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2011年4月の投稿

2011年4月30日 (土)

世界の飲食品大企業にまけるな

日本の友達にインドネシアのお菓子だと思ってオレオを持って帰って、差し上げたが、なぜか変な顔をされた。さてはこれは日本のものかも知れないと思って調べたところなんと24年も前からヤマザキ・ナビスコが売っているものだとわかった。
何たる浦島、なんたる無知。 
2日前も、それはいつまでもつまらない経理のチェックををして来たからだと思い当たったことがあった。 何歳になればインドネシアのスタッフのやった会計帳簿や固定資産台帳のチェックから開放されるのだろう。と愚痴ったばかりであった。
それはそうと、1週間前だったかインドネシアのお菓子メーカー、Garuda FoodのTudung グループを紹介したが、彼らの戦略もアジアでのネットワーク作りでM&A駆使して大企業を狙っている。アジアでプレゼンスが大きいのは以下の様である。
売上$mベースで、①位 Unilever 56438、②PepsiCo 39,474、③Kraft Food 37,241、④CocaCola 28,857、⑤Danone 17947、⑥General Mills 12,442、⑦Cadburry Schweppes 12,420、⑧Kellogg] 11,776、
アジアでは、台湾の⑪ Uni President 8,802、 ⑮位くらいかな Meiji 4,411、Nisshin 4,012 Yakult 3,058、 Ting Hsin 3,215、Lotteと続く。グリコ、森永等はリストにもなかったが 世界はどんどん変わっているのだ。

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2011年4月28日 (木)

Moojenの作品NillmijはPTPN?

Buddah Barの建物はP.A.J Moojenの作品であることを紹介したがその昔のブログは「PAJ MoojenのNillmijのGrandeur」と言うものであった。Nillmijは現在の国営保険会社Jayasrayaが引き継いだオランダ時代の保険会社でジャカルタのジュアンダ通りにも残っているが、このジャカルタとスラバヤのNillmijはMoojenの設計である。
ここでGrandeurと使ったが、実際はそれほどの事はなく実はこの並びの少し先の昔Koronial Bankと間違っていたものである。Koronial Bankは現在製糖会社PTPNが使っている。この間違いはどこから来たのであろうかネットでも取り囃やされたが、00nilmij_p3110105
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Moojenが設計したNillmijは絶対にこの写真の建物である。
場所はジュンパタンメラー橋の手前、この間泊まったホテルIbisの裏手側に回り込む掘割に沿った昔のWillemskadestraat (現在はJl.Jembatan Merah)通りである。古い写真では手前、隣との間に道があるようだが行った時は築かなかった。
NillmijはMoojenの設計で1910年、Kolonial BankはCP Wolff Schoemakerで1928年である。上記の間違いはNilmijの創立者がジャワバンクの総裁をやった人であったり、1997年からPTPN XがこのNilmijの建物の所有者となっているからである。Misteriusは未だ未だある。

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2011年4月25日 (月)

Buddah Barはギャラリーへ

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昨年ニュースを騒がしたあのBuddah Barの傍の道を1ケ月前通った時、政府の差押状がフェンスに大きく張り出されていたのを見た。Jln. Teuk Umar No.1で元々オランダ時代の傑作の建築物で、小生も「Kunstkringの変遷」で建築の博物館にしたらどうだとブログでつぶやいた所で独立後は長くイミグラシ・オフイスで使われていた。ジャカルタ政府自体も保存建築物と認定していた所であるのが事もあろうに仏陀をコマーシャルに使うバー(それも高級)になったので、反対運動も皆がうなずいた。4月になってみるニュースはDKIの観光局がここは美術品のギャラリーになるだろうと言っているもので、それはこの土地を購入してもその使用はギャラリー・博物館に制限すると言う意味かもしれない。元々オランダ時代もレストになっていた時代はあるので、小生はレストで構わないが、反対派は仏教軽蔑を問題にしていただけであるはずである。 ここまでこじれているのは只であった所有権の所為だとおもわれるがどうだろう。このテーマ関連はこれで6回目だ。
要約すると、元々ここはオランダの大設計家Moojenの手になるバタビア芸術センター(Kunstkring)であった。日本占領時は日本軍主導のイスラムの統合団体ミアイの本部になり、独立後イミグラシ、それからスハルト・ファミリーからDKI幹部(?)の手へ。
Boplo近くのKunstkringは何 2007年5月9日
バタビア芸術センターとバリ文化 2007年5月13日
Moojen、Pieter Adriaan Jacobus 2008年7月9日
PAJ MoojenのNillmijの Grandeur 2008年4月30日
Buddah Barは残念 2009年3月3日
Kunstkringの変遷 2009年3月6日

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2011年4月24日 (日)

Tudung Groupガルーダのスナック

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Garuda Foodの経営者が雑誌Globeで取り上げられた。航空会社ではないがインドネシアの代表的菓子・スナックメーカーで、経営者は2代目のSudhamek 、54歳である。既に売り上げは2009年で4兆を越え、今後特に世界の市場の6割を占めるアジアで飛翔する為、2015年までに20兆ルピアを目指している。過大としてネットワーク作りの為にもアジアのネットワーク作りとして世界的戦略的パートナーとの提携を計画している。世界に通用するブランド作りである。1958年設立のGaruda Foodグループは持ち株会社Tudung Groupの傘下に属し、ピーナッツ、ビスケット、ジェリー、チョコレート、飲料水など、全国11工場で作っている。従業員18,000人、彼の夢の一つは会社を仏教の精神に根差した精神な者にするということのようだ。
Tudung Groupaは売上高は2008年 272m$で全国68位の売上高であったが、現在はその倍の規模であり、同じく、Sudhamek AWS自身、2010年資産$218Mでインドネシアの富豪第68位である。

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2011年4月23日 (土)

Falatehanはワリソンゴ

4月15日の「ファラテハンとファタヒラー」でファラテハンの記述を間違ったようだ。ファラテハンについては色々な伝説があるようで不明確な事が多いが、彼こそがワリソンゴの一人であると結論付けていたのであるが間違った昔の論文をそのまま使ったようである。Falatehanの父はSyekh Jamaluddin Akbarの代でスナン・アンペルと繋がる子孫である。(或いはSyekh Maulanaの息子でスナンギリと従兄弟という人もいる。)
北スマトラ、パサイで生まれ、メッカで3年間学ぶ。既にイスラムとなっていたデマクに帰りそこのスルタン・トレンゴノの妹を娶る。その後数年間は輝かしい軍隊の司令官としてジャワの北西海岸チルボン、バンテンを布教・征服し、1527年ポルトガル軍のスンダクラパ上陸を阻止しスンダクラパを勝利の町ジャヤカルタと改名した。バンテンではその領主の娘を娶り息子ハサヌディンを儲けのちにスルタン・バンテン王国1世とした。
これにより、チルボンとバンテン、スンダクラパが彼の手中に落ち、彼自身はチルボン王として1570年に死ぬまでそこで教えを説いた。死後、ジャティ山上に葬られスーナン・グヌン・ジャティとしてジャワのワリソンゴの一人として崇められている。
スラバヤの旅行記でもアンぺルもアンベルとか間違ったらしい。不得手な分野には手を出さない方がいいのだろう。

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2011年4月22日 (金)

タマン・ミニと世界遺産

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一昨日はタマン・ミニ・インドネシアが開園して36周年だと言うので36時間36分36秒の記念イベントが行われたようだ。スハルト黄金時代に入る1975年の4月20日、イヴ・チエン夫人の発案になるTMII(最後のIはIndah)にオープンしたのである。
今年観光相はTMIIをUNICEFの世界文化遺産に登録すべく申請するニュースがあったが、よく似たオランダ、デンハーグのマドローダム(Madurodam)のミニ・シティを思い出したが、先輩格(1952年オープン)の此方も世界遺産まではなってない。
行ったことがないので判らないがMadurodamは1/25のミニアチュアーの街であるので、広大な中、座るベンチもないのではないかと思われるが、どうだろう。 TMIIはその点どこにでもに転がれると思うがせめてレストラン位すわりたい。何故ジャカルタのHeritageにはレストランが近くにないのであろうか。 ファタヒラーのレストラン・バタヴィアだけである。サトリアマンダラのレストランはどこにいったのであおうか。ジャカルタの街はレストランの大競争になっているので、そろそろ観光地にも進出してほしいものだ。

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2011年4月21日 (木)

インドネシアにも創価学会、

そんなことに驚いているようでは世情に疎い事を恥じ入るが、クマヨランのゴルフ場に行く時、あのキリスト教の教会(世界一のクマヨランのメシア・カシドラル)の直ぐ近くに創価学会の建物があることをずっと前に気ずいていた。これも風の吹き具合で、この設計は我らの敬愛する楠一級設計士になるものであることを思い出した。長い付き合いで彼が学徒であるとは思わないが、このような特殊分野の設計までやれるとは敬服する。
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インドネシアの創価学会はいくつかの団体に分かれているが彼によると、これはSPIの文化施設で2006年に完工している。世間常識的に以下創価学会のイロハをピックアップしてみると、
*1930年初代会長牧口が創立、2代戸田城聖を経て現在6代目原口、池田大作は第3代で名誉会長(83歳)、1952年創価学会宗教法人、1962年公明党設立
*組織はSGI(創価学会インターナショナル)と言う任意団体の下、日本他192ヶ国に支部を持つ(或いは宗徒が居るとされる)。日本で800万所帯規模
*日蓮正宗とは対立し邪教とする。多分、日蓮・日顕の教えを通じ南無妙法蓮華経を唱え立正安国、苦難に左右されない絶対的幸福を求め、死は大宇宙に溶け込む受動的な状態で霊魂はない。
小生の宗教に相通ずるものがあり、信じる事も出来そうだが、何故本当に宗門に入ると対立がおこるのであろうか インドネシアにはSGI、SPI、NSI、BDIがあると言う。

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2011年4月19日 (火)

ひっそりあったバライ・プスタカ

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Balai Pustakは正式には1917年9月22日に、1908年設立のCommisie voor Inlandsche School en Volklectuu(原住民学校と国民読書の為の委員会)を受けて設立された。多くのムラユ語の本や雑誌が出版され、アブドゥル・ムイスなど多く青年が国民覚醒の為活動し、1928年10月28日の青年の誓いとなった。
他にMarah Rusli,、Muhammad Yamin、 Idrus, Hamka、 Sutan Takdir Alisjahbanaまでこの出版社を舞台に覚醒の思想を普及させた。日本占領時代は軍政監部国民図書局と改称され図書に携わる機能は維持された。
現在は国営事業体Perseroとして書店等も経営している。「Balai Pustakaは古い国営企業」というブログを書いた時はこの建物の所在が判らなかったが、この3月、この本部の建物を突き詰めた。 住所がGenung Sahariと言うのでぐるぐる回ったが、結局グヌンサハリの海軍本部からずっと南に下りプラムカの陸橋からユータンし北に向かってしばらくの左手にあった。
ここにも書店はあったが、もう営業時間が過ぎていたのか閑散としていた。本部のビルも大きいのが3つもあり、人のすがたはなく、扱いに手をあましている様だ。
クラパ・ガデインにも書店があるようなので次回訪問しよう。それまでつぶれないことを祈りたい。

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2011年4月18日 (月)

National Geographicネシア版

だいぶ前、日本に戻る日、スカルノハッタの雑誌・コーナーで上記の雑誌を買ってみた。店の人がインドネシア語ですよと注意してくれた通り中身は全てインドネシア語、おまけに付録が二つ付いておりこれもインドネシア版に直している。大したものである。ちなみに近くのieonイオンの大型書店に出かけたが日本版は置いていなかった。00img_0001


付録の一つは「70億人の顔」と言うタイトルの、新聞紙見開き2枚大の上質紙に7,000人の人間の姿がびっしり、その濃淡で人間の顔が浮き出る仕掛けの作品である。 2011年地球上の人口は70億に達し標準的生活の人々の比率も今までの最高となるが、たった2%の人口で世界の富の50%以上を保有すると言う不平等は未だ続く。
2050年には地球は90億人の人間であふれ、益々増える人間の安寧と地球の行く末を守るにはどうすべきかの挑戦に立ち向かわねばならない。70億の人口で10億が年収Rp108.85 百万の国々が占め、次の10億は中の上(35.22から108.85)、次が40億のグループで年収Rp8.91-35.22百万、最下位が10億、年収8.91百万以下である。インドネシアの人口2.42億で「中の下」に属する。平均寿命は富裕国ほど高く男77歳、女83歳でインドネシアは男69歳、女73歳で中の上に属する。以下次の様に記載する。
5歳以下での死亡率 
最下位国12%-中下 6%(インドネシア3%) 中上 2.4%-富裕国 0.7%
清潔トイレ アクセス: 35%-50%(都市67%、村36%)-84%-99%
流行病死亡者:36%-14%-11%-7%
非文盲リテラシー:66%-80(91)-93-98%
婦人出産:4人-3(2.4)-2-2人
移民出入1000人当たり:-0.58人(出超)--0.36(-1.23)--055-2.57人(入超)
固定電話100人当たり:1-14(14)-22-46
携帯電話100人当たり:22-47(65)-92-106
インターネット利用100人当たり:2.3-13.7(12)-29.9 -68.3
自動車1,000人当たり:5.8- 20.3(42) -125-435
どうもインドネシアはデータが古いかもしれない。

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2011年4月17日 (日)

Cari kerja ジャカルタ求人サイト

ジャカルタにもリクルートのRECRUITが乗り込んできた。従来の会社に加えTemps Staff等大手が出てきたが、その中でJobStreet並みでやっているのが求人・求職サイト Cari Kerjaである。情報のみを提供して自由に交渉できる利便性がある。今求人で求められるのはインドネシア語が必須ではあるがさらに会計・税務に経験のある現地在住の夫人である。 家庭生活と両立させ、フリーランス型、パートナー型でも可能で不確かな現地生活に自立の喜びを与えてくれる。 情報はk2433@ae.auone-ne.jpが早い。


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2011年4月16日 (土)

ロシハン・アンワールの世界

14日、ロシハン・アンワールが亡くなった。アンワールシリーズで登場も願ったインドネシアの代表的ジャーナリストである。89歳であったが昨年9月には奥さんも87歳の高齢で亡くなったばかりであった。 ご冥福を祈ろう。つい昨日、丁度、5月の今日は何の日を作成していた時に名前を目にした。1922年5月10日が誕生日であったのである。念の為Wikipediaを覗くと既に死去日が4月14日とアップされていた。西スマトラに生まれHIS-MULO-AMS(Jogja)の教育課程を経てNYKのコロンビア大学のワークショップにも参加し(前後不明)、日本占領政府のアジア・ラヤが彼のジャーナリストの出発点になったがスカルノにもスハルトにもその権威主義の批判から発禁処分された硬骨の人である。
彼の編著になる「シャフリル追想」や日記「あらしの前のインドネシア」は読んだ事があるが多くはインドネシア語での作品が多い。インドネシア語を中心に未だ形成されていなかった新しいインドネシアの文化を育てる気持ちが高かったのであろう。又国家映画会社(Perfani)の創立者の一人でもある。


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2011年4月15日 (金)

ファラテハンとファタヒラー

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クバヨランのPERURIがある通りはPalatehan通りである。この地区の大通りは例の外人バーの多い方でこちらは未だ健在であるが、ターミナルが出来たおかげで嘗てのGolden Trulyと言うスーパーやバスウエイー側の店々は哀れ一貫の終わりである。 この辺りには昔の建物も多く、今やこれこそ茅屋で売りに出されたりしているが サッカー場もあり昼は落ち着いたいい場所で再開発を望みたいものである。奥に日本レストランの美味とかいう店もそう願っているに違いない。
このPalatehanは別名Patahillah とも言いこちらはOld コタの今のジャカルタ歴史博物館前の広場の名前になっているが、彼こそが1527年ポルトガルが応援するパジャジャランのスンダクラパを落としジャヤカルタと宣言した軍司令官である。彼はスマトラ北のパセ出身のハジで、デマグ王妹と結婚し、デマグの軍指令官となり、チレボンの王の息子ハサヌディンと共にバンテンのポルトガルーパジャジャラン軍を攻めたのである。ハサヌディンは後に初代バンテン王スナングヌン ジャティとなった。と言う話。
Palatehan, Patahillahと混同する良く似た名前ののFilateriは切手記念館の事である。

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2011年4月14日 (木)

BKTはどこを通る

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Kanal Banjir Timur、東洪水運河と言うのであろうか洪水対策の運河でこれが出来るとカンプン・ムラユからクラパ・ガディン等の洪水を防止できる。この意味のBerita JakartaのニュースのタイトルがBerkat KBT, Banjir di Kelapagading Berkurangである。2009年の12月に一応海まで貫通した事になっているが途中いくつか完成してない部分があった。
「毎年効果が見えてきて現在、大雨になっても短時間で水が引く程度になってきた。
Saat ini, jika turun hujan deras di wilayahnya, hanya menyisakan genangan yang akan surut dalam waktu yang tidak lama. 良く起こる(Kerap)洪水はsapaan akrabnya本当を言うと,ここを通るスンター運河が一杯になるほどの(Daerah hulu大本のBogorなど)の雨の所為である。
lebih disebabkan oleh intensitas hujan yang tinggi hingga menyebabkan meluapnya Kali Sunter yang melintasi wilayah tersebut. 2002年や2007年DKIが洪水に襲われた時はクラパ・ガディンも殆ど水に沈んだ。
saat tahun 2002 dan 2007 saat banjir besar melanda DKI Jakarta, hampir seluruh wilayah Kelapagading nyaris tenggelam 洪水対策が成功してもクラパガディンの道で破損した道は多い。」
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ここではKBTと言うがBKTの方が一般的だ。 それがどう通っているかは未だ確認してないが、多分BekasiとJatinegaraの間を東西に走り真ん中のKali Buaranで北に下りCakung Dranageを通ってMarunda辺りのWadukを利用しながらCilingcinの海にでるのではないだろうか。この間にCiliung、Cipinang、Sunter等の河の水も受け止める。写真はCipinang辺りだったと思う。 家を取られた姉弟が夕刻迫る運河沿いで遊んでいた。

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2011年4月13日 (水)

UOBも迷惑、このタムリンのビジネス・ビル

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タムリンがスディルマン通りに代わるジャカルタ一のメーンストリートに立つビルが改装中である。知らずのその傍を通った時車の上から投げ網をかぶされたような錯覚に陥った。改装中のビルの塵芥飛散防止ネットが風で覆いかぶさったのである。こんな工法が認められるのであろうか。日本帰国前の1週間で2~3回、ここを通ったが改善はされてなかった。 ロケーションはいいのでここに中規模のビルではもったいないが、改装状況を見ると建て替えではないようだ。 
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元々あったビルは、印象薄いが写真を探して見るとかろうじてあった。隣の高層UOBビルと比較すると貧層である。特徴は正面に窓がない設計である。なるほど窓を作るのかなと思われるが今頃どうなったであろうか。 名前がないのでとなりの立派なビルのUOBについて書くと、UOBは元Buana Bankであるが現在はUOBグループが99%以上で従い上場も離脱している。 ランキングも上位でジャカルタでもあちこちに支店を見かける。UOBとはUnited Overseas Bank(大華銀行)シンガポールで世界堂々100位である。100位内にはインドネシアの銀行はない。

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2011年4月12日 (火)

余震と原発へ対応

政府は福島原発事故を最悪の事故と言うチェルノブイリと同じレベルへのランク付けを発表した。世界から日本は楽観的だと言う非難の声に押されたのか、或いは想定外の不可抗力の事件として責任を弱める布石なのだろうか。我々にとっては一歩も解決にはならない。 どちらがひどいかでなく、我々が予測しえない最悪の事件は何か、その回避のシミュレーションを明示する事である。
一時的生活資金にも予算がでなく、義捐金を充てにするようでは、強制避難も口だけで人々を追いやり、避難の人々を一層苦衷に追いやるだけである。自衛隊は国民の自衛隊であるとすれば、政府のやったことで人々を力づけたものはない。
世界からも正しい情報がない、修復が後手後手だと非難されっぱなしであるが、この余震続きの中、どれだけ修復を難しくしているか、そう言うことも理解させる情報伝達が必要だ。この難しさを知らない国には乱暴だが、実際に体験してもらい、或いはやってもらう事だ。昨日からの余震は30回以上だろうか。余震と言うより本心である。
風呂をするとか何をするとかも出来ず、頭は常時ふらふらである。きっとこれでプレートがきれいにたたまれ5,000年はもう、ずれたりすることはないのではないだろうか そのような気象学者の声を聞きたいものだ。

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2011年4月11日 (月)

Dapur Wisata の蚊よけ草 Zodiak

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前回3月のジャカルタで久しぶりにジャワ料理(?)のレストラン、ダプール・ウィサタに行ってみた。奥の中庭には池が掘ってあり、テーブルとの間に植え木が植えてある。オーナーに聞くと蚊を追いやる木らしく木が発する臭いは蚊が嫌うものらしい。
インターネットで調べると簡単に調べられると思ったが一筋縄ではいかない。直ぐ出てくる草は蚊連草(カレンソー 蚊よけ植物)であるがこれは植物学者が異種勾配で作ったもので見た眼はゼラニウムに似ており、写真とは違う。タイのトムヤムクンに入っている若竹見たいな萱(カヤ)見たいな香料植物、レモングラスも虫を追う効能があるらしい。調べているうちにハーブの名前がゾロゾロ、ユーカリ、スイートバジル、センテッドゼラニウム、レモンマートル、ペパーミント、ローズマリーペニーロイヤルミント、セージ、マジョラム、ラベンダー、ローズアガスタキ(アニスヒソップ)、タイム、ローリエ、ヨモギ、タンジー、サザンウッドなどが出てきた。

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最後は「ゾディア」で“Jakarta Diary”に出てくる、パプア原産である。より詳しくは” インドネシアの新聞ネタ・べりた・いんどねしあ”でPengusir Nyamuk Zodiakと判ったが、どうも偽物に近い印象があった。手に取ってみると妙なにおいは感じたが、頼りない感じがした。 やはり日本の蚊取り線香(や或いはベープ)がベストであろう。
ここはパパイヤのメラワイ大通り向かいのWijayaに向かう道Panglima Polimにあるがいつも客は少ない。理由をあげると、この場所Panglima Polimは縦横多くの道があり、人に説明しにくい場所で、料理数が少し少なく、かつ辛すぎる、前面の木が大きすぎて暗すぎる点であろう。              

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2011年4月 8日 (金)

震災復興の中のジャカルタMRT支援

日本は東北大地震の復興が急ピッチで進められている中、ジャカルタの地下鉄プロジェクトも愈々始動段階に入ってきた。ジャカルタ大量高速輸送システム(MRT)プロジェクトは日本のJICAの資金協力でここまで来たのである。3月14日のテンポ誌は日本の大災害がこのプロジェクトに及ぼす影響の心配を切り捨てるFauzi Bowo市長の談話が報じられていた。
MRTは南北線と東西線の計画があり 南北線は南のLebak Bulusと北はMangga Duaの北裏のKampongbandan迄の23kmであり、東西線はタンゲランのBalaraja とブカシのCikarangの80kmである。南北線はこれを2期に分け第1期はLebak BulusからThamrinのDukun Atas迄15km(13駅内6駅が地下駅)で総資金1200億円である。ここは2016年に開通しその後北の8kmが2018年に開通、東西線は2024-2027年頃との事である。
世界最大の借金国日本が財布の紐を閉めないままこの大災害に遭遇しこれ以上の恥はかきたくないので是非このプロジェクトを完成させてほしいものである。インドネシアはきっと倍以上の借りを返してくれると思う。
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Lebak Bulusのターミナル駅は現在のサッカー場で今このチームの本拠地の移転先が求められている。このサッカーチームは取り壊されたメンテン公園にあったはずである。 Lebak Bulusのターミナルの写りの悪い写真しかない。

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2011年4月 7日 (木)

花見とブリューゲルの徳目

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東京は今日、桜満開。小生の市川のマンションでは帰国の日の4日8分咲きで、管理事務所が早くも用意した桜見のテーブルに5日6日の春爛漫に住民もチラホラ。テレビでは岩手の酒造家のインターネットでの{お花見のお願い}に元気づけられ急に自粛を自粛するトーンに一斉に切り代わり、いつも様子見の後追いである。折角なのでこの 酒造家他のブランドを紹介すると「南部美人」、あさ開、月の輪、出羽桜、雪漫々、くどき上手、上喜元、浜千鳥、大七、田酒等々。
自粛自粛で委縮すると経済も沈滞し、日本(東北)の再生もできなくなると言う事であるが、震災地の人々の苦悩を思いやり、それぞれが出来る事をやった上でそれぞれの自らの仕事、生活にまい進することが重要だ。 テレビでは芸能人の自粛期間も過ぎたのか、少し行きすぎ位の騒ぎ過ぎが目につく。これで元気が出る事もあろうが、基本を忘れてはなるまい。
ずっと以前に人間の「七つの罪源」をブログで取り上げたが、そのブリューゲル展示会のパンフの裏に七つの徳目も出ていた。ここでは節制と言う事であろうか。罪源を抑え徳目を伸ばすため今一度読んでみよう。

七つの大罪は、
《貪欲》、 《傲慢》、 《激怒》、 《怠情》、 《大食》、 《嫉妬》、 《邪淫》
七つの徳目は
《信仰》、 《希望》、 《愛徳》、 《正義》、 《賢明》、 《剛毅》、 《節制》
 
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2011年4月 5日 (火)

建設能力高いインドネシア

コタのファラテハンに行く場合、グランド・インドネシア/ガジャマダ/ピントゥブサールと渋滞ポイントを通るのは嫌なので、エスパルマン/アンケ/トゥバガス・アンケを通ってコタ駅に出る道を取ることが多い。 1月にこのトバガス・アンケを通っている時、陸橋建設が行われているのにぶつかった。
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そんなに渋滞する所ではないナとの印象を持っていたので、どうしてこの程度の道に作るのだろうと不審であった。この3月には完成、既に使用されていた。この道路自体が2級クラスの大きくない道なので路の中央に横たわる陸橋も狭いので予算は小さくてスンダであろう。 実際にカウントしていないがこの道は半年ぐらいで完成したのであろうか。 知らぬ間に出来上がった印象である。インドネシアもたいしたものである。現在市のあちこちでこのような陸橋建設が進んでいるが、建設による渋滞もちょっとの間故辛抱できるが、完成したらすぐ渋滞になるイタチごっこであろうか。 これも1歩1歩の前進のため必要な事だ。

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2011年4月 4日 (月)

ガルーダから復興日本へ

快適なガルーダでふわりと着陸したA330-200であったが、成田空港管理会社にぐるぐる回らされ10分強もかかりやっと日本の空気に触れる事が出来た。何故か空港が暗い、桜も未だである。震災の爪痕はどこにあるかなと見ながら家に辿りついて、なんど自分のマンションのコンクリート敷石(最近貼ったばかり)が割れていたのが唯一の形跡であった。 京成も地下鉄もエスカレーターは節電で停止、これこそが首都圏では震災地を思いやるよすがとして機能している。 そう言えばガルーダの日本人プラムガリ(スチュワーデス)の一人は福島出身であった。御両親を心配しながら勤務している東北人の姿に胸打たれた。今日はこの娘を含むtrainee2人がおり、日本人4人体制のガルーダであった。彼女らは他の航空会社からスカウトされた訳ではなく彼女伊藤さんはガルーダに入る前は東北新幹線の車内販売ガールであったし、大野さんは学卒の新卒で就職したという。 ちゃんとトレイン出来る体制がガルーダ自身にあるのである。 給料はちゃんとタント頂いている、話しかけてくれると嬉しいとのとのコメントまで頂き又感心、ビールが進んだが、こんなにゆったり、楽しい気持ちでいられるのもここまでである。 夕方緊急地震速報があったが殆ど空振り、これが最後だと期待した。

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2011年4月 3日 (日)

俯瞰写真 ペニンシュラ

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日本に帰る前日、昼飯の為、普通は余り行かないS.Parman通り方面のホテルに行って見た。 スカルノハッタから流れてくるこの道には結構いいホテルがある。今日はペニンシュラである。3-4 ビンタンクラスだと思っていたがSuperior(通常Standardの事)でRp1,300,000が最低のタリフでSuiteはRp2,750,000もする。ネットで見ると円で7,000円台で出ていたのでネットで申し込んだ方が得だと言える。 但し土日はWeekend PromoでRp650,000 netとなる。昔ここに東京ダイニングなどがあったなと思いながら、プーサイドテラス・カフェに向かうもリノベ中(6月に再開)、最後は23階のエクゼクテイヴラウンジでゆっくりする事にした。
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他にお客は居なくスタッフが手持ちぶたさで調査に協力してくれた。 ネットにのせるよと言うとこちらの人は殆ど喜んで協力的である。残念ながらカメラが良くないのでこの程度であるが、まぁ昼寝がてら来ても良いだろう。
Menara Peninsula Hotel Jl.S.Parman 78, Tel:535-0888
23階からジャカルタ西部を望む、図らずも昨日の俯瞰写真シリーズ第1号となった。

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2011年4月 2日 (土)

クバヨランの造幣廠

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造幣局perumPeruri の茅屋と題したブログに度欲おじさんが反応、このクバヨランの造幣廠の珍しい俯瞰写真を届けてもらった。氏が仕事で出かけるPLN本社の高層階から取った写真だそうである。
独立した直後のインドネシアのルピアのお札は例のBNI 1946が通貨発行中央銀行として設立され、このBNIの下に1952年PN Percetakan Kebayoranが紙幣印刷会社として設立され、1954年 PN Arta Yasaが硬貨制作を担当する会社として設立された。現在のPeruriはこれが統合して1971年に出来たものである。従いこのクバヨランの施設は1954年から有ることになるが、正面の高いエンパイヤー・スタイルのビルはオランダ時代のものに違いない。あの茅屋はこの写真の右側にあるが何軒あるかはわからない。

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