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2011年2月20日 (日)

タンマラカの独立戦争

1945年独立宣言の時、タン・マラカは既に48歳或いは彼の出生の日が1894年とすると51歳である。
スカルノは44歳、ハッタ43歳よりも先輩で、シャフリル38歳が続くが青年グループはハエルル・サレー、スカルニが29歳、アダム・マリク28歳であった。宣言前日レンガスデン・クロックの拉致事件を起こした青年グループの指導者はタンマラカであった。レンガスデンクロック事件は独立宣言が日本軍の介入が出る前に実行でき、その後の独立戦争を戦い抜いた原動力となったと評価されている。その後上陸した英蘭軍との各地の戦い、スラバヤ英雄事件を経て、1946年2月のシャフリルの弱腰の対蘭交渉にタンマラカは人民戦線(Persatuan Perjuangan)を結成し即時完全独立を掲げ反対し、シャフリル内閣は総辞職した。  スカルノは人民戦線の主張を取り入れたシャフリルに再度組閣させたが人民戦線の反対は続いた。スカルノは幹部タンマラカ、スカルニ、ハエルル、アビクスノ、チョクロスヨノ、サユティ、ヤミンを逮捕した。その後6月28日シャフリル他3人の大臣が拉致される事件があり、スカルノは人民戦線のクーデターだとして7月3日には反政府系指導者を多数逮捕した(この7月3日事件はスカルノの政治劇とも) その後情勢は急展開シャフリルのリンガルジャティ 協定、シャリフディンのレンヴイル協定と進みそして本格共産党のムソが帰国したのである。ムソはすぐ共産党リーダーとなりハッタ内閣の挙国一致内閣に反対し対決した為、スカルノは1946年に逮捕したタン・マラカ 以下の全て(スバルジョ、イワ・クスマスマントリ、マリク等含め)を釈放し対抗せしめた。 ムソの起こしたマディウン事件ではハッタの国軍合理化反対の部隊も共産化しての反乱となったが中央軍のナスチオンやガットトスブロトが制圧し、その後、オランダの再度の警察行動もあったが国連、安保理の動きからハーグ円卓会議に向かっていく。
タン・マラカの死亡(兵士による射殺)も共産党反乱と国軍分裂のさなかの難しい時期にあった為であろうが今もって謎の様だ。何故か独立準備委員会や国民委員会の晴れ舞台には登場出来なかったが、それも欧州・アジアを股に掛けたインドネシアの紅はこべと言われた怪傑黒ずきん風の不気味さがあったからであろうか。

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