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2011年6月29日 (水)

6月最終週のクロニクル マンドール事件

6月 23 1596 オランダ Houtman 一行バンテン到着  
1997 総選挙開票、ゴルカール425議席中325議席
1998 ハビビ、東チモールから国軍撤退を表明
6月 24 1951 インドネシア助産婦の日 Hari Bidan Indonesia
1960 ゴトン・ロヨン内閣 イリヤン奪取へ向け
6月 25 1938 インドネシア語協議会結成
1896 Mas Mansyur 誕生 独立英雄
1936 B.J Habibie誕生 第3代大統領
1960 オランダとの国交断絶   ゴトンロヨン国会正式に発足
6月 26 1958 PermestaからMenadoを開放
1947 共産党、国民党マシュミ社会党の反対でシャフリル辞任
1970 Akademi Musik 結成 ジャカルタ
6月 27 1846 オランダ、バリ侵攻、最後はPuputan
1946 Gen soudarsono軍、シャフリルを拘束 スカルノが開放
1961 南スラウエシとスマトラの反乱軍降伏
2000 マルク非常事態宣言
6月 28 1943 カリマンタン Mandor事件、日本軍の虐殺
1965 新聞Kompas発刊
6月 29 1993 Hari Keluarga Berencana Nasional家族計画
6月 30 1949 オランダ軍ジョクジャ撤収
1982 対テロGultor陸軍特殊部隊設置、後に海空軍も

6月28日のMandor事件とは西カリマンタン ポンティアナックで起こった住民のスパイ・反乱計画に現地日本軍が参加者を銃殺にした事件である。参照したAlmanak Sejarahは淡々と「日本軍による大虐殺でボルネオ新聞によると死者は21,037名である。日本軍はポンチアナクのスルタンや 4人のPanembahan、何人かの中国人の反乱計画を征伐するためであった」と記述している。現地の慰霊塔、或いは歴史の教科書にもこの死者数が出ているそうであるが、1942年の10月から43年1月におこった事件の報道はボルネオ新聞の43年7月1日で死刑者数は48名である。 加藤裕氏は彼の著述「大東亜戦争とインドネシア」で戦後のオランダ側の事件の戦争裁判資料などからも多く見積もっても2千人、10倍を超える数字にはとんでもない間違いだとしてインドネシア政府の真摯な検証を要求している。 この数字は現地で生活する日本人にはあまりにも大きすぎる。オランダも4万人の虐殺事件をおこしているからと安心してはいけない。
犠牲者数が何人であれ若くして散った犠牲者も居たことであろう。心から哀悼をささげたい。

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