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2011年3月の投稿

2011年3月30日 (水)

様変わるカサブランカ通り

今年も不動産市場は活況を呈しているようだ。特にストラータ タイトルの売り上げが堅調でアグン・ポドモログルーブ、リッポーグループ、バクリーグループが先頭を走っている。ポドモロは一時Podomoro Cityの債務返済に窮していたようだが昨年11月に30%のIPOを行い、2.7兆の資金を得て、新たに3プロジェクトを視野にしている。新規プロジェクト名はGreen Lake、Green Permata Residences、及びGrand Tarumaが現在進行中のプロジェクト、即ちPodomoro City - Central Park、Senayan City、Gading Nias Residence、Festival City Link、Green Bay Pluit、The Lavande、Lindeteves Trade Center、Kuningan City、Thamrin Residence、及びBraga Walk Bandungに加わる。APGは創業40年、現在は創業者Anton Harimanの息子のTrihatma Harimanで彼の手法の一つがスーパーブロックであり又ジョイントを組んでやっている。Senayan Cityの相手はPanin BankのMuk’minAli Gunawanである。 
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Kuningan CityはそのオフイスビルがAXA TowerであるのでAsuransi AXAかも知れない。このKuninganのカサブランカ通りはCiptra Worldと高架の建設の中大渋滞であるが、これが済めば シンガポールのオーチャードロードになるもくろみで APGのKuningan Cityは大消費市場を形成する。 モールは建設中でこの85,000m2の中に237の商店が入居、大型店はLotte、Grammedia、ベスト電気が入る予定である。

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2011年3月28日 (月)

タバコからパームへ、上位は遥か

タバコを売却したサンプルナ家のPutra Sampoerna氏は未だインドネシア富豪の第6位であるがポストタバコの収入源はSampoerna Capitalの投資収益、その他TELKOM、不動産、プランテーションがある。プランテーションはSampoerna Argoとして上場しているので間違いなく、その内容としてはスマトラに178,770haの土地を保有しパーム5工場を保有している(キャパは395トン/時間)、Argo社の2010年上半期売上7,950億、利益1,300億とのこと。00hsbc_sampoerna_030

土地の面積にはびっくりするが、上には上があることが判った。サンプルナ社を使ってその論評の符合性を見ると、土地が220,000haでパームの生産は800,000トンである。 土地面積は符合するが上記の395を使うと 395x8時間x365日=1百万強になり符合しないものの正しいものとして使うと、まずサンプルナ以外のタバコ大手が皆進出している。サンプルナは800,000トンで7位、富豪1位のDjarumが120,000haで600,000トンで10位(但し500,000ha迄拡張計画)、富豪13位のGudang GaramはMakin Group の名前で350,000トン(総面積1.7百万haの内パームは120,000ha)のようだ。6位以上を遡って行くと 6:富豪5位Martua・Wilmar 900,000トン、5:富豪7位のSukanto Tanoto・Asian Agri1,000,000トン、4:Astra Argo 1,000,000トン、3:富豪3位のA.Salim・Indofood 1.3mil、2:Sime Darby 1.5milトン、そしてなんと第1位は富豪2位のEka Tjipta Widjajaの8,500,000トンなのである。 保有面積はいずれ調べるが千万ヘクタールとかに及びのではないだろうか もう90に近いが天国には持って行かれまいが飛散することはないのがうらめしい。 尚インドネシアCPOの輸出は年間15百万トン、金額150億ドルを稼いでマレーシアと一位を争っている。

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2011年3月27日 (日)

都会 緑の借景

過日、ワヒッド・ハシム通りを歩いていたとき あのBersih Sehatとレストラン緑があることを知り、改めて出かけてみた。
車に乗っていると、街路樹に遮られ気づかないで通り過ぎるかもしれないが、歩いているとそこは両隣の建物の間の奥にあり、全庭の片側はちょっとしゃれた屋台風レストランもある。奥の駐車場もズンズン進むとその2階がBersih Sehatである。Bersih Sehatと言えば1983年オープンしたマツサージ屋でマエスティックがまだ日本人の生活に欠かせないショッピングセンターであった当時から多くの日本人がお世話になった所である。そこには又
ちょっときれいなレストラン Midoriが併設されており、小生はむしろそちらの方にお世話になった。 緑は最初からあった訳でなく1994年ごろオープンで、ジャカルタ動乱前後そこのカウンターで安い鉄火巻きなどを食した思い出がある。
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2階は広々としており、街路に沿う全面ガラスの窓側に席をとると 圧倒的な緑の木立の中にきた錯覚に襲われる。よく見ると街路樹からその先の木々の緑が遠景にあり、立体感を与えてくれる。
今日のお客は8組ほどであったが、一人として日本人はいなくソファー式椅子のもたれながら、くつろいだが、日本の被災地の人々に申し訳なく家路に就いた。

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2011年3月24日 (木)

スラバヤ刑務所の庶民性

スラバヤ、ハウス・オブ・サンプルナに向かう道は幅の小さな道であったが、長い壁に何か落書きがあるなと思いながら通り過ぎる内に、これは刑務所であることが判った(運ちゃんの説明で)、原色の童話的風景は少しけばけばしいが人を和ませる。
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多分ここは古い刑務所かもしれない。塀の高さもそれほどでなく 飛び降りて直ぐに
貧しい商店が並んでいるので隠れ通すにはもってこいである。一方ジャカルタのチピナン刑務所は、歴史は古いながら近代的に整備され金属的冷たさで人を遮断する。
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刑務所は普通penjaraとかBuiとか言うが、受刑者のその後の社会復帰を考慮し刑務所なる言葉はご法度で社会復帰訓練所と言う意味のLPKを使わなければならない。かった安物の地図にはHouse of Sampoernaさえ出ていなかった。

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2011年3月23日 (水)

Batavia 百年 1915 (9)バタビアの名所 博物館

「博物館は象の家とも言われるがバタヴィア芸術科学ソサエティ図書館も兼ね世界的にも有名である。玄関前に象の像が立っているがこれは1871年にシャムの王がジャワに来た時のお土産である。この像の右側と左側にボルネオのバンジャルマシンのスルタンから奪った大砲が据え付けられている。
中庭を巡る建物にはジャワのアンチーク、手工芸品、武器、盾、装飾品、衣装、面、織物、編み物、楽器、船の模型、家の模型、金属工芸などがある。
宝物庫には金で作った王冠、盾、兜、たばこやシリーを飲む道具、宝石で飾られた小刀、クリス、その他スルタンや王族の金の手工芸品が展示されている。
この部屋には大きなココ・ドゥ・メール(今では海の神が保有する神秘の島にしか生えないと言われる伝説の双子の椰子)がある。その他に金や銀の宝飾のネックレース、イヤリング、髪結い、食器、チャンディからの発掘された像など、又他の部屋には仏教時代の神聖な道具、仏教やヒンドゥの彫像やレリーフがありギリシャの影響を受けたものもある。
図書館には全世界から集めた芸術と科学の書籍がある。毎日曜日、水曜日と土曜日には現地の人が集まり観光客に各地のコスチュームを見せてくれる。」

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ココドゥメールとは何だろう。あの像は今も立っているが、そうするとちょうど今年で140年経っていることになる。

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2011年3月22日 (火)

造幣局 PERUMPERURI の茅屋

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100%の日本人が目にする茅屋群がある。スディルマン通りからブロックエムに向かう時にアセアンセンターのトルノジョヨ通り向かい側、或いは検察庁のシシンガマンガラジャの向かい側である。5軒ほどの昔は立派な邸宅群が草むしているのである。
チランダックの貨幣印刷機博物館探訪で昔ここが貨幣の印刷所であったことは知っていたのでこの間、良く見て見ようと裏手に回ってみた。100%の日本人が行かないファラテハン通り側である。と、00p3200056


そこにはちゃんと入場門がありその奥には立派な建物が聳えていたのである。歴史を辿ると1952年のPN Percetakan Kebayoranである。現在は国家造幣会社 Perum Percetakan Uang Ri で略称PERUMPERURIプルムプルリと読むのか重厚さがない。昔ここで貨幣印刷していたと言う様な設備には見えない。現在の造幣工場はKawawangに移り立派な施設を誇っている。00gedung_peruri


そのWebsiteにここクバヨランの昔の建物の写真があったのでアップするが、これが入場門から界間見える建物であろうが、現在はリノベされそれほどの威容さはない。 守衛が出てきて写真を止められたので遠景しかない。もう造幣はやってないはずなのに写真する拒否するとは何かあやしさが残る場所であった。

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2011年3月21日 (月)

Balai Pustakaは古い国営企業

Global誌の最近号に躍進国営企業リストがあったがその下の方に赤字の企業としてBalai Pustakaがあった。同じ雑誌の切り抜きに以下の写真の解説があったので紹介する。

「Balai Pustakaと言えばインドネシアでのもっとも古い出版社である。00300pxcollectie_tropenmuseum_kiosk


オランダ政府が1908年に設立し、毎年350種の本を出版していた。それは他の出版されるインドネシア文学の中に反オランダ思想と対抗する為ジャワやスンダ、ムラユ語の本を出版するのが目的であった。或いはヨーロッパの文学にインドネシア人がアクセスできるようそれらの翻訳も手がけた。多くのインドネシアの作家の本も出版されたがなかんずく BPの1925年から1942年までの編集者であるNur Sultan Iskandarや、ベストセラーとなった「Siti Nurbayu」のミナンカバウの作家MarahRoseli、或いは「Salah Asuhan」のAbdul Muisを含み、彼らがBPの黄金時代を築いた。独立後、国有化されたが、他の民間出版社に太刀打ちできず政府は学校の教科書を出版することとさせた。国営印刷局Percetakan Negaraと共に試験用紙の印刷も担当した。」

Percetakan Negaraはつい最近ブログした。Abudul Muisも「Abdul Muis通りと国家英雄」でブログしたが彼も下積み時代BPの職員であった。現在のBPの所在は未だ付きとめてないのでBPのホームペイジ時から借用した。
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追記:この額縁写真からその後この所在地を 財務省のワヒディン・コンプレックスの奥のグヌン・サハリ通り側であることを知り2011年4月19日に訪問記を書いている。そして今日これはマトラマンのBunga通りに引っ越していたことを知った。2017年8月17日のブログを参照されたく。

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2011年3月19日 (土)

スラバヤとジャカルタのハウス オブ サンプルナ

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スラバヤでタバコのサンプルナの博物館に行ってきた。戻るとフォーブスの世界のビリオネアーにタバコのジャルムのBUDI HARTONO兄弟がインドネシアトップのビリオネアーとなっている報道が出ていた。サンプルナ家の現在のトップのPutra Sampoernaも大富豪で通常5位前後に居るのであるが、今回のリストには出ていない。タバコの売上ではグダン・ガラム社がトップでこの創始者は過って国家税収を担っていたと言うほどでありその息子ラフマン・ハリムもその息子SUSILO WONO WIDJOJO 氏も大富豪であるのでDjarumのHartono兄弟のこの地位は何となくしっくりこない。共通はいずれも華僑である。タバコのSampoerna社自体(Hanjaya Mandala Sampoerna tbk)は米国MBAのPutra氏の戦略で現在はその98%をPhilip Morris(PMI)に売却しており、残り2%が公開株であるのでこの中にPutra氏の株があるとは思えない。それでも大富豪であり得るのはその$50億と言われる売却代金の投資なのか、売却前から運営していたSamporna Capitalを中心とする事業があるからだ。
234Dji Sam Soeと小生の名前に近い為かしゃれたウイットに富む広告の為か小生は過ってサンプルナの愛好者であった。歴史を辿ると1913年華僑のLiem Seeng Teeが創業し1930年代にはクレテック手巻きタバコで財をなし、会社の名前も家族の名前もSampornaに改名し現在に受け継がれている。写真のHouse of Sampoernaは1862年建設の建物を1932年に買収しサンプルナ家の邸宅としていたものでこの両側にも建物があり全面を1枚に入れきれない。
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ジャカルタのSampoerna StrategiはポストタバコのHouse of Sampornaであろうか。

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2011年3月13日 (日)

そうだ スラバヤに行こう

ここ数年決断力が衰えたことを感じて反省してた所、2日前に見たTV HBO映画で、これといった目的はないまま、起こる事件にも淡々とやり過ごす男の生き方に何か共鳴することがあったのか、昨日目が覚めて突然スラバヤかスマランにいきたくなり、とるのもとりあえずスカルノハッタに向かった。 スマランは12時発で3時間もあり、スラバヤ葉10時発だったのでスラバヤにした。プロモ適用で140万程度、スラバヤ着11時20分、そこのトラベルビュローで00p3110076


ジュンバタン・メラーに近いHotel Ibisにし、タクシー 12.5万、20年ぶりのスラバヤはやはり近代的都市に生まれ変わっていたが、この辺りは多くのHeritageに囲まれ、これ以上の変化から守ってほしいと思われる昔のよさが残っていた。 べチャひきの呼び込む声にびっくりすることもあるが基本は悪い奴はすくないはずだ。のんびりしている人間が多いので此処にいたら相当又南洋ボケを満喫できるのではないかと思われた。
ホテルとスラバヤ出発時にパスポートを求められ、しまったと思ったが鞄の底に古いパスポートのコピーがあり、助かった。スラバヤのPoint Of Interestは記憶とタクシー運ちゃんに恵まれ、ジュンバタン・メラー辺り、英雄記念碑回り、トウンジャンガン・プラザ辺り、州知事レジデンス、マジャパヒットホテル、サンプルナー・ハウス、アンベルモスクや教会、クレンテンなども多くめぐることができた。最初のフライトをガルダ事務所に行って2時間はやめのチケットに切り替え(料金10万)、翌日の運ちゃんの半日めぐり30万、運ちゃんとの飯代10万、エアーポートタックス、4万x2、現金は以上で80万程度で終わった。スラバヤは2日とも3時ごろからかき曇り大雨となった。飛び出せばすぐ青空だと思ったが、昨日のジャワの雲は厚く全島に雲がかかった珍しい日であったと思われる。
帰りのフライト付記するとジャカルタからのフライトが大雨のためか遅れたため1時間遅れとなった。 こんなことをしたからの天罰だったのか、日本では大地震、明け方まで1睡もできず、携帯での安否確認やTVにかじりついたスラバヤの夜であった。 本当はブログなど書くべき日ではないと思うものの。。

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2011年3月10日 (木)

ERPとは

ジャカルタの交通渋滞の切り札(となるか?不明ながら)にERP (Electronic Road Pricing)と言うのがある。近くでは星港、香港でやっているようだが渋滞都心への車のアクセスに課金するやり方で車とゲートにセンサーで自動引き落とし機能を持たせる物の様である。 ジャカルタでは交通法等の法律改正が必要であり、又予算措置からニュースの割には中々進んでいない。最初の段階ではBlock M-Station、Jalan Gatot Subroto (from Brass-Senayan)、Rasuna Said-Tendean、 Tendean-Blok M-Pejomponganで,或いは3-1道路であったり、適用時間も概ね3-1と同じであったり、課金はRp12,500だとかのニュースはあるがどれも決ったものではない。
渋滞問題解消の基本は、交通規律の向上で、これには予算は要らない。インドネシアでは封建時代はだんまり反抗心、民主時代では権利の乱用がひどい為、交通規律が出来てない。どうせ渋滞で使えない1車線があるのならU-ターンを増やすとか、或いは高速チケット、ETCとか先にやることは多いはずである。
この交通課金システムの他、財務・経営IT 分野にもERT (Enterprise Resource Planning)や或いはインドネシアの再入国VISA(Exit Re-entry Permit)もERPと言う人もいるので一つではない事を知るべきである。

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2011年3月 9日 (水)

国家印刷局 Percetakan Negara

Pulomasからの帰りAchmad Yani通りからPramuka通りの北側の併行した通りにPercatakan Negaraと言う名前の通りを通ることにしている。 ここら辺りはPramuka GolfやRawasari Country Club、BPPK(保健省)、BPOM(薬品食品管理庁)、Blog(食糧庁)から刑務所迄あり、Abdsc01824


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中でも大きな敷地を有しているのが通りの名前になっているPercetakan Negara国家印刷局(Perum Percetakan Negara Republik Indonesia :PNRI)である。
現在は官報(Berira Negara :State Gazeete)や各省の発行物を一手に印刷している機関であるが民間のも請け負った営業体としてもやっているようだ。つまりはBUMN国営企業であり、全国にくまなく12の支店(Banda Aceh, Manado, Ambon, Jayapura, Biak, Manokwari, Merauke, Kupang, Bengkulu, Palu, Surabaya, Surakarta (eks. Lokananta)を張り巡らしている。 但しなぜKalimantanがないのかわからない。 
元を辿るとオランダ時代、それも1809年まで遡るらしい。
独立当初は紙幣の印刷もやっていたが、それは現在 Peruriといういわば造幣局が受け持っている。造幣局のほうが儲かっているかもしれない。

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2011年3月 8日 (火)

難しい略語Posyandu

Posyanduに関するニュースがあったが、この単語は身近に感ずるも難しい。
Pos+Layanan+Terpaduで云うならば共同サービス(保健)所で地方政府が運営する庶民の婦人に対する保健サービスを基本無料でやってくれる所らしい。病気の検査、子供の予防接種(Imunitas?)、家族計画、栄養(gizi)指導などを行う。全国に269,000ヶ所もあるそうでサービスを受けたい婦人は自分が払えるだけのお金でサービスを受けられるそうで、そんな立派な制度はオランダの遺産かも知れない。ついでに
KB=Keluarga Berencana=家族計画
TP PKK=Tim Penggerak Pemperdayaan & Kesejateraan Keluarga=家族救済安寧運動チーム
IVA tes=Inspeksi Visual dengan Asam Asetat+=子宮ガン検査

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2011年3月 7日 (月)

美容スパ Martha Tilaar

Bali Heritage とTaman Sari Royal Hertage(タマン・サリとムスティカ・ラトゥの秘術 )の他に忘れてならない高級美容スパにMartha Tilaarがある。全国各地に展開しているがジャカルタは7ケ所、高級消費財の出店地として参考になると思うので挙げて見るとPondok Indah、Wahid Hasyim、Cikini Raya、Tebet Raya、Springhill、Prapanca Raya、Rasna Saidである。Taman Sali はMustika Ratuの方が有名でWahid Hasyimの西側にあるが、Abdsc02222


同じく東側にこのMarth Tilaar の本店と思しき建物がある。
経営哲学は“Rupasampat Wahyabiantara”という内側の美を重んずる内外調和の美らしい。創業者はDr. Marta Tilaarである。 三つのグループ会社にわかれ総従業員は4,000人、ブランドにはBIOKOS、Sari Ayu
DEWI SRI SPA、JAMU GARDEN、ガルーダの機内ショッピング誌にインドネシアを見直すような美人を起用するなどコマーシャルは定評だ。彼女はインドネシアのPowerful 女性の第25位にランクされている。 Mustika Ratu 創業者はMooryati Soedibyo女史は12位にあり会社は上場し、日本を含め海外支店ももっているのでMustika Ratuの方が大きいようだ。
経営哲学は“Rupasampat Wahyabiantara”という内側の美を重んずる内外調和の美らしい。創業者はDr. Marta Tilaarである。 Sariayu


三つのグループ会社にわかれ総従業員は4,000人、ブランドにはBIOKOS、Sari Ayu
DEWI SRI SPA、JAMU GARDEN、ガルーダの機内ショッピング誌にインドネシアを見直すような美人を起用するなどコマーシャルは定評だ。彼女はインドネシアのPowerful 女性の第25位にランクされている。 Mustika Ratu 創業者はMooryati Soedibyo女史は12位にあり会社は上場し、日本を含め海外支店ももっているのでMustika Ratuの方が大きいようだ。

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2011年3月 6日 (日)

日本人が高校歴史教科書に

古い話で恐縮であるが(元々ブログ自体がそうだから。。)、日本占領時のプートラの支援指導者に日本人が居た、と言うのもこれは日本が作った組織だから当然だともいえるが、数カ月しかもたなかったGerakan 3Aの後、確かに日本軍は新しい組織を作る事を考えていた。広く民衆の運動とするため、よく知られた民族主義のアンパット、セレンカイに持ちかけ、スカルノがトップとして民衆の団結力を付ける運動として乗ってきたのがプートラだと言えるので、これら主として民間の日本人が起用されたものであろう。
4人は
1) Miyoshi 元領事
2) Taniguchi G(新聞社 Toindo Nippon)
3) Yamasaki (商人)
4) Akiyama(横浜銀行) である。
それにしても高校の歴史に出てくるとは、中国では考えられないだろう。
一昨日アップした教科書の写真の記事に出ている。

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2011年3月 4日 (金)

最も古いブックショップKolff

Kali Besarでも、Kali Besar Timurの北の端は行くこともないので荒れ放題である。ここにはあのバタビア吊橋を渡っていく事も出来る。車でも渡れることはつい最近判った。
この辺りがバナナ市場と言われていた所だと思う。ジャラン・コピからクニールに抜ける道がKali Besar Timur 3と言う通りである。この角に昔、オランダ時代最大のブックショップであるG.Kolff & Coという店があった所である。
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Kolff & Coは1848年に設立され。その時は今のピントゥ・ブサール・スラタンにあったそうで3度目の移転でこの地に移ったという。 場所を探して写真にアップしたのであるが中央右手が建物的には似ているが、場所的には左側の破壊された所のようだ。1894年にはJalan Juandaの繁華街に進出、20世紀に入るとジャワ中に支店を展開した。絵葉書の制作でも有名でコレクターのアイテムになっているそうだ。

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2011年3月 2日 (水)

プートラとジャワ奉公会は別物

昨日3月1日はプートラの日とジャワ奉公会が設置された日である。プートラが1943年、ジャワ奉公会が1944年で中学の歴史の教科書では以下の様に記されている。
00putera_4_japanese_4

「2.日本の方針とインドネシア国民運動組織の状況。
このようにしてインドネシアを占領した日本は 兄弟国としての政府の方針を宣伝、自らインドネシア民族の兄貴分と称じ又 神国日本とも称した。そのような訳で インドネシアヘの進攻はインドネシアを含む大東亜共栄圏を建設する保護者として看なす様求められた。従い始めは日本の占領がインドネシア民衆の同調を勝ち取った事自体 不思議ではない。更に日本の態度は その後 西洋の言葉と文化を禁止じ 西洋の本を抹殺する迄に 至った。反対にインドネシアの文化が尊重され インドネシア語が公用語ともなったものである。日本は兄貴分として認められるようインドネシア民族の心をつかむため努力した。共通の敵はイギリス、オランダ、アメリカであると知らされていた。この日本の方針は インドネシア民族にとっては 国家としての闘争力を強めるための機会として利用された。日本が作った組織にインドネシアの青年が参加していった事からもそう言える。日本によって作られた組織或いは運動は
a 三亜運動(Gerakan Tiga一A)
日本の占領時代 すべての政党は解散させられ そして新しい組織に編成し直された。最初の組織は1942年に作られた三亜運動でそのスローガンは『アジアの光り 日本、アジアの守護者日本、アジアの指導者 日本と言うもので サムスディンと鈴木が指導。目的は 日本を支援する精神を植え付けるものであったが 1943年には 成功せず崩壊した。
b. プートラ
民衆総力結集運動(Putera)1943年3月、プートラ運動が組織せられた。幹部は アンバット スランカイ(4人の指導者)として有名な スカルノ、ハッタ、デワントロとマンスールとであつた。
目的は日本への支援であったが インドネシアにとっては民族の主権を建設し独立へのへの闘争力を強化するべく民衆の精神力を鍛えるものと言われていた。
1944年には 日増しに日本の苦境が巌しくなるや このプートラは解散させられた。
c.ジャワ奉公会
これは全民衆に日本の力を崇拝させる為組織され 同盟軍に対抗する支援が求められた。」
とあるが、Putera(Pusat Tenaga Rakyat)はスカルノ・ハッタの民族団結力強化の期待と日本占領政府の本音がすれ違った為解散させられ、その代わりにジャワ奉公会が設置され、地方行政の末端までの社会団体の一本化を図ったがイスラムは例外とせざるを得なく、大きな力とはなりえなかった。今日は何の日も既に存在しない、記憶にもないものを挙げても余り意味はない。インドネシア人にとってはこれら日本製のものをうまく利用したという教訓を教えるものであろう。高校の教科書も章タイトルはHubungan dengan mobilitas Social dan Kesempatan Berpolitik としてより詳しく出ている。

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2011年3月 1日 (火)

何故インドネシアで神風が

道端の雑誌屋を覗いていたらすごい雑誌に出会った。Kamikazeと言う字が表紙に踊り、

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日の丸に神風の墨書の鉢巻きが特別付録についていると言うものだ。雑誌名はAngkasaで特別号であった。Angkasa (Sky)と言う雑誌はPT. Mediarona Dirgantara(空)と言う会社で退役軍人の空軍中将が二人トップにいる。


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グランド・インドネシアには神風と言う名前のレストランが店を開いている。日本で弟子入りしたインドネシア人が経営しており、日本のCrispyなkaraageが気に行ったらしい。メニューには鶏どんぶりやクレープ手巻き、焼き春雨とか独自メニューもあるが折り紙にあしらった零銭がデザインされている。

インドネシアは日本占領時にPetaで訓練されたインドネシア軍の中心になり独立か死かで戦ったからか神風には拒絶反応はないようだ。雑誌の編集者も色々批判もあるが神風はいつまでも生きている伝説になっており、忘れて行けない事はこのExcellencyを持ったのは超大国であると言うことだと結んでいる。

今日は1942年ジャワ海戦、日本軍のジャワ上陸の日で、神風が着想されたのは1944年10月のレイテ敗戦であるので今日話題にするのは少し早い。

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