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2011年7月の投稿

2011年7月31日 (日)

ラマダン ようこそ

今年のラマダンは8月2日からの報道もあったがどうも1日が正しいようだ。毎年偉い人が月の満ち欠けか何かで決めるので前日まで判らないことが多い。00p7300138


今日、7月30日、もう街はラマダン入りしており多くの店がラマダン当日と前日は休みにする。コタに出掛けた時学童の白装束の一団を使って大人のモスリムが騒ぎ立てていた。横断幕にはMarhaban yaa Ramadhan berkerja untuk Jakarta ラマダン ウエルカム、ジャカルタの為に働こう、そしてPKS公正安寧党の政党マークがついて何のことやらわからない。00dsc02673


そこからタンボーラの雑踏を抜けMoh.Mansyurの通りに出るとそこは道にせり出してビッシリ屋台の準備中であった。町の喧騒をお伝えしよう。

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2011年7月28日 (木)

インドネシアの15大観光地開発

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インドネシアの観光地でバリは独立国としてもやっていけるほど地力があるが、これと同じ様な観光地にしたいと言うのであろうか、文化観光省では15の目的地を設定し推進している。列挙してみると
1. Pangandaran (West Java),
2. Lake Toba (North Sumatera),
3. Komodo - Kelimutu - Flores (East Nusa Tenggara),
4. Java Promo - Borobudur (Central Java),
5. Bunaken (North Sulawesi),
6. Lake Batur (Bali),
7. Rinjani (West Nusa Tenggara),
8. Kota Tua (DKI Jakarta),
9. Toraja (South Sulawesi),
10. Bromo - Tengger - Semeru (East java),
11. Raja Ampat (West Papua),
12. Wakatobi (Southeast Sulawesi),
13. Tanjung Putting (Central Kalimantan),
14. Derawan (East Kalimantan),
15. Sabang (Aceh)
である。バリもLake Baturが上がっているので.少し狭い地区を言うのであろう。
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ジャカルタはKota Tuaで去る22日、関係者が集まって推進母体が発進した。予算がつかないとだめであろうが全ての関係者がアイデアと資金を持ち寄ってと言う感じである。ちなみにインドネシアには50もの国立公園がありその内下の6つが世界遺産である。
ボロブドゥル寺院遺跡群、ウジュン・クロン国立公園、コモド国立公園、プランバナン寺院群

サンギラン初期人類遺跡、ロレンツ国立公園、スマトラの熱帯雨林遺産

写真はブロモ、世界遺産クラスである。

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2011年7月27日 (水)

ガルーダ食品とサントリー

4月に「Tudung Groupガルーダのスナック」としてインドネシア食品大手のTudung Groupのガルーダ・フードを取り上げ、彼らの世界ネットワーク作りの戦略を紹介したがそのパートナーがなんとサントリーだったことが判明した。7/15のニュースで サントリーがこの会社と合弁を設立した事が報道されたのである。サントリーは、子会社のサントリー食品インターナショナルでこの地場ガルーダ・フードと合弁で清涼飲料事業を開始すると言うのである。ガルーダの清涼飲料は健康飲料 Super O2があるが、この合弁はサントリー側が51%出資と言うのでサントリーの飲み物を展開するのであろう。
プレスリリースを今読むとガルーダの清涼飲料はオッキー(ゼリー飲料)、マウンティー(茶飲料)らしく最初はこれらガルーダの飲料水をこの合弁に移しサントリーブランドの展開は将来の様である。国内販売会社はガルーダグループの販売会社(これにもサントリーがシェア―取得)が行うのでガルーダのSudhamek社長の思う坪なのであろうか 

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2011年7月26日 (火)

場末のシーフードSantiga

いつものキャンテーンも飽いたので外出のついでにベンヒルでレストランを探して見た。交通整理のおっさんにチナレストランを聞くと近くの路地を指差した。00p7250059


路地を覗き込むまでもなく路地入口にスパンドゥックで大きく宣伝が出ていた。汚い路地であるが勇気を鼓して入って50メートル、店の前も汚いシーフードレストランがあった。仕方ないので入りホットポットタフチャを頼んで昼食としたが、味はまぁまぁ 00p7250061


直径17センチの鍋を平らげてしまった。他の客は蟹に食いついていたが宣伝ポスターによると蟹が名物らしい。 
店の名前はSantiga tel 579-51892(間違いか)
入るるまではスパンドクに1889年創業と読んで喜んでいたのであるが不審に思い帰る時振りかえったら1989年の見間違いでがっかりであった。

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2011年7月24日 (日)

ユニレバーも投資活発

前回世界トップのネスレのインドネシア投資に驚いたが世界第2位のUnileverも負けてはいない。現在スラバヤ工場建設に4兆ルピアを投資推進中であるが更なる建設計画もある。(中身は未公表)、これは2012年迄のユニレバーの5億ドルの投資計画の一環である。

スラバヤ工場は石鹸の生産、チカランではSkin Care用品を担当する。ユニレバー・インドネシアの売上は2010年20兆ルピアで、利益は3.4兆であった。 この7月SWA社のBest Public Companies 2011を受賞している。

このような複合消費財大企業は何を作っているか良く知らない事が多いが将に手にするブランドを良く見ると知らないまま使っているのが多い。食品では、Bango ケチャップ, Blue Bandマーガリン? 、Buavitaフルーツジュース、Royco、Sari Wangi、Taro Snack Wall’s、個人・家庭日用品ではDove、Axe、Clear、Dove、Lifebuoy、Lux、Pepsodent、Pond's、Citra、(どちらもSkin Care)、Rexona、Sunsilk、Vaseline、Rinso、Sunlight、Viso、Vixal、Wipolなど切りが無い。

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2011年7月22日 (金)

DephankamのSudirmanとSumoharjo

国防省の建物は横広で真ん中の建物が目立つため左側の建物を見落とすが、左端の高層近代ビルは措いて置くと、そのビルの手前或いは左側にある入口から入るとその真先にも一つ、建物があるのに気付く。
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此方も白亜の2階建てビルで正面に高い円柱が7本その奥に7本の円柱が並んでいるように見えるのでここは円柱に囲まれたギャラリーを持つインディっシュ造り住宅の名残をとどめているようだ。この建物の最初は1924年のRechtshoogeschoolで右の国防省となっている建物が建築された後はそのSchoolの機能をそちらに移したようだ。 オランダの最高弁務官の住宅にも使われたしKopkanmtib が使った時代もある。この建物は国防省本体をGedung Jenderal Sudirmanと呼ぶのと併せ此方はGedung Jenderal Urip Sumoharjo と呼ぶそうだ。同じ国防省の敷地内にあるので日本占領時代は同じく憲兵隊が使ったのであろう。 
スディルマンの像はあちこちに建っており、道路名も、誰でも知っているが、Urip Sumoharjoはジャティネガラの中心のコイノニア教会の所で左に折れる小さな通りに付けられている。Urip SumohrdjoはSudirman司令官の右腕たる参謀総長であった。ついでに伝記要点を書くと:
1893年中部ジャワ・Purworejo生まれ、マゲランの官吏養成学校、ジャカルタのジャティネガラにあった士官学校を経て蘭印軍(KNIL)に入隊、1935年インドネシア人としては最高位の少佐に迄栄進後辞任、1942年日本軍進攻により逮捕されるが釈放後は田舎にこもる。独立後1945年10月5日のTKR創設に参じ参謀総長、中将となり国軍創設に貢献した。1948年11月に死去、ジョグジャのスマキ英雄墓地に独立擁護英雄として眠る。

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2011年7月20日 (水)

国防省は元日本軍憲兵隊本部

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モナスのムルデカバラット、国立博物館と接している横広の2階建ての白亜の建物は現在国防治安省(Pertahanan dan Keamanan:名前が変わったかもしれないが) として使われている。住所はJl. Merdeka Barat NO.13-14でとなりNO.15は 政治・治安担当調整大臣事務所である。この建物はオランダ時代、1927年Hoytema設計の高等法律学校Rechthoogeschoolであったものであるが日本軍が占領後はあの憲兵隊が使用した。あのと言うのは現地では逮捕者を拷問にした(tawanan disiksa)と言われて有名だからである。憲兵隊時代の前庭に戦車や装甲トラックが数台並んでいる写真がある。独立後は国軍の参謀(SAB)やABRI司令本部として使われた時代を経て1964年国防省が使用する事となって現在に至っている。銅像もないのに、Gedung Jenderal Sudirmanとも呼ばれているのが不可解である。スデルマンは国軍総司令官ではあったが国防大臣になったことはない。初代の国防大臣は行方不明のまま任命されたスプリヤディを除くと実質はシャフリル内閣のアミールシャリフディンなのである。当時はちゃんと軍人がなることはなかったのだ。

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2011年7月18日 (月)

メンテン31も接収

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「メンテンの上記の博物館の説明石碑に次の様な文章があった。
蘭領インディッシュ時代、この建物はSchomper Hotelと言う名前でホテルとして機能していた。
オランダが1942年3月8日に日本に降伏した後この建物は日本軍に接収され、日本を宣伝する部署(SENDENBU)となった。
1942年7月、宣伝部は青年たちに、インドネシアにおいて日本政府を支援する(menyokong)為の青年たちへの教育する場所とした。
その他にも日本はこの建物を独立を迎える(menyongsong:逆行する意味もある)全青年たちを教育する場所として使用する事も許した。この場所は軍政監部・宣伝部により支弁された政治教育の場となった。日本の意図、目標は青年たちを東アジアの勝利(Asia Timur Raya)の士官に育てるものであったが後にインドネネシア青年たちにより曲げられ純粋なインドネシアの独立を目的とした教師となる為となった。この教育センターは後にインドネシアアンカタンバルの塾(Ashrama Angkatan Baru新セン組)として知られるようになり、そして最後はメンテン31塾となり青年たちはメンテン31の青年と呼ばれた。1972年にSTBL NO.231、記念遺跡法及びDKI市長令11・1・12・72により歴史建物として認定され1974年8月19日にこの建物はMuseum Joang 45として博物館となった。」
少し日本軍に行を上げ過ぎである。00jagoan_back


45だけで1945を表しJoangはJuangで闘争であるが
45人の青年たちがメンバーとなったと思っていたが、名前を残した青年たちは20名くらいか それは既に紹介済みである。

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2011年7月16日 (土)

ルーテルの3大原理

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「世界一のクマヨランのメシア・カシドラル」の教会のドームの鉢巻きに文字が書かれているのを知っていながらブログで後回しにした。読める範囲で読むとそこにはSola Scriptura、Sola Gatia、 Sola Fide, Kasihi Allahmu dan Sesamamu、Solus Christusとある。なんとか今日は意味が判りそうだ。最初のSolaはOnlyという意味で
ScriputuraはScripture聖書、次のGratiaはGracia 恵み、FideはFaith 信仰でいずれもラテン語ながらフムムトと言える。次はインドネシア語だからその通りである。最後にまたラテン語であるがキリストの救い的な意味が感じられる。
最初の三つを一つにしてOnly Oneと言うのはプロテスタントの教義、ルーテルの三大原理である。免罪符に象徴された善行なければ天国に行けないと説いたカトリックの乱れに対し信仰こそが救いの道と言った教義なのである。
それぞれがOnlyでなく三つが一つのものの様でSola Fideで全部を代表する事が多い。

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2011年7月13日 (水)

シティホールから歴史博物館へ 日本軍も接収

1905年バタビアは総督の下で公式には初めて市長と市協議会の下で経営される法定都市となった。最初の市長はGJ Bishopで、道路、運河、水浴所、井戸、墓地、ごみ処理所の設置を進めた。協議会はこのシティホールで行われた。その後1913年に一旦アブドゥル・ムイスに移ったが1919年には現在のムルデカ・スラタンに移転した、
1925年に、州制が引かれバタヴィアはバンテン、プリアンガン、チレボンを含む西ジャワ州となり、州政府がこのシティホールを使用する事となった。日本が占領した時代には州は廃止され、オランダ時代のレジデンシが復活された。又日本軍はオランダ人公務員等すべて収容所に収容し公式文書も焼却したため市行政は衰えた。このシティホールは1945年まで日本軍の物資管理事務所として使用された。その後一旦未使用となった後1952年に市第1軍区司令本部として、その後西ジャカルタ503連隊本部になり16年後市に返却された後1974年3月30日、時の市長アリサディキンがジャカルタ歴史博物館としてオープンしたものである。
写真は裏庭から。今ならmだ見られるか見どころは?
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1階に前史時代からヒンズー・仏教時代の石碑、ポルトガル時代の石碑があるが全てレプリカである。見どころは、ヘルメスの像、大砲Si Jagur、絵画:デポネゴロ王子の逮捕、日本女性サラ、エーベルフェルトの首がストリートしても面白い。
最初のシティホールは1619年頃、2代目が1627年、現在の者は1710年に建った歴史があるので何が1905年なのか、単なる市制の問題だったのでろう。

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2011年7月12日 (火)

Citadines ジャカルタ

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バックパッカー集まるちょっと汚いジャラン・ジャクサを背に白亜のホテルみたいな建物が立った。看板にCitadine Apart Hotelと出ている。Serviced Residenceの大型ビジネス版といえるが一泊から1週間更に1ケ月以上の長期滞在者を狙って、設備のキッチンが備わっている。勿論ジムやプール、IT ファシリティも設備している。欧州発のAscottが展開しているもので世界60都市、日本にも新宿と京都にある。シタディーン京都の料金は1泊2万円台、ジャカルタのここはオープニング記念では$65であったが今はどうだろう。電話2995-6888に問い合わせて見たら良い。135室を保有している。
今じゃ使うアイデアもわかないが。。

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2011年7月11日 (月)

6月、未だ続くインドネシア投資

*NECアルファマートに販売時点情報管理システム納入で合意、1万台以上納入
*丸紅、地元シュープリーム・エナジーと仏GDFスエズとランダウデダップ地熱鉱区
*JBIC&みずほ&住信、昭和電工がアンタムとのアルミナ製造に計263億円の融資。
*アサヒマス、チレゴン工場(バンテン)の電解設備能力30%増強計画。
*日産自動車、チカンペック工場の年産能力を現5万台から10万台に引き上げ計画
*楽天、ショッピングサイト「楽天ブランジャ・オンライン」オープン
*住友商事&Jパワーシステム、東ジャワ~バリ海底電力ケーブル敷設プロジェクト受注
*6/2 伊藤忠&Jパワー、スマラン火力(1千MW)建設を受注、アダロと共に、投資$32億
*ホッカン・ホールディングス&豊田通商、清涼飲料用容器製造・受託充填会社の設立へ、
*東洋エンジ、インドネシア・ペトロケミカル・ブタジエン社のブタジエン製造設備受注
*パラ・グループ、バンドンにもテーマパーク「トランス・スタジオ」、投資約2兆ルピア。
*韓国電力公社、ボジョネガラにガス火力発電所建設し、国営PLNに売電計画。
*韓国石油公社と韓国ガス公社、ガス田開発し、同発電所に送る。規模$20億。
*中国アンフィ・コンチ・セメント、カリマンタンと西パプアにセメント4工場計画
*米トランプ・ジュニアが来イ、イ進出を視野にと発言
*ロッテ・ショッピング・プラザ、チプトラワールド内に初の百貨店オープンへ、面積13万平米
*ハンコック、デルタ・シリコンに工場建設、年530万本、従業員1,400人
*PT Piaggio Indonesia、正式オープン。伊本社は来年にもイに工場建設計画。
*ユニリーバ、石鹸生産の拠点を独からイに移転検討、イ工業相言。
*BMWグループ、向こう2年間に対イ1千億ルピアの拡張投資計画。


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2011年7月10日 (日)

オランダのお金と技術で

ジャカルタとオランダを結ぶニュース2題
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一つはファタヒラーのジャカルタ博物館であるが、荒廃が激しいためオランダのお金で保存工事が始まることになった。提案書は既に出されたと言うが工事開始は2012年からで完了が2014年という。
2012年までは準備期間なのか、とにかく、エニー館長によると2014年迄閉鎖されるそうだ。何時からなのか4年間とは理解しがたい。

ジャカルタは地盤沈下と海水レベルの上昇が激しくジャカルタ湾岸防備戦略の調査によると203,0年には海の下になると言われている。提案としてはジャカルタに干拓地を作る事でそれには50km2もの広大な地域に海水の貯水池を作るため巨大な護岸の建設が必要になる。これこそオランダの技術が必要とされている。オランダの国際関係担当大臣は調査チームを派遣済みで4百万ユーロを準備に用意しており、20年内に終わらねばならないとの事である。

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2011年7月 9日 (土)

首都脱出・首都移転

ジャカルタはもう居住に適してないと言う人が68%だと言うインドネシア情報ラインの話を読んで思い出したのが、
首都移転である。大昔未だスハルトが統治していた頃、息子のバンバンが突然首都移転地をJonggol と言いだした事がある。思い出した地区名は最初はjogloであったがこれはKebun Juruk とCiledug の間にあるクルラハンで近すぎる。どうにか行きあたった場所はボゴールで丁度セントゥールの裏側に当たるJonggolである。
最近首都移転の話はないが、昨年9月ごろのニュースにこれが出ていた。火付け役は大統領その人でKADINでのブカブルサマで政府・関係省庁は戦略的一歩を踏み出すべしとぶち上げた。その移転先がここJonggolであったのだ。 大統領府には既にシナリオが用意されており、一つはカリマンタンのPalankaryaの広大な土地が云々されるがこれは現在のジャカルタとの距離が遠すぎるとされ、後一つのジャカルタのままその近代的都市つくりを改善すると言うもので両極端があり、落とし所はクアラルンプールと同じく現在の首都の近くに政府機関を移そうというものの様だ。 さてどうなるか。多分裏話もあると思われるので推移を見守りたいが、投票をすると首都脱出に票を入れるものの、本心はジャカルタから抜け出せないもののようだ。他人は追いだしたいがという所だろうか。国民全体の意見を取ると首都を持ってきたい地方の意見で収拾は付かないだろう。

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2011年7月 8日 (金)

MR.CCC モフタール・リアディ病院

会社の横にあのビルが建ってもう大分経つがやっと大統領を招いてオープニングにこぎつけた。 00p3180016


Mochtar Riady氏が立てたSiliam Hospitalの第7番目の病院である。正式名称は自分の名前を冠してMochtar Riady Comprehensive Cancer Center (MRCCC) Siloam Hospitalである。がんの病院としてはインドネシアで1番大きいとかで30階建てのビルの中に375ベッドを設備しているとかで建設費は139百万ドル。
Siloam Hospitalの旗艦はリッポーカラワチにあり、 1996年にオープンPT Lippo Landi Tbkが建設した。。此方には187の医師を擁し(内42名がフルタイム)で米国のJCIの認定を受けている。他に展開しているのはCikarang、 Kebon Juruk、Surabaya, Jambiとある。 現在はPT.Lippo Karawaci TBKが所有していると思う。 日本を含め他国との提携もしており、最先端であるので、安心である。

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2011年7月 6日 (水)

今さらのチマレメ事件

1901年オランダのウイルヘルミナ女王が1901年に倫理政策を打ち出した後、1918年にはvolksrad国民参事会が開設された。時の総督ファン・リンブルフ・スティルムは自由主義者でチョクロアミノトを参事会メンバーにしたことは皆を驚かせ、更に第一次戦後の混乱の中に出した「11月宣言」は更なる将来の改革を約するものであった。しかしこの時が倫理政策の転換点で、イスラム同盟の進展に伴い起こった暴動から一転弾圧へと変わっていった。その暴動の一つがチマレメ事件である。1919年7月7日、ジャワ・ガルットのチマレメ村の税金納付拒否に端を発した暴動である。倫理政策を短期間に終わらせた要因はこれらの底辺に共産主義者の過激な動きが出てきたことが大きい。

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2011年7月 5日 (火)

パサジュマでは何のことやら

インドネシアの原発を調べている時、http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?の大論文の中に次の文章があった。「1965年に原子力研究所は大統領直属の機関である原子力庁(BATAN:Badan Tenga Nukir Nasional)に昇格し、原子力行政と研究開発を担当することとなった。その後、BATANは、(1)アイソトープ・放射線利用研究所(ジャカルタ・パサジュマ地区)、(2)原子力技術研究所(バンドン)、(3)ジョグジャカルタ原子力研究所―を中心として研究施設の拡充を図った。」
地名となるといざ行かねばならぬといきり立つ小生であるがパサジュマと外国語臭い地名には攻める手もなく沈黙していたのである。所が、先日の「パッサール・ジュマートはどこ」を書いた後だからかパサジュマとはパサール・ジュマートに違いないとひらめいたのである。
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BATANは写真の通り、確かにPasar Jumatにあるからである。ここは2階建てを超える建物はないようで、見た目はさみしいが広大な敷地であるので放射能の心配はないであろう。
あの時引用した有名な筆者もジュマッとか必ず最後の子音を消してしまうがこれがいくつもあると訳が判らない。日本人は日本人らしく言語の発音は口の端にとどめ文体は文語体で行きたいものである。元々カタカナにするからイケないのであろうが、今もって吹き替えない英語の映画は理解できない小生のつぶやきである。


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2011年7月 3日 (日)

タマン・シスワは現代にも

今日、7月3日はタマン・シスワが創設された日である。 民族運動がほうはいと盛んになる時代にスワルディ・ニングラット(デワントロKi Hadjar Dewantara)が、Sloso KliwonのPaguyuban(親睦会)の友人たちとジョクジャに作った私立学校である。Tamansiswa.とは学童の園と言う意味で児童は教師と共に起居しインドネシアの文化・歴史を学びながら全人格的教育を目指した。 日本占領時代や独立の混乱をくぐりぬけ現在も129校が生きている。00etro_houdt_een_voordracht_over_de


古い写真は寺子屋風のものもあるが、現代風のものもあり、感銘を受ける。モットーは"di depan menjadi teladan, di tengah membangkitkan semangat, dari belakang mendukung"として現代にも生きている。現代の本部はジョクジャのBalai Ibu Pawiyatan (Majelis Luhur)にある。
ジャカルタにもあるかとgoogleで探したら ジャラン・ガルーダ25にあると言う。00taman_siswa_jkt_20100718_dsc01639


これはクマヨランに続く道なので記憶があり、小生の写真集を探したら、なるほど出てきたのがこの写真である。前に古そうな家(Balai Pertemaan)があり後ろに高めのビルがありSDからSTIE(大学に相当)まであるようだ。5月2日がインドネシアの国家教育の日になっているがこちらはデワントロ生まれた(1889年)である。

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2011年7月 1日 (金)

イ投資はこのように トップのネスレ

ネスレが相次いでインドネシアへの投資を増強している。今月カラワン(西ジャワ)にミルク工場で1億ドルを投じるニュースがあった。この工場は来年稼動予定だがさらに1億ドル投じて増強計画も持っている。昨年1億ドル投じてクジャヤン(東ジャワ)のミルク工場を増強したばかりだから合計3億ドルと巨額である。
ネスレとは昔ネッスルの名前で有ったが、1994年本社のフランス語読みに変更したそうで、ネスカフェの違いが判るでコマーシャルには辟易したものである。ネスレはスイス人のアンリ。ネスレが1866年にベビーフードを手掛けたことから時流の波に乗りミルク、チョコレート、ミネラル分野でM&Aを繰り返し世界トップになった本社スイスの企業である。
先般アジアにおけるプレゼンスを中心に世界のトップ食品企業をリスト(①位 Unilever 56438、②PepsiCo 39,474、③Kraft Food 37,241、④CocaCola 28,857、⑤Danone したが世界ランンクではトップのユニリーバを圧倒しているのがこのネスレなのである。Webによると
1位 ネスレ (9342億円)
2位 ユニリーバ (5224億円)
3位 ペプシコ (3979億円)
4位 クラフトフーズ (3854億円)
5位 コカ・コーラ (2939億円
で大事な1位が漏れているだけで5位迄は変わらない。

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