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2011年8月16日 (火)

独立英雄候補No.1

うっかりしていたら終戦記念日も過ぎ、今日はインドネシアの独立宣言前夜である。
1945年8月11日スカルノ、ハッタ、ラジマンの3人がサイゴンから300km離れたダラットで寺内元帥・南方軍総司令官から「インドネシア独立」の確約を得、8月14日午后5時バタビア空港に戻ってきた。
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既に16日には独立準備委員会の手配を整えていた中でスカルノ(グントールと家族3人)とハッタは独立宣言を急ぐ急進青年団にデンガスデンクロックに誘拐されたが前田精海軍武官府のスバルジョの説得でジャカルタに戻ることが出来16日夜、最後の宣言文が整い17日朝の宣言にこぎつけたのである。そして18日以降、憲法、内閣、自治体、治安軍等矢継ぎ早に導入されたがそんなに簡単に独立が達成できるのかと驚くが、それは日本軍により独立への準備過程があったのである。1945年4月29日(天皇誕生日)に独立準備調査会(BPUPKI メンバー73名)が設置され、5月末の第1回会議が開かれ6月1日にはスカルノによるパンチャシラ宣言も行われた。憲法草案は7月10日からの第2回会議で討議され16日に完成していたのである。そして8月7日に準備調査から愈々準備ということで独立準備委員会(PPKI、メンバー27人インドネシア人のみ)が設定され16日に会議を行うことでメンバーは全国からホテル・デス・インデスに集まりかけていたのである。これがスカルノがあわてて独立宣言を発する事なく準備の延長で行うとした背景である。しかし拉致がなければ17日でなく16日で独立宣言が行われたのでは
ないかとの観測もある。 ラジマンとはBPUPKIの会長を任じられていた人で伝記を読むとジョクジャの貴族でなんと蘭仏英米で学び、1914にはブディ・ウトモの会長またVolksraad議員を務めている。 最後は1950年単一共和国達成後のDPR議長であるが、何故未だ独立英雄になってないのであろうか
Dr. K.R.T. Radjiman Wedyodiningrat (lahir di Yogyakarta, 21 April 1879 – meninggal di Ngawi, Jawa Timur, 20 September 1952 pada umur 73 tahun)

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