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2011年5月の投稿

2011年5月27日 (金)

裕福な南ジャカルタ市庁舎

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2日前の弊ブログ「トルノジョヨの名所」に度欲おぢさんからコメントが付いた。
曰く「南ジャカルタ市の市庁舎はJL.Prapanca 墓地跡に移ったのでは?」というものであった。 まったくその通りでうっかり地図を信用してしまった。移ってもう相当経つと思うがいつ頃だったのであろうか。Jakselと言えばスディルマンのスティアブデ辺りまで含むので金持ち企業が多く、勤労者も多いので個人所得税のあがりが大きいのかもしれない。
トルノジョヨの旧Walikotaには一度、もう数年前になるが トランスジャカルタの本社があったので訪問したことがある。けなし続けたバスウエーもその当時はひょっとすると旨く行くかもと思い観念して計画の路線を聞きに行ったもので計画の13路線は東京の地下鉄と同じと持ち上げたことがあった。今はこのトランスジャカルタもjaktimの方に移ったようでこの4階建てのビルはいまや誰もいないようだ。
隣のアセアンセンターが拡充する話もあるが、右隣が警察本部と言うのは地価に有利に働くのだろうか。
この地図はFalk社ものもので使い勝手があったが、新しいものを買おうと思ってグラメディア書店で後継版を見たが現在売っているのは分厚く数kgと重い奴であきらめた。今のFalkのやつは2001年版である。

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2011年5月25日 (水)

BP-7の所在

政府官庁の略語を続けるとBP-7で思い出すのはちょっと?古いがBPUPKIである。これは日本語では独立調査会と言うのでBadanではないと思うとやっぱりBadanで次の様にいう。
BPUPKI : Badan Penyelidik Usaha-usaha Persiapan Kemerdekaan Indonesia
日本軍の敗北決定的な時代に日本軍の手で独立を達成させるために設置されたもので設置は1945年4月29日、委員長はRadjiman Wediodiningratで、ここからパンチャシラ宣言が生まれ独立後の1945年憲法が生まれた。スカルノがパンチャシラ宣言を演説したのは現在のグドゥング・パンチャシラである。ジャカルタ市の保存史跡とし00bp2009_1101dsc08856


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てここは登録されているがその隣だと思うがGedung BP-7も登録されているのである。
• Gedung Departemen Luar Negeri (Volksraad, Gedung Pancasila) Jl Taman Pejambon No 6
• Gedung BP 7 Jl Taman Pejambon No 2
どちらもごっちゃで論じているものもあるが、別物だとおもわれる。今日はいい写真がないがこれがグドゥング・パンチャシラの隣のBP-7の筈だが。。

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2011年5月23日 (月)

トルノジョヨの名所

クバヨランの昔の紙幣印刷所のとなりのサッカー場の前の道はトルノージョヨ通りでシシンガマンガラジャのアセアンセンターから共和国警察本部、002010jan30obama_veteran_thamrin_su


ウオルター・モンギシディに向かう所のPLNの前の国家警察機動隊(ここに警察ミュージアムもある)迄の3ブロックと短いが、目印には事欠かない。アセアンセンターととガジャ・マダ像が立っている警察本部の間にも大きな建物があった。00sep07_salemba_kopi_011


南ジャカルタ区庁舎であるが余り目立たない。道路の名前になったTrounojoyoは17世紀の人で反オランダの英雄である。
マタラムが建国されスルタンアグン王の後、子息のアマンクラット1世の政治はイスラム貴族の権力拡大もありイスラム6,000人を粛清したことも有り、世の中に不満が沸いていたとき、マドゥーラ島の王族のトルノージョヨはマジャパヒットの末裔と称し1674年反乱を起こした。反乱軍の勢いは強く、又マカッサルのブギス海賊の反オランダ精神から応援に参戦するものが多く1677年クディリを都と定め更にマタラムの当時の都ブレレッドも占領した。 1678年になるとオランダ政庁はついで即位したアマンクラット2世の求めに応じ有利な条約と引き換えに制圧に出てきたため、反乱軍はクディリを捨て、逃亡、トルノージョヨも1682年山中で捕らえられ処刑された。 長い反オランダ戦争の一コマにすぎない。 道の長さに現れているのであろうか

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2011年5月22日 (日)

BP3 BP-4 BP-7

インドネシアの政府機関の名前にBadan(庁)が付くのは多い。身近なのはBKPM投資調整庁、BAPEDAL 環境庁、BPPT 科学技術応用庁、Bappenas国家開発計画庁などがある。この中でPが付くのが多いがPe-、Pen-で名詞化された動詞(監督、評価など)が多いからで二つPが並ぶのは上のBPPTの他にもBPPC(チェンケー略奪? 今はない)、BPPN(健全銀行)、3っつはBP-3(Badan Pembantu Penyelenggaraan Pendidikan)
BP3K (Badan Penelitian Pengembangan Pendidikan dan kebudayaan)、
4っつはBP-4 (Badan Penyelesaian Perselesihan Perkawinan Pusat) と言う風に略する。
圧巻は昔あったBP-7である。
Badan Pembinaan Pendidikan Pelaksanaan Pedoman Penghayatan dan Pengamalan Pancasila パンチャシラ精神の普及のための教育機関である。
今でもこの建物の名前として残っているようだ。
Bは全てBadanだと思うと、Biro(BPS 国家統計局)やBalai( BPPPG : Balai Penelitian Perusahaan Perkebunan Gula)等もあるので厄介だ。

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2011年5月18日 (水)

最近の日系投資動向

最近の日系投資動向を製造業だけにかぎってみても以下の如くにぎわっている。

*味の素、KIICに第2工場建設へ、投資約40億円、調味料『マサコ』50%増産計画。
*NBCインドネシア、KIIC工場拡張へ、スクリーンメッシュ生産能力倍増、来年1月稼動、投資約5億円。
*月島機械・サッポロエンジニアリング、国営農園PTPNX、廃糖蜜からバイオエタノール製造事業に参画協力へ、NEDOが14億円負担、PTPNXが8億円、月島機械とサッポロエが計1億円負担する。
*東レ、タンゲランに紙おむつ用高機能ポリプロピレン長繊維不織布生産会社設立、会社名は東レ・ポリテク・ジャカルタ、資本金3,760万ドル。
*丸紅、PLNからケラマサン火力発電所(南ス80MW)拡張約1億ドル受注、JICAの円借款)
*JGC(日揮の現法)、JX日鉱日石エネルギー・ルブリカンツ・インドネシアの潤滑油工場建設受注
*昭和電工、タヤン(西カリ)でアルミナ工場建設開始、14年の操業目指す。
*石油資源開発(JAPEX)、カンゲアン鉱区(東ジャワ)で天然ガス産出に成功、
他に東急建設現法設立、三井住友海上保険、ジワ・シナールマス50%取得で生保事業に参入、長島・大野・常松法律事務所、一方社油脂販売会社設立等


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2011年5月17日 (火)

トリサクティの碑

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5月12日はジャカルタ動乱の発火点となったトリサクティ事件の日である。スハルト打倒デモのトリサクティ大学の学生4人が軍の発砲に倒れた日である。インドネシアで嘗て良くあったマッチポンプの仕掛けだとすると、このクーデターで得をするのが誰かと言うことになるがそれらは専門家の論評にゆずるとする。同大学の正面入口はバスウエーから降りて行くと行きあたらない。かなり離れた横の門から誰何される事もなく入ると大きな塔があった。それがトリサクティ事件のモニュメントである。
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正面には花が飾られ2~3日前に何か式典が行われたのだろうと思われる。駐車の車に邪魔されたので裏からも写真を取ってきた。

Hari ini kami datang bersama bunga dan petik sejuta sebagai tanda kasih serta keteguhan kami demi keadilan karena kami yakin bahwa Reformasi merupakan keharusan.
Merah Putih setengah tiang bersaksi atas Darah, Keringat, Air mata, Rasa takut dan rasa ingin berontak bercampuran menjadi satu…Ratusan dari kami yang cedera puluhan dari kami yang Ditembaki atas kesewenang-wenangan Penguasa...
Empat saudara kami tercinta telah gugur meninggalkan ribuan duka, kalut dan amarah yang mendalam.
Perjuanganmu takkan sia-sia saudaraku tiap tetes darahmu akan berarti bagi Bangsa dan Negri ini.
Dan ini menjdai bukti dari kami yang setia bahwa keAdilan adalah kePatutan

Pekik叫び、keteguhan:決意、Sewenang-wenangan 権利の無視、Cedera:争い、欠点、kalut:混乱、amarah:怒り、kepatutan:妥当
それほど感銘を受ける内容ではない。

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2011年5月16日 (月)

マジャパヒットは大和ホテル

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スラバヤ Jl.Tanjunganに立つマジャパヒット・ホテルはスラバヤの代表的ヘリテージの一つである。歴史の教科書にも出るがごとく独立戦のさなかオランダがホテルに掲げたオランダ国旗を一人のインドネシア人がよじ登り引きずりおろした揚句、国旗の赤白青の下側の青地を引きちぎり、紅白旗として掲げなおした事件で有名である。 それは独立宣言後の1ケ月後1945年9月15日の事で、これがスラバヤの戦い(英雄の日)から独立戦争の力となった。
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その絵はどこででも見かけたと思うが、一つはミニ・インドネシアの切手博物館に飾って有ったのを思い出した。切手とどう関係があったのであろうか。
このホテルはシンガポールのラッフルズホテルも建てたLucas Martin Sarkiesが1910年に建てたもので当時の名前は Oranje (オラニエ) Hotel であった。
日本占領時は日本軍はこれを大和ホテルと改称した。ホテルの所有権はSarkiesの手で1969年迄維持され、マンダリンホテルがMajapahit Hotelに改称し、現在は華僑の財閥のMurdaya Pooが保有している。

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2011年5月13日 (金)

メルリン・パーク ホテルの威容さ

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2~3日前のハシム・アシャリ通りを通っていた時に大きな異様な建物が目にはいった。名前を見るとホテルと言う。それがMerlynn Park HotelでSunlakeホテルグループらしい。Merlynnと言うのは国際級ホテルと思われたがプーケット等に見かけるほどで余り国際級ではない。
以前ジャカルタSunter地区にDanau Sunter HotelがありこれがSunlakeに名前を変えたことから見ると地場けであろうか。但し、大本はスマランのMetro New Hotelで、カサブランカのマンハッタン・ホテルの三つを保有している。このホテルは2010年に建ったばかりで301客室、6つのレストラン・バーを持っている。インテリアは1920年代の上海風らしい。値段は百を超える幹事である。Jl. KH. Hasyim Azhari 29 - 31 Jakarta Pusat 10130
Phone: (62-21) 300 26 888

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2011年5月12日 (木)

Bersih Sehatと緑

この間の「都会、緑の借景」の続きであるが、その時のBersih Sehat のカタログが手元にある。今もそうなのかMayestikがマッサージの中心地であった頃の老舗Bersih Sehat は今や各地に支店を持つ企業グループとなっている。Mayestikの他、この間のMenten:Wahid Hasyim、Pondok Indah Plaza 2、Kelapa Gading Bukit Indah Blok F、Puri Kencana Blok J、Hotel Sahid Jaya、Bintaro Ruko Sentra Menten Blok MN、Bogor、Bandung、Anyer Beachである。
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Mayestikの本店は雑踏に昔のままやっている。緑レストランも少し内部のリノベをしているが、99%昔のままである。畳部屋とか有ったが、それを取り外しステージを作っている。土曜にバンド演奏が入る。この緑レストランは併設されており、Hotel Sahid Jayaだけがないとか。企業グループはDayu Groupと言うが インドネシア人、の成功物語であろう。Dayuさんが居る訳ではないがオーナーはHarionoさんかな。
大昔に寄った事があるAniyer Beachの店は国道沿いにあった小さな店であったが、今はビーチ遊びとかホリデーにも良いが企業研修等にも使える諸設備完備である。

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2011年5月10日 (火)

大昔のホテル王なのか

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ガジャマダ・プラザの手前で左に曲がりRoxi Masを超えてCiputraに向かう道はHasyim Ashari通りであるが大昔から有ったがごとくで昔はGang Chaulanと呼んだ。それはバタビア回顧旅行シリーズ「バタビア1930(7)」でふれたが、このChaulanとは或るフランス人の名前から来ている。本当の名前はSurleon Antonieであるが皆Chaulanと呼ぶからそうなったらしい。
彼はJJ. Dideroと共に1828年Moenswijkと言われた土地を購入した建築家として知られている。Moenswzjkの名前はその最初の所有者である、全盛時代のVOCの理事の一人であるAdriaan Moensから来ている。
二人はその所有地でHotel Chaulanとして最初知られたHotel des IndesやHotel de Provence (1835)、その後Rotterdamsch Hotel (1854)を作った。
一世を風靡した名前のHotel des Indesは1856年5月にオープンした。Oud Bataviaの著者Dr. de Haanによると、その新しい名前はMultatuliの著書の助言があった。 聞いたこともない固有名詞ばかりで失礼しました。

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2011年5月 9日 (月)

Kongres Bahasa インドネシア語の発展

4月に亡くなったロシハン・アンワールは5月のクロニクルで5月が出生であることに触れたが、彼の時代、インドネシア語が国語として育てられた時代であった。6月のクロニクルで6月25日はインドネシア語の日であることが判った。それは1938年のこの日、全国インドネシア語会議Kongres Bahasa Indonesiaが行われた日である。この会議は1978年の第3回(第2回は1954年)から5年単位で2008年の第9回会議まで続いて開催されている。
第1回会議はインドネシア語を共通の言葉にした青年の誓い(1928年)を祈念して行われたもので、インドネシア語の普及、正しい言葉の追求で当時のジャーナリストが集まって議論したもので、議長はDR. Purbatjaraka、副議長 Amir Syarifudin、他にKatja Soengkono、Shah Moh、Soemanang、Soegiarti、Maria Ulfah が招待状に発起人で名前が挙がっている。又Prof. Dr. Hoesein Djajadiningrat, Ki Hajar Dewantaraが代表的参加者であったが、Anwar氏の名前は見つからなかった。(それもそのはず、彼はその時16歳であった)、その後日本軍は日本語を強制できずインドネシア語を公用語とし、1945年憲法でそれが定められた。1947年Soewandiスペリング(Ejaan)、1972年簡略化とか進められ手現在に至っているが、ちょっと進み過ぎた嫌いがある。 

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2011年5月 8日 (日)

アセアン・サミットと元ヒルトン

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昨日・今日とジャカルタはアセアン・サミット会議が行われ、空前の警戒態勢だと言われていたのであるが街を動いても殆どその緊張はなかった。1976年から行われるようになったサミットはもう第18回目で最近は年2回も行われている。2015年の共同体設立に向かって急ピッチと言う感じである。今年はインドネシアが輪番国で10月にバリでも開かれる。昔コンベンションホールに行く地下の近道が元ヒルトン(今スルタンホテル)から行けるように有ったと聞いていたので探して見たのであるが、これはスハルト時代のもので秘密の近道だそうで発見は出来なかった。スルタンホテルはお客の姿を見る事も少なくな閑散としていた。
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その理由の一つがその名前の変更なのか知らないが中庭のジャワ・レストランは取り壊され、奥のバリ・コーナーの池辺のイタリヤレストランも廃業、日本館はちゃんとやっているものの、このバリ・コーナー(?)の当たりは憂愁をただよさせている。

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2011年5月 7日 (土)

ガルーダの決算は好調

昨日のガルーダの機内誌を見ていたら2010年のガルーダの決算が出ていた。利益が5,155億ルピアで好調だと言う。確か昨年は1兆ルピアであったと記憶がある。ブログを見ると丁度この時期昨年4月4日に取り上げていた。それは又確かめるとして、その他の項目で売上(営業収入)が19兆5,340億ルピア、でこれは昨年比9.5%と出ているのに利益の対比は出ていない。乗客数は10.3百人が13百万人に、総座席飛行距離(ASK:Availabilities Seat Kirometer)が」217億から257億に増加したが搭乗率(Passenger Load Factor)h73.1%から71.7%に僅かに下落した。今日はGWが過ぎた最初の日(休んで10連休にする会社もあるが)であることが大きな理由であるが00p5060003


今日のガルーダは3割くらいではないだろうか。
しかし、京成もガラ空き、出国審査も、本屋も、寿司屋も小生一人であったことから考えると健闘といえよう。
もし利益も減少したとすれば、機体の新規購入24機に象徴される基盤整備(機長・搭乗員訓練などの先行経費負担が大きいのであろう。機体の主力はAirbus 330-200/300(222人、/257人)である。今日は300であるが、映画スクリーンが壊れていた。何か節約かなと思って尋ねると、単なる故障、だたパナソニックの技術者が言っていたとのことだった。

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2011年5月 5日 (木)

インドネシアの火力発電は今(1)

インドネシアの火力発電は思いの他早い時代(1958年)から研究に着手している。00bapeten_deprind072


1年ほど前ガジャマダ通りで旧工業省を探している時その建物の後ろの5?階建ての建物が原子力監督保安院(適当な訳です Bapeten)であったり、レバック・ブルス(チランダック)でもその原子力庁(Batan:Badan Tenaga Atom Nasional)の広い敷地の施設にばったり出会ったりして驚いた事がある。

現在はセルポン(Siwabessy)、ジョクジャ(Kartini)、バンドン(Triga Mark II)に試験発電所があり、7ケ国に専門研究員を派遣、日本とは原発協力協定、2006年にはIETAを招き既に2009年にGOの評価を受けており、東ジャワ・ジュパラのムリア地区に1000MW 規模の原発を2016年までに建設する計画であった。 日本の原発事故以降ユドヨノは慎重な発言であるが、Batanや関係専門家、或いはハッタ環境大臣も前向きな発言が多い。今は全く大統領次第と言う所ではないかと思う。
前向きな発言はインドネシアはアジアでトップクラスの準備体制が出来ているとか
インドネシアも地震国ではあるが地震が起こらない地区も多い。
日本は初期の技術であるとかの意見が多く、ムリア地区の他ゴロンタロ、カリマンタン、バンカ等が招聘に手を挙げている。

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2011年5月 4日 (水)

バタビアの紋章

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バタリヤの紋章(Lambang:Coat Of Arms)が今もジャカルタの建物に残っていると言うのでアルバムを探しまわったが一つだけ見つけたのが写真の建物である。オランダ時代の紋章がある様な建物は殆どが共和国政府が接収しているので、残す筈はないと考えながら、有ったとしてもジャカルタ史博物館なら残すにしても理屈が立つが。。。有ったのはそこには無く、そこに行く手前のピントゥ・ブサールであるがこの両側は皆古い建物ながら殆ど使われてなく又謂れも判らない。
バタビアの紋章が出来たのは早くも1620年である。 オレンジ色の盾の上に黄赤色の刀剣が立ち、周りを緑茶色の葉の弦が囲んでいる図である。1643年に左右の隅にテープが付け加えられたのはクーン総督の"Diespereert Niet(失望するなかれ)"のシンボルである。
のちに2頭のライオンが描かれたりしたものもあったようであるが、写真のものは初期のものと同じで貴重なものと思われるが写真は3年前の話であるのでまだあるかは保証できない。

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2011年5月 3日 (火)

MoojenとBerlage

スラバヤ、ジュンバタン・メラーの昔のNillmijの隣りはAlgemeene Maatschappij van Levensverzekering en Lijfrenteと紹介したがこちらの建物はオランダ設計家Berlageで1901年である。
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橋も袂のビル一つ置いて、この昔Willemskadeの通りには上のBelageのAlgemeene生命保険、Moojen(J)のNillmij生命保険会社、CP W.SchoemakerのKolonial Bankが並んでいた事になる。
当時の保険会社は1859年設立のNillmijを代表に8社があり、これらが1973年に合併させられ、それが現在の国営Jayasrayaである。後一つNillmijの建物はその前はスラバヤ商業銀行だったはずで、多分Nillmijがそれを購入したか、或いはNillmijの創設者がそもそも建てたもので、彼が1909年にMoojenに建て替えさせたものらしい。Nillmijのオーナーは1863年にJawaBankの総裁をやっているWiggers van Kerchemである。
3人の設計者はそれぞれの時代を代表する東オランダ時代の大設計家である。
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屋根の上にAlgemeeneの看板が見えるこの建物はレンガ作りのneo-roman arcが特色で後にDe Stiljlグループやアムステルダム・スクール・グループにも大きな影響を与えたBelageは現代建築の父と言われる。 その左にNillmijがあるはずであるが、未だ建ってない1901年から1910の間の写真であろう。
Moojenのこの建物とジャカルタのBuddah BarとなったKunstkring を絶賛したと言う。ちょっと時代が合わないが。

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2011年5月 2日 (月)

インドネシア・トップお菓子メーカーMayora

1977年兄弟でお菓子会社Mayora Indahをジャカルタで設立、既に上場を果たしている。
スナック、ビスケット、チョコレート、ワッファー、ぺパミントが主力商品であるが最近は米飯・メンのカップ・フードにも進出している。売上はインドネシアの消費者の旺盛な消費需要に支えられ毎年順調な伸びである。2009年 4.8兆、従業員6,200人、株価は2010年で3倍と急伸した。
先のGarudaFoodと比較するとグループもオーナーJogi Hendra Atmadjaの資産も若干上を行く。以下のブランドは聞いた事がある。Roma、Kopiko、Kis、Beng-Beng、Torabika、Vitazone、こちらは写真が撮れない。ウェブサイト利用の優劣差は大きいかもしれない。

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2011年5月 1日 (日)

ウオータールー・プレインの疑問

3年程前から疑問であったWaterloo 記念塔の破壊の模様であるが、Alwishahab氏の書き物で色んなことが解る。00050809waterlooplein410830


Waterloo記念碑は昔Waterlooplein(現在のLapangan Banten)に建っていた記念碑で現在はその場所にイリアン・開放の記念碑が立っている。Waterloo とはナポレオンがイギリス軍ウエリントンに負けた戦場で当時オランダも英国軍側に立ち参戦し、ウイレムIが負傷した所である。
Alwishahab氏の書き物の一部を写すと下記のようである。
「1930年頃の写真を見るとバンテン広場にお互いに隣り合って4つの建物がある。。。。その建物の線の真ん中に一つの塔が見える。その頂上にはライオン像があったので、ジャカルタっ子は1950年代迄そこをLapangan Singa(ライオン広場)と呼んだがその後ブンカルノがLapangan Banten(野牛広場)の名前に変えた。このライオン像の跡にブンカルノは当時西イリアン開放のためのTrikora(三つの要求)に際し西イリアン塔を建設した。。。。
財務省に合体した三つの建物の右の端は1960年代、スナヤンに移る前の国会の建物になった。左側(のママ)の建物は軍のクラブ・Concordiaがあった。
。。。一番左側の部分の建物で他と形が異なってあるのは最高裁判所である。 云々」

1)4つも直線に並んだ建物とは何か 多分現在の財務省旧館は繋がっているが三つに分ける事ができ、一つ離れた左端の裁判所とともに4つとなる。
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旧財務省はダーンデルス宮殿 ホワイトハウスと言われ三つに分ける必要はない。
2)この三つの右端が国会議事堂であったと言うが、ここには多分中庭に入らないと正門玄関はなく、この財務省を国会に使うのなら何故本館を使わなかったのか疑問がある。
3)左側の建物はコンコルディアであったとあるがこれは右後ろに位置し(現在の財務省新館)、ここが国会であったとする他の資料を信じた小生は上記2)を疑うものである。
4)とそこまで原文をいじくるとライオン像はスカルノが壊したとは明確に書いてないことになる。
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財務省旧館前にクーンの像がありライオン像とモナスの間のミチールの像があるがこの3っつの直線の真ん中のライオン像だけを日本軍が破壊しなかった理由は見出せないので、結局不明のままとなる。残念。
古写真のミチールの像の向こう側にライオンの像が見える。

追注: 裁判所が立ったのは1948年、向かって左側である。上記の写真は1930年代とあるから、それが1936年以降なら、右側の建物はコンコルディアである。上記ブログの新館の方にあったというのは間違いであろう。(2017年9月)

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