるのは、他の罪源と同様、その行いが理性なき動物という諷刺である。背景の大きな人間の腕が「最後の審判」の時を告げる。


No。42《大食》
丸テープルに座す擬人像は「大食」を象徴する豚を従え、ビールを鯨飲。前景右の腹がはちきれてもむさぼり続ける魚、中景右で一輪車に自分のビール腹を乗せて移動する男など本能のまま暴飲暴食に走る姿の醜悪さが活写されている。


No.43《嫉妬》
擬人像は右手で心臓(妬みの心)を食べ、左手でこの罪源を象徴する七面鳥を指さす。日本の「二足のわらじ」という諺のように、当時の履物は人の生き方を象徴し、プーツを持つ人(金持ち)は羨望の対象となる。その気持ちは礼拝堂での隣人の立派な葬式にも及んでいる。

No.44《邪淫》
枯れ木の空洞の中で裸体の擬人像は「邪淫」を象徴するヒキガエルの愛撫を受け、その側では姦淫を犯した男が怪物の背に乗せられ、嘲笑を受ける。下絵素描ではこの男は司教帽を被るが、版画(No.45)では発行者コックが支配者スペイン当局の検閲を恐れ、無難な帽子に変えた。

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Wikiによると以下の英語名と対応悪魔があり又 比喩される動物の一つを参考に掲げると

傲慢 Pride Lucifer ライオン
嫉妬 Envy Leviathan 蛇
憤怒 Wrath Satan 龍、狼
怠惰 Sloth Belphegor 熊
強欲 Greed Mammon 狐
暴食    Gluttony Beelzebub 豚
色欲 Lust Asmodeus 蠍

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2011年1月27日 (木)

「七つの罪源」シリーズ 1

昨年夏ブリューゲル展に行ったとき入手したのであろうか 7つの大罪 の解説パンフが手元にあった。 展覧会でその絵は無かったようだ。買った本にも絵はがきにも載ってるのは無かったから別のものでイメージに近い絵を飾っておこう。
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「七つの罪源」すなわち傲慢、嫉妬、激怒、怠惰、貪欲、大食、邪淫は、「大罪」を誘発する罪の源ないし根である。中世では神への不敬を意味する傲慢が筆頭の罪源であつた。しかし飛躍的な経済成長を遂げた16世紀のアントワープでは、「傲慢」より「貪欲」、とくに金銭への貪欲がより嫌悪されたのではないだろうか。プリューゲリレの版画にもこのテーマが多く描かれている。各版画では中央に擬人像が位置し、その罪を象徴する動物を従えている。周囲では日常生活に関連する罪の行為が繰り広げられているが、多くは背景の幻想的な建物から激しく燃えさかる炎の煙が噴出し、罪を犯した人たちの運命が暗示される。本シリーズでは、ネーデルラントの先達の画家、ヒエロニムス・ボスの様式への接近が見られ、いたる所に奇怪で不気味な怪物や悪魔が描かれている。それは罪を犯す人間の行為が実に理性なき獣のようであり、いやそれ以下であることを寓意化しているのである。

No.38《貪欲》
中央にいる擬人像(ほとんどが女性像)は金袋に囲まれ満足気.隣の修道士風の怪物は穴のあいた壺で金を運び、後ろでは吝普な金貸しが貧しい人の衣服や食器を質草にする。「そこにハサミが掛かつている」というオランダ語の諺のように彼は強欲な商売人。大きなバックから落ちてくるお金を狙う男はスリに狙われている。

No.39《傲慢》
華やかに着飾つた擬人像は孔雀を従え、鏡に映る自分の顔を誇る。左前景では頭脚人間(グリロス)が指輪を口につけ、同様のポーズをとる。一方、エキゾチックで装飾過剰な建物の内部では、華やかな外観とは裏腹に焚刑が執行されている。

No.40《激怒》
擬人像はスカートとスリッパを履いている以外は完全武装をし、右手に剣、左手に松明を持つ。足元の熊は「激怒」を象徴する動物である。画面には当時のヨーロッパの過酷な戦いの日々を思わせ、無数の犠牲者の姿が見える。

じっくり読むため2回に分けよう。

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2011年1月26日 (水)

IMLEKの巡り

今年のIMLEKは2月3日である、昨年のカレンダーを見ると2月14日だったので11日間早まっている。IMLEKの陰暦と語源的に関係あるのか、いずれにしても365日の太陽暦と11日短い日数でめぐってくる。同じ陰暦のイスラム暦はこの11日の差を調整しないので33年掛かって太陽暦と丁度1年早くなる。これが積り積ってヒジュラ暦は太陽暦と600年規模の差があると言う。砂漠地帯のイスラムだからこれを気にしないのであろうが農耕民族の日中韓はこの差を毎3年毎に調整し、大体同じ季節に巡ってくるようにしている。
最近のIMLEKを見ると
2007年  2月18日
2008年  2月7日 11日前に
2009年  1月26日 11日前に
2010年  2月14日 19日追加(-11+30?)
2011年  2月3日 11日前に
2012年  1月23日 11日前
2013年  2月10日 18日追加(-11+30?)
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この調整計算は非常に難しいので上記の通りだと納得するのみであるが、幼い日々味わったであろう旧暦の生活感は最早何もない。 写真は開店前のJun Njan

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2011年1月23日 (日)

春節と永源 Jun Njan

もうすぐ春節だと言うのでショッピングモールなどは中国の紅色で染まっている。 日本に帰る人は月餅だったかか春節のおかしがいいだろう。今年は2月4日、中国暦で2562年という。日本の紀元は2600年よりずっと控えめだ。
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偶々グランドインドネシアで中華料理のJun Njanの前はこの通りである。Jun Njanは永源と書くが1956年にタンジュンプリオクに生まれた、ジャカルタでは老舗の中華料理店で 小生の時代はBatu Ceperの店に行ったものである。今は最新のモールには出店しているがBatu Ceperが本店の筈である。聞いたとこだけでも このグランドインドネシアの他エピセントラム、ガンダリア、ポンドク・インダー、クラパガディングがある。アダム・マリクが副大統領の時代に彼が作ったとのことでもあるが、真偽の程は確認できていない。

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2011年1月21日 (金)

Gedung INKOPPOL

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メンテンのはずれマトラマンに近い所のJl Tambakを通っていると少し古めの建物がある。看板にINKOPPOLとあるのでInduk Koperasi Polisiと判断出来る。
似た組織にInkopadと言うのがありこちらは陸軍の組織で、共に協同組合の本部であろう。 IndukというのがCenterなのかHeadquaterなのかは突き詰めてないが、インターネットでは殆ど解説めいたものはなく、Bekasiに同名のKompreksがある程度でなので本部という事にした。 このTambak通りはマンガライの水門を出てきた道でもあり、この左手がこのInkoppolで右側の方面に昔オバマ大統領が住んでいた家がある。

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2011年1月20日 (木)

人文学者エラスムスと画家ヒエロニムス

二日前のブログのエラスムスと7つの大罪は彼の著書「ヒエロニムス全集」と関係がありそうだ。7つの大罪と言うのはキリスト教の言う人間の罪の根源に傲慢、嫉妬、激怒、怠惰、強欲、暴食、色欲の7つの罪源があると言うことであるが、これを描いたヒエロニムス・ボスの「The Seven Deadly Sins」が有名である。エラスムスが1466年生まれ(1536年没)なので1450年頃生まれ(1516年没)のヒエロニムスとは20年の差であり、又エラスムスは幼少期をボスが生まれ、活躍した故郷ス・ヘルトーヘンボスで過ごしている。
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彼の作品はWeb「無為庵書窓」に詳しいが7つの大罪は1480年の作で、怒り、妬み、貪欲、大食、怠惰、欲望と誇りとある。所で人文学と言うのも判っているようで判らないので調べて見たら、fu-rai-bo.blogspot に次の言葉を見つけた。
「本書に解説を記している宮下士郎氏によれば、人文主義とは、古代ギリシャ・ローマの研究を通じて、人間存在や社会を、神ではなく人間の視点から見つめなおす動きであるという。それは、神を無視することを意味するのではない。人間存在は神の被造物であり、人間を探求することは神の働きを知ることと通じるとされていた。そうであるから、エラスムスの持つ人文主義者と神学者、司祭という立場は矛盾しないのである。「汝自身を知れ」というソクラテスの言葉は人文主義者の立場を良く示す言葉だと言える。」
まさに小生も7つの大罪をむき出しており、又愚者になるのを嫌っており、考えさせられるエラスムス・シリーズであった。

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2011年1月19日 (水)

タマリンドの効用


タマリンドの樹を訪ねてからの翌週 会社の女の子の机の上にゲソ焼きみたいなものがプラスティックの器にはいっているのがあり、Abp1180001
何だろうとよく見たら、なんとそれはタマリンドの実のお菓子であった。そういえばその娘は一人目を生んだばかりなのにもう妊娠していたので多分すっぱいものがほしいのであろう。最近は罰則がきびいいのでお医者もやってくれないという。
Tamarindは英語名でインドネシア語はAsam Jawa とかAsemとか色々名前がある。アフリカ原産で中近東からインド、東南アジア一帯に広まり南米、ヨーロッパにもあるが、それぞれの国で名前が違い、インドなど1国で10幾つにも及ぶ。
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学名はTamarindus Indica。偶々手にした雑誌にはAsamの薬用としての使い方が解説してあったが、Dema(天狗熱症状)、Gatal2 pada kulit 皮膚のかゆみ止め、Nyeri Haid 月経痛、Radang Payudara
腹部炎症, Rambut Rontok抜け毛防止などによいようだ。 

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2011年1月18日 (火)

オランダ文化会館 エラスムス・フイス

日蘭交流の最初の事蹟であるリーフデ号の船尾の像はエラスムスの像である。この像は長く日本の着物に身を包んだように見られていたがこれはキリスト教の司祭の服であったようだ。この像はオランダ神学者 デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus、1467~1536)である。彼と新教のマルティン・ルターとの論争は有名であるが、エラスムスはキリストに帰る事で神学が一致できると考えていただけで、ルターと反対する立場ではない。
若い時代の著作「格言集」はギリシア・ローマの古典などの格言はキリスト教の知恵と一体的なものであることを示す意欲の基に書かれている。ユートピアを著したトーマス・モアと親交を結びそのアイデアで書かれたものが『痴愚神礼讃』である。それは愚かさの象徴である痴愚女神が自らを褒め称える(礼讃)言葉を記したものであるが 智者・賢者よりも愚人たれとさとしているのであろうか。神への信仰のみが救われると主張している。
1516年に出版された『校訂版 新約聖書』(Novum Instrumentum) と9巻からなる『ヒエロニムス全集』はエラスムスの評価を決定付けるもので、特に『校訂版 新約聖書』の出版では初めてのギリシア語による新約聖書であったとの評価である。
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オランダ随一の神学・人文学者であるだけにジャカルタのオランダ文化会館はエラスムス・フイス(House)と名付けれて、小生も昔は会員になったりしたが、最近は頑丈な門塀構えになってしまってはいるのを躊躇してしまった。

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2011年1月17日 (月)

1月後半の 今日は何の日

1月 17 1948 レンヴィル協定  Perjanjian Renville  (停戦ラインの確定)
1995 阪神大地震
1月 18 2000 ワヒッド、ウイラントを解任
1778    クック、ハワイ諸島を発見
              1942    日独伊三国軍事同盟締結
              1969    東大安田講堂事件
1月 19 1948  国家防衛の日 オランダの第二次警察行動  
               1996   スマトラ沖でフェリー沈没150人強死亡
1999 アンボンでイスラムとキリスト教徒が衝突、45死亡
1月 20 1949    ニュデリーでアジア19ケ国、オランダ批判
              1958   日イが平和条約・賠償協定調印、賠償額$2.2億 
              1965   インドネシアが国連脱退 翌年9月復帰    
1985   ボロブドゥール寺院を爆弾破裂 
1月 21 1942    日本軍、バリトで蘭カテリナ機を撃墜、最初の交戦
1978 7新聞発禁へ(コンパス、シナールハラパン..)
1月 22 1967 スカルノからスハルトに権限移譲
1月 23 1947 メガワテ(1947) トゥトゥット(1949)誕生日
              1950     Westerling,Bandung でAPRA反乱
1999 アンボンの宗教抗争、発表より実際は50名多い
               2008   ニアスでマグネチュード6.1 地震と津波
1月 24 1946  人民治安軍(TKR)、共和国軍(TRI)に変更  
1908 Robert Baden-Powell ボーイスカウト発足Pramuka.
1月 25 1952 栄養と食べ物の日(Hari Gizi dan Makanan)
1955 国際らい病の日 Hari Kusta Sedunia

1月 26 1999 国会、公務員の政治活動禁止に合意  
              2001    スマトラ大地震
1949 ガルーダ創立記念日
1月 27 1930    国民参議院でフスニ・タムリンがオランダ攻撃    
               2008   スハルト死す  
               1981 Tampomas II号マカッサール沖で沈没、1054人中513人死亡
1月 28 1997  イリアンジャヤ州で部族間原始戦争     
              1999    国会、新選挙関連法案を可決
1973 ベトナム、和平協定発効
1月 29 1946  インドネシア国民党(PNI)結党 マングンサルコロ
               1960   オランダ系20社の国有化
1967  インドネシア国軍アカデミー(AKABRI)設立
               1947   マカッサルでWolter Mongisidi対オランダ攻撃
1月 30 2002 ジャカルタ大洪水
1948 マハトマガンジー暗殺さる
1月 31 1926  NU 創立、K.H.Asj'ari           
              1950     インドネシア連邦共和国憲法制定
31 1942 日本軍ジョホールバルー占領
ハビビ政権下、政治三法、政党・選挙・議会  
              株価インデックス最高記録 787         
              首都バスウエイー実施            
              バンドンで日本人殺害さる
ASEAN6ケ国内 及び対中国FTA
              イスラム布告:ヨガ、中絶、未成年婚、喫煙禁
              マジェネ沖、客船沈没250人絶望       
              日イ友好50周年記念友好祭   
              アダム航空スラウエシ沖で行方不明102人

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2011年1月15日 (土)

トク・ウマール通りもタマリンド通り

サム・ラトゥランギ通りのタマリンドをブログしてから、その通りの木は本当にタマリンドだったのか不安になった。一つは豆が見当たらないし樹の幹が馬鹿でかい気がしたからである。オランダ時代はタマリンドだったkも知れないが変わっているのではなかろうかと心配したわけである。今日行って見て確かにタマリンドであることを確認した。
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そこにはサム・ラトランギの銅像もあり、その家はボロボロだったので、それがどうだったかも気になっていたがその銅像も半崩壊の家も、タマリンドの巨木もそのままにあった。今週はクバヨランンなどでもタマリンドを探したが
今日までどこにも見当たらなかった。 ここに来るときすぐ手前のテウク・ウマール通りにも多くのタマリンドがあり、Abasam_jawa


実際は此処で葉の特徴となる豆の形状を確認したのであるが、写真では見にくいが葉も豆も小さく豆は7cmのソラマメ程度で落ちていた豆の実が何も赤くも無かった。 豆のさやが30センチ以上あるのはPetaiと言うのでこれと混同しやすい。 これも又探さなければならないが探そうと思うとなかなかできない。
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テウク・ウマールのKPAIという事務所の横の樹木も大き委がその辺の人に聞いても誰も樹の名前をしらない。
ブリンギンではないという。中にはPohon Karetの一種と片づける人もいた。
プテの実は焼いて食べたことがあるが後が臭くて大変だ。よくサンバルにいれるらしい。タマリンドはAsam Jawaと言われる通り酸味で生でも食できるが熟成させ調味料として使うようだ。

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2011年1月13日 (木)

PDIPは未だ38歳

3日ほど前の1月10日はPDIPの誕生38年記念日であった。
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38年前であるので1973年でスハルトの支配強化のためイスラムはPPPに、ゴルカールを別にした他の政党はPDIに集約された。 現在のPDIPはこのPDIのトップをめぐる政府介入により分離したもので本体はどこかへ行ってなくなった。SBYの政党は民主党であるがPDIではない。
この誕生日にはあのガユスもいるが別人で、党人としてはMega党首の他にPuan Maharani, Gayus Lumbun、Sabam Sirait、 Mauarar Sirait、 Tjahjo Kumolo等が参加、夫のTaufik Kiemasは病気だったらしい。
客人としてはゴルカールのAkbar Tanjung、ガリンドラのPrabowo Subianto、元憲法裁判所長Jimly Asshidiqie等が居た。そろそろ2014年に向かった政治の季節入りするのであろうか。今日もカレット・ブリッジの両サイドにPDIPの党旗が林立している。

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2011年1月11日 (火)

昔の国会はコンコルディア 軍人会館

現在のDPR/MPRの建物は1968年(少し前かもしれない)に完成したのであるが独立した1945年からそれまではどこであったか、何度も現在のDPRに行って聞きまわったが判らなく、知り合いの広沢コンサルタント聞いたら下の文章を送ってくれた。Alwi Shahab氏の文章である。
”Sedangkan gedung DPR-RIS maupun DPRS terletak di Lapangan Banteng, yang kini merupakan bagian dari Departemen Keuangan.
Letaknya di bagian kiri Depkeu berseberangan dengan Jalan Siliwangi, yang sekarang menjadi bagian Atrium Senen. Di Jalan Lapangan Banteng ketika itu terdapat trem listrik. Sekitar 1950-an dan awal 1960-an, para anggota DPR hanya beberapa orang yang memiliki mobil. Sebagian besar para wakilrakyat ini datang ke sidang-sidang naik trem atau becak. Gedung ini dibangun sejak masa Gubernur Jenderal Daendels (1811) dan bagian tempat DPR dijadikan tempat hiburan militer Concordia.”
DepkeuのKiriは昔の最高裁であり、Jl. Siliwangと言う道も地図に出ていないので、この文章では確信が持てなかったが最後の文章でDPR dijadikan ConcordiaをConcordia menjadi DPRと読めばConcordiaが昔の国会となる。
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それが半分判った段階で小生のブログ2008年12月8日に、このConcordiaは国会として使われていたが、現在のDPRが出来て取り壊された旨の自分の文章を発見した。自分ながらこれほど遠回りしたことに驚いている。

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2011年1月10日 (月)

インドネシア語 お詫び状サンプル

ガルーダの機内誌に乗っていた11月の事故に対するお詫び状を、サンプルとして残した。但し使う様な事はないのが望ましいが。。
Permohonan Maaf 深謝します。 (まず端的に謝るのが先)
Sehubungan dengan terjadinya gangguan pada IOC system  tanggal xx,yang mengakibatkan terjadinya pembatalan penerbangan
xx日IOC システムでの不具合で、結果フライトキャンセルの事故となった事に関連し

melalui kesenpatan ini manajemen dan seluruh karyawan Garuda Indonesia menyampaikan permohonan maaf yang sebesar-sebesar atas pembatalan
penerbangan yang terjadi, yang mengakibatkan ketidaklancaran dan ketidaknayamanan perjalan Bapak / Ibu para
この機会に、会社の経営陣及び全ての従業員はこの事故でお客さまにスムーズで安全な旅行とならなかった事に心からお詫び申し上げます。

Susuai langkah-langkah perbaikan yang kami laksanakan,
mulai tanggal 23m Novembr 2010, penerbangan Garuda Indonesia telah
berjalan normal kembali,dan kami mengharapkan kejadian serupa
tidak akan terjadi lagi pada masa-masa yang akan datang.

Segenap jajaran Garuda Indonesia saat ini terus melakukan
Upaya-upaya perbaikan dan peningkatan pelayanan, demi
kenyamanan Bapak / Ibu para pengguna jasa Garuda Indonesia.
その後の善後策
Demikian permohonan maaf ini kami sampaikan, dan kami
mengucapkan terima kasih atas pengertian dan kepercayaan
Bapak / Ibu untuk tetap terbang bersama Garuda Indonsia
結語:以上このお詫びをお届けしご理解とご信頼に深謝申し上げます。

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2011年1月 9日 (日)

Sam Ratulangi通りはタマリンド通り

バタヴィア観光案内に今のヴェテラン通りはAsam Jawaがおい繁った道路であったと書かれている。Asam JawaとはTamarindoの事である。所で当時この名前が道路につけられた道路が別にあった。
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チョクロアミノト通りからチキニ二向かうサム・ラトゥランギ通りである。サム・ラトゥランギの肖像のあるゆかりの家やゲーテ・インスティテュート等がある通りで、先はBopulo があった。オランダ語でNieuw Tamrindelaanと言う。Nieuwが付いているからこちらは新の方で古い方が別にあったのかも知れない。Abtamarinde


この木が何年もたつと木の周りが大きくなり根まで巻きつくようなたくましさがあるのであるが、この木でマメ科の果実を付けたり、道に落ちで路が赤く染まる様な所を見たことはない。 多分、Jawa なくAsam Belandaと2種類あるようで街路樹はAsam Belandaと言うのかもしれない。


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2011年1月 7日 (金)

正月明けのガルーダ成田線

正月明けの6日のジャカルタ行きの便は、やはり満席、ジャカルタに戻る家族連れとかも多い。ガルダの機体はやはり中近東向けの中古なのかいくら手直ししても痕跡は堂々とある。既にこれまでに指摘した通りトイレには禁煙の印はあるものの、タバコの灰皿があり、ビデオにも中近東に強い中国語やフランス語が多用されている。 映画ビデオ自身も日本語吹き替えは皆無、日本の映画などはこの間も見た「花みずき」で日本もそうだがガルダも手抜きをしている。機内入国審査は先の2回は何もなかったのであるが、今回は目的等聞かれた、 H+I席も何か聞かれていた。一つだけいいことは例の美人の日本人アテンダントがエコノミーの小生の通路を担当したことである。前回までは当然にエクゼキュティブ用だと思っていたが満席のエコノミーで、急の気圧変化の日本語案内もやらされたのでは大変である。 その程度の話だと思って今回もスムーズにジャカルタ入りが果たせると思っていたが最後は荷物でトラぶった。今回は27kgのバックでチェックイン時シルバーGFFでうまく入ったのであるが、それが理由かどうかは知らないが、ジャカルタで最後の最後まで出てこなかったのである。 近くにいた空港関係者らしき男に調べさせた所、どうにかバックにはチョークであちこちマークされ機内の寒いとこから飛行場の熱い所に移されていたためかびっしょり汗をかいたMyBagと会えた時は本当に安心した。

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2011年1月 5日 (水)

リーフデ号のエラスムス像

日蘭友好の最初の出会いはリーフデ号の大分臼杵湾漂着であったが、死に物狂いの漂着民を救ったのはその湾に浮かぶ小さな島 黒島の住民であった。この島は今では子孫の方々の誇りと努力でで立派な観光地になっている。オランダの皇太子も日本の皇太子もお礼に見えたこともある。そしてこの船が残して今に残るものがこの船の船尾についていた木造の人物の像である。この像はなぜか栃木県の佐野市の禅宗のお寺で子供のおもちゃみたいに扱われながらも保存され20世紀になってその写真をオランダの神父が見る所となり、調査した結果それが16世紀のオランダの大神学者・人文学者のエラスムスの像であることが判明したのである。
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そしてこのリーフデ号も建造時はエラスムス号と言う名前であったのである。一国との交流史が綿々と400年以上続いたのはオランダのみであるが、その国の大学者の木造が日本の手で残っていた事は大変なことである。この像は400周年記念事業でオランダに返す話もあったり、国宝になったこともあったりあやふやであるが現在、国の重要文化財として東京国立博物館に寄託されていると言うのが正しいようだ。エラスムスはロッテルダム大学の名称や、ジャカルタのオランダ文化会館の名称に使われている。
所が小生が昨年見に行った400年交流祈念事業の展覧会で買った1,500円の本には一昨日載せたリーフデ号の絵もなくエラスムスの言及もなかったので代わりに日本の広渡湖秀の1750年頃描いた船と1650年頃描いたブリューゲルの船を並べて見よう。

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2011年1月 4日 (火)

世界・日本・インドネシアの最大のモール

ガルーダの機内誌に世界のビッグモールが出ていたが又も中国とデュバイがトップにいる。中国のそれは売り場面積(Leasable Space)がなんと7.1百万スクウエアー・フイート(2,350店舗)にAmusterdam、Paris、Rome、Venice、Carribian、Egypt、Calforniaと言う名称で7ブロックに分けられ、25m高さの凱旋門や2kmの運河にゴンドラを浮かべたり巨大な施設を用意したが、驚くべし、たったの1%としか入居してないと言う。それに比べDubaiのそれは年間37百万の訪問客があると言う。中国のはNew South China Mallとのみ書いてありWebで検索しDongguangと判った。更に地図で調べると深釧と広州の間の東莞市であるが小生は聞いたことはない。Wikiによると人口は10百万、モールは659,612 m2 of leasable space and 892,000 m2 of total areaとあった。
上位にはバンコクやマニラにも500,000m2内外のモールがある。他の資料で見ると2位には又中国、北京のGolden Resources Mallで、3位がDubaiである。Dubaiは総面積では1,100,000m2で世界第一である。あの世界一高いタワーのある所だろう。
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この機内誌にはインドネシアはTaman Anggrek Mallが面積350,000平米、500店舗を最大としていた。なるほど7階建てとなると面積は広くなるので事実かもしれない。日本デパートを取ると最大は東武デパートの10万平米というから不思議と言うか不甲斐ない気もする。
最近は単体のモールでなくなったので何を持って最大というかであるが一つのプロジェクトとして民間が開発した生活空間の総開発費か総面積と言う事となるとインドネシアではBSDやクラパガディンだろうか。ポンドク・インダーも更なる開発でMega Cityとなる計画もあるようだ。
機内誌登場は:SM Megamall、Mall of Asia、City North EDSA (以上フィリピン何故に三つも、 Central World バンコク、West Edmonton Mallカナダ)
尚日本の横浜ランドマーク・タワーは日本一高いタワーで296m、床面積393,000m2、併設のランドマーク・プラザは170店舗、クイーズタワー等一帯の施設は壮大であろう。恥ずかしながら未だであるので今度見に行こう。
タマン・アングレックは最近訪問してなくいつも渋滞でいい写真がない。

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2011年1月 3日 (月)

リーフデ号とバタヴィア号

最初の日本とオランダの交流は1600年の大分臼杵湾に漂着したリーフデ号である。
リーフデ号は2年前にロッテルダムの商社が派遣した5隻の帆船の中の一つでマゼラン海峡から太平洋を横断してきたが長い航海中に僚船も失われ船員も8割が死亡、わずかに出発時の乗員110名の中、生存者24名が漂着したもので、この中に日本史にも名前を残すヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスがいた。
この船は木造300トンの帆船で漂着後 堺に廻航され、又徳川家康の命令で関東に向かったが又も暴風雨に襲われ浦賀に打ち上げられた時はもはや使用に耐えず、放棄せざるをえなかったと言う。
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VOC時代の難破船のリストがあるがこれによるとLiefde号は日本に捕獲され後日本近くで失われたとされた(Lost near Japan, after it was confiscated by the Japanese, in 1600)との記録があるが、僚船の記録は見当たらない。というか不明である。この船影が描かれた絵は有名であるのでアップしておこう。
このリストによるとVOC 時代で難破沈没した船は約700隻、1600年代100年でも約300隻がリストになっている。この中に「バタヴィア号の惨劇」として有名な、このブログでも紹介した事のあるBatavia号、 1200トン、300名乗員も Wrecked on the west coast of Australia on 04-06-1629として出ている。
僚船のリストアップがないので実際はもっとあるのかも知れない。100年で300隻なら1年で3隻故、何年か前のインドネシアと変わらないからである。

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2011年1月 2日 (日)

バタビア1930 (8) Berendrecht からシオン教会

正月2日は初荷、ここでもバタビア市内観光ガイドでもお送りしよう。

「ホテルを出てからモレンフリートの一つの橋を渡りBerendrechtアベニューを通ってニューチャーチにいく、その地域には大きな中国人のお祈りの家がある。そしてパッサール・バルーを過ぎてグヌン・サハリにでる。しばらく行って左手を北に取る。このJacatraの緑深い絵のような道路に添って下町に到達する。そこには1693年に遡る葡萄牙教会があり、裏庭には総督であったSwaerdecroonの墓が眠っている。そして帰りは又電車である。」

ホテルをデス・インデスとするとその前のモーレンフリート運河を越える橋はHasyim Ashariの先のアライトルース迄登った所でBatu Ceparに向かう道かもしれない。Abpasser_baroe_1820


その先はSamanhudiがグヌン・サハリまで行くのでBerendrechtアベニューとはそのどちらかであろう。 SamanhudiにはBasar Baruの裏側(表とも言える)の入口があり、その先に風見鶏が尖塔に飾ってあるGreja Ayamの大きな教会がある。写真は旨い具合にBatavia Passer Baroe 1820とあり左にGreja  Ayamが見える。Abbuddayana


この辺りで大通りから中に入ってJl. Lauze辺りを歩くと幾つも中国寺院があるがその中にKlenteng Sentiongと言うオランダ人居宅を寺院にした建物がある。そのあと、グヌング・サハリのJembatan Merahで左手に曲がりAbgreja_sion


今のPangerang Jayakarta通りに入りコタ駅近くのシオン教会に行く情景である。 この近くにエルヴェルフェルトの晒し首の像があり、戦前詩人の金子光晴が電車に乗って通り過ぎた散文詩を読んだ事がある。
帰りはこの電車で逆戻りのグヌン・サハリージュアンダーガジャマダと通って帰ったのであろうか或いはハヤムウルックを通ったのかも知れない。

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2011年1月 1日 (土)

悪夢も見るもんだ元旦の朗報

あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申しあげます。

12月30日、日本の領土・国防の悪夢を嘆いたその翌日、ロシアからはロシア外務省の次官が「日ロ両国に領土問題が両国の発展の障害になってはならないと発言、将来的平和的解決への道を示した。一方南北朝鮮半島の情勢は北朝鮮の労働新聞など3紙が、新年の共同社説で、「南北間の対決状態を一日も早く解消しなければいけない」と呼び掛けたようだ。 どちらも経済協力や支援が取引材料となるのは明らかであり、どこまで真意・誠意があるか不明である。強硬手段の後の甘言・懐柔は共産主義外交の常套手段であるが、日本はまじめでだまされやすい過去の評価のままに、ここは素直に受け取るべきであろう。悪夢が夢に代わり、無力も力となる。進む事である。神風は二度とは吹くまいし相手の強かさに負けない為には戦略を秘めて国家が出てゆく時ではある。一方小生事でAttglobalはきっちり零時で音信不通となった。インターネットは接続できたもののnishimi@indomalco.comは1月10日開通を待つことになる。その間はnishimi.kyo@gmail.comを使ってみようとトライしている。


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