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2011年12月の投稿

2011年12月31日 (土)

インドネシア来年を占う今年の10大ニュース

いつの間にか2011年も最後の日を迎えていた。私が選ぶ2011年のインドネシア重大ニュースは以下の通りである。
*東日本地震・津波、タイ全土大洪水等災害での生産調整
*EU経済崩壊、中東政権崩壊の影響ジワリ
*経済大国への道進む(2020年世界10位)
*外国企業進出嫌悪感(金融業界、輸入規制、外貨集中、販売のみの進出、保税国内出荷制限)
*パプア緊張高まる
*体質変化は尚時間(汚職、人間開発、競争力、テロ)
*外国投資ラッシュで工業団地、中堅社員不足
*サービス産業の進出(楽天、JCB、リクルート、リース、生保、物流、税理士・弁護士、道路)
*中産階級さらに進む 最賃1.5百万時代へ
*政治の季節入り(パロー国民民主、トミー共和党、スリ独立国民 、バクリー、ハッタ) 
2012年につながるいいニュースはすくないが、中庸・マイペースで進むだけだ。

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2011年12月30日 (金)

Year-end Gift 出稼ぎ女中に死刑赦免

昨日、サウジに家内労働者として出稼ぎしていたBayanah (本人の名前)binti (娘の意味)Bahnawi(父親の名前)が死刑を免れインドネシアに戻ってきた報道があった。彼女は雇い主の4歳の子供を入浴させていた時誤って熱水で死亡させたと言う罪で6年拘束され、最初の4ケ月で300回の鞭打ち刑に処された後2009年に死刑が宣告されていたものであるが、雇い主が許した事が決めてであったろうが、インドネシア側の働きかけもあり、他の死刑囚二人も赦免されている。
今インドネシアの海外出稼ぎ労働者の待遇、事業者規則とかが問題になっており、その前に出稼ぎ国で無残な死刑囚となっている人たちが多くいる。サウジでは既に30人が死刑を執行され、尚47人が死刑の獄中にいる。死刑を待っている数で一番多い国はマレーシア で148人、イランで3人、シンガポール2人だそうである。これに対しインドネシアではTask Force for Indonesian Migrant Workers(BNP2TKI)が大統領直属(?)機関としてあり、大統領も個別にサウジの王に赦免を願い出たりやっている。 ハビビ元大統領も今、別事件でサウジに出掛け死刑赦免のロビー活動をしている。アラブの雇い主にレープされ、防衛の為殺す羽目になったとか悲惨である。
彼らは大統領のユドヨノや元大統領のハビビに感謝している。

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2011年12月29日 (木)

どこへ行く汚職撲滅委員会 KPK

2004年のBI副総裁選挙に絡む収賄事件で、総額240億ルピアのTraveller’s Check480枚を選挙権のある国会議員にばらまいたNununという女史がシンガポール、バンコクの逃亡生活の後つかまり、昨日KPKの質問で悠然としたファッションで現れたニュースがあった。もうすでに国会議員等も逮捕されているが当の張本人Miranda Goultomは未だで、これからKPKが召喚する予定である。
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まだまだ終わってなかったのだと驚くが、BLBI事件もCentury Bank事件も終わってないのではないだろうか。多くの事件が持ち込まれ、KPKの長官すら巻き込まれるようでは、事件の解決にはKPKだけでは出来ないだろう。
結局旗は振ったが、どの大統領も改善したと言う記録はなくむしろ悪化すら感じられる。
最近では東南アジアスポーツ大会の選手宿舎建設でスポーツ大臣・民主党事件、北スマトラ州長官事件、移住プログラムの労働省事件、バリ観光官庁事件、社会省ミシン事件、北ジャカルタ商業裁判所判事事件、内務省消防車事件、警察長官リアウ事件、林業大臣シンガ大使館事件、ガユス事件。。。。

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2011年12月28日 (水)

求解明 スラバヤ英雄の塔の怪

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スラバヤ随一のアイコンは英雄の塔だと思っているが、トリップアドバイサーの観光名所では第17位となっている。1位はサンプルナ記念館であるが多くはモスク教会関連や現代的に遊べる所である(ゴルフが2件も入っているが家族向きではない) この英雄の塔の足元に11月10日ミュージアムがあり、将にここが独立に向かって戦った英雄の日を祈念するスポットである。 英雄の日の描写はこのブログでも「11月10日スラバヤ英雄の日のBung Tomo」として取り上げたが、この戦いは「スラバヤ100日戦争」と言われ、最大2万人が犠牲になったと言われている。この記念塔は6年後の1951年11月10日にスカルノが建設着工し翌年除幕した44メートルの塔である。この地には日本時代は憲兵隊の本部があった。
この辺りの話は少し古いがスラバヤの都市伝説らしい。誰かに調べてもらおう。

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2011年12月26日 (月)

これも果物か(と思った)Serikaya

クバヨランバルにSukunの木(パンの木)があるのを見つけて驚いたが、まだ一つ知らない果物があることが解った。それもあのクバヨランのJenggalaの意味を辿って見つけたわけである。つまり
Jenggala->Serigala->Serikayaの語感トレースで行き着いたのである。

めったにお目にかかれるものでなく、ジャカルタを去る前にもあちこち探して見たが季節も違うのか失敗に終わった。と思ってネットを探るとなんとこれは果物ではなくトーストなどに塗るジャムの一種であるとKinako女史のサイトで知った。
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ついでにその写真も拝借したが、このジャムはココナッツ、砂糖、卵の黄身を材料にして作るようである。うちの運ちゃんも車の窓越しに一生懸命混んだパサールで探してくれたが、あれで果物と思っていたのであろうか 今苦笑するが、(知らないと)無口な彼の事、本当の事は解らない。Kinako女史はどうもコタキナバル在住の様であるのでジャワ人にはなじみのない元々はマレーシアの物かも知れない。今度はパサールでなくスーパーで探して見よう。尚道路名を再度地図で確かめるとJenggalaが正しく、またSederetBrowserではJariの意味である。ジャングルの意味と申し上げたがその言葉(Jenggalla?Jangala???)は何だったのか今思い返しても幻であった。Sorry

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2011年12月25日 (日)

VOC造船所 オランダの足跡

BERITAJAKARTA.COM — 24/12/2011
インドネシアは古代より海上貿易ルートで戦略的国家であった。オランダがインドネシアを植民地化してインドネシアの香料貿易を独占せんとしたのも不思議ではない。彼らは東インド会社 Vereenigde Oostindische Compagnie (VOC) を設立した。
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オランダの植民地化350年で残した足跡はいくつもあるがその一つがVOC造船所である。それはJL.Kakap NO.1-3  にあり1628年に建設された。
ここでは会計係や地図製作で多くの現地人が働いて多くは中央の建物に寝泊まりしていたが、食べ物は粗末で労働は厳しく些細な間違いでもEquipagemeester(造船所トップ)に殴られる生活であった。
ここで多くの船がに荷物の積み下ろしを行い、修理を行いアムステルダムや長崎など世界の港につながっていた。
1999年ジャカルタ市はここを記念史跡に認定したがリノベさせるため民間に任せた。この建物の建築はユニークで中国やヨーロッパの様式がミックスされ、オリジナルな部分は窓、ドア、床或いは壁のデコレーションに現在まで残されている。そうしてこの12年良く保存され、レストラン、カフェ、中国舞踊スクール、ギャラリーとして使用され多くの観光客を引き付けるようになった。多くのオランダ人がその祖先の歴史を記念する為訪れる。オープンは11時から6時までで火曜日はクローズされる。

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2011年12月23日 (金)

愛される「スラバヤ」

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スラバヤでも書き忘れは一杯ある。英雄の都市のアイコンである竹やり(Bamboo Rancing)のモニュメントもその一つである。どの都市にもある通りの名前、パングリマ・スディルマン通りの出張った公園の端に立っている。この公園のモニュメントの反対側の東側は一寸したスペースがあるので多くの車が一寸駐車して憩っている。
このモニュメントは多分日本の本土決戦の最後の武器がインドネシアの独立戦争に受け継がれつかわれたのであろう。スラバヤはこの槍に象徴されるように1945年11月10日の英雄の日の町である。その日を謳った「スラバヤ」と言う題の唄の他に、後二つ「Surabaya」 と言う唄があったことを思い出しYou Cubeで探して見た。二つ目はKoes Pulas(Laju2~)が謳っていた。三つ目がオランダが作った「Soerabaya」 で期待もして無かったがYou CubeにはちゃんとAnneke Gronloh の歌唱で見つかったのには驚いた。ただ、Gronlohさんは余り魅力的でなくがっかり。(他にMirellaさんのもあり)歌詞もオランダ語で解らず結局皆が知っている1番目のLagu Surabayaを口ずさむ羽目になったが、慈恵など殆どの店ではこれしかないので正解である。

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2011年12月22日 (木)

母の日からKOWANIへ

Facebookで今日はHari Ibuであることを知った。MishaもIrmaも或いはEvaもRenaも自分自身がHahaであるがFacebook でHahaの感謝と加護を祈っていた。本来自分の母に感謝しまた次世代へのAnakを育てる女性の地位を高める日である。この母の日は世界各国ばらばらで12月22日としているのはインドネシアだけで、日本・米国など多くは5月の第2日曜日(他に英3/14、仏5/30、露3/8等ばらつく)
インドネシアの女性運動は1912年にKartini、Sartika、Dahlan、Meutia、 Dhien、Tiahahu等女性(後に英雄に叙勲された綺羅星)たちにより組織されたが、000pendapa20bpsnt


これら30の組織が集まってジョグジャのDalem Jayadipuran会館で会議を開いた日が1928年12月22日なのである。後にインドネシア女性会議(Kowani)が組織され現在は世界の組織ICWに加盟している。 父の日も似たりよったり、日本など主流派6月の第3日曜日、インドネシアは11月12日であった。Dalem Jayadeperanは現在Balai Pelestarian Sejarah dan Nilai Tradisional Yogyakartaという記念会館になっておりそのホームペイジから会館の写真を借用した。
semoga Allah selalu memberi kesehatan n keberkahan tuk kalian.

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2011年12月21日 (水)

R&Iは何者 パプアはネットに聞け

パプアの独立話に関連して、広沢さんから戦前の地図を送って頂いた。000papua_newgenia


この地図によると①このニューギニア島はパプア島( )でニューギニアと付記してありパプアがメインであった事、そう言えばポートモレスビーの豪州側の港湾がパプア湾であった。②ニューギニアの北部はドイツ領でなくオーストラリアの信託統治となっていた事が判った。一寸ネットで調べるとオランダが西半分を領有したのは協定でなく1828年に領有を宣言したのみと言う話でもあった。又ドイツがこの地に関心を示すのは19世紀後半、民間会社の進出やスペインから購入したりしてドイツ領ニューギニアを建設していたが第1次戦敗北で日本が赤道北を委任統治し赤道以南はイギリス(豪)が取っていたのである。
今日のGoogleニュースで先ほど日本国債の格下げが出ていた。愈々日本の債務問題が本格化すると身を引き締めたが、良く見ると格下げしたのは日本国内のR&Iとか言う会社であったのでつい怒りの筆となった。このような会社は、実業の世界を混乱させて利を漁る投機家向けの会社で、偉そうに格付けしているが評価は誰でも出来る。評価するのであれば処方箋を出して初めて己の格付けが出来ようと言うものだ。そういう手前も評価しているが手前の処方箋はVATをすぐにでも引き上げる事である。大胆さが無い、理屈をこねまわす輩が多すぎる。野田民社党も敗北確実路線を走っている。言いたいことは沢山あるが日本の日々動く民意はどこを見ればいいのであろうか TVも民意の動きをネットで取って評価報道してほしい。幼い意見、身勝手放談、専門気どりは要らない。

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2011年12月20日 (火)

パプアはとっくに独立していた。

12月に入ってまたパプアが燃えている。ニュースを手繰ると
12/1 パプア独立記念日:パプア各地でデモ、治安部隊との衝突も。
12/3 プンチャックジャヤで武装集団が警察機動隊を襲撃。機動隊員2人が銃撃で死亡。
12/13日 Paniaiで軍がヘリコプターで攻撃、14人死亡、住宅75、学校6焼失
12/16 パプア・キリスト教会指導者の陳情、ユドヨノMatoa作戦停止

今後目を離せないが、12月1日が独立記念日であるとの報道は何であろうか
その前に地理的名称が混乱しているので整理すると:この島全体はニューギニア島と言い日本の2倍強、グリーンランドに次ぐ第2位の島である。ニューギニアというのはスペイン人がアフリカのギニア人にたとえた北部を言い、一方パプアの意味はポルトガル人がちじれ髪を評したマレー語でどちらかと言うと中央山脈の南部を言う。1848年にオランダとイギリスがこの島の版図を取りきめ西側をオランダが取り東側をイギリスが取った。イギリスが取った地域の北側は1884年ドイツが統治した。(閑話休題;従い太平洋戦争時には日本軍はオランダ領と元ドイツ領を占領した事になる。そのニューギニアの北側の島嶼部にはラバウルのあるニューブリテン島やブーゲンヴィルやソロモン海戦のあった諸島が戦史に出てくる。南部にある豪州統治のポートモレスビーを攻略せんとし最悪の戦地となった。)この島の東部はイギリスから豪州が継承した後、1975年9月16日(クロニクルの8/16は間違い)にパプア・ニューギニア国、イギリス連邦の一つとして独立した。従い12/1のパプア独立とはこのパプアニューギニアの独立の事ではない)
島の西側は蘭語で何と称したか知らないが(蘭領ニューギニアか)ニューギニアをビアック語でイリアン(東部の意味)と言い西イリアンとも言っていたようだ。ニューギニアを東西に分けたのであるのでこの面積は42万km2、日本に比べ余りがある。)このイリアンバラットは1963年にインドネシア領となり1973年イリアンジャヤと改称し更にこれが2002年にパプア州と改称した。その西部、鳥の頭の形をした地域は蘭語でもVogel kopfというが、この西イリアンジャヤがパプア州(州都ジャヤプラ)から分離して2003年西パプア州(州都マノクワリ)となっている。この西パプアにフリーポートがありその従業員スト等の抗争・殺人はパプアの独立運動とは別物ではある。パプアの独立運動は1961年に西パプア独立宣言があり、今もこれがパプア人の記念日なのである。それは1961年未だ実効支配していた蘭による総選挙・議会開設を認めたもので12月1日国旗掲揚の式典をあげた独立を言う。
当時はニューギニア全体をパプアとも呼んだことになる。
上記の内容からでもパプア、ニューギニア、イリアンが飛び交い少ない地名を取り合いする為、時代によりどこを言っているか確かめて読まないと混乱する原凶になっている。

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2011年12月19日 (月)

国防研Lemhanasとスダルソノ氏

大正大学の門で思い出したのはクブンシリーにある国防研(国家強靭)の門である。00kebun_seirih_041


門は大きいく開閉扉はないと思ったがやはり低いながら細い鉄柱の開閉塀があった。
この国家強靭研究所(Lemhanas)からは何故かJuwono Soedarsono氏を思い出す。彼が未だ大臣になる前にどこかのレストランで一人で食しているのを見掛けたことがあるが声を掛けるのは一寸気が引け、そのままどこのレストランだったかすら忘れたが、多分1995年頃で彼がこの研究所の副研究所だった時代かもしれない。一市民的でけれんみが無いのが印象だ。
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彼は父は遠い昔1940年代シャフリル内閣の大臣だったそうだが、国防大臣迄登り、5代の大統領に信頼されたのは、この血筋より、この性格と学識であろう。 政治に入る前はインドネシア大学の教授であったが、彼自身UI 卒である。そのあとハーグのInstitute of Social Study、バークレーのキャリホルニャ大学、ロンドンでのSchool of Economyで研究を続けNYKのコロンビア大学で教鞭をとった。5大統領とはスハルト(国防研及び環境大臣)、ハビビ(教育大臣)、ワヒッド(国防大臣)、メガワティ(英国大使)、ユドヨノ(国防大臣)である。国防大臣は最初のシビリアン・コントロールを達成した記念の大臣である。
彼のホーム頁のギャラリーには英米独仏伊豪北京泰等の訪問写真はあったが日本にはこなかったのであろうか。
氏の写真はご自分のホム頁よりこのWikipediaの写真の方がよい。

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2011年12月18日 (日)

不気味なミッタル

2~3日前新日鉄と住金の合併が公取委から承認されたニュースが流れた。新聞情報によると;
現在世界4位に迄落ち込んでいた新日鉄が19位の住金と合併し2位に迄浮上すると言う。何故ここまで落ち込んでいて尚且つむしろ海外から被買収のリスクまである日本企業の存続に公取委等が偉そうに出てくるのか違和感があった。そうしてアメリカ(まだUS Steel が復活できたが)、英国、フランス、オランダなどが国内市場を外国、それもインドに明け渡している歴史があるのだ。
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世界の粗鋼生産約12億の内10%を占めるアルセール・ミッタル社がトップの1億トンであるが、このインド生まれのラクシュミ・ミッタル(世界大富豪トップ3?)が世界の製鉄業を買収しながら巨大化、米国のベツレヘムやリパブリク・スティールを買収、仏のユジノールやスペインの企業と合併トップであったアルセロール迄買収した買収歴史であった。第2位の宝鋼集団(3,700万トン)、第3位ポスコ(3,540万トン)第4位新日鉄(3,500万トン)であるがこの2位も3位も全て新日鉄の立ち上がり技術支援があっての現在の地位なのである。まぁ親が子供の成長に油断したのかもしれない。5位JFE(元川鉄・NKK 3,110万トン)は高級傾斜で成功している。6位は江蘇沙集団と9位の鞍山鋼鉄共に22百万強は急成長した中国鉄鋼業全体では4億トンの上位企業で、この間にブリティッシュ・スティールを買収したタタ・スティール(インド)とUSスティールがある。ちなみに神戸製鋼所は第27位の8百万トン弱であった。
ジャバベカにあったMittalの工場は写真を向けると守衛が大声を立てたのでこの程度の写真しかないが、一時クラカタウと合弁(現在はポスコが成功)の話まであったが現在は何をしているのであろうか。不気味であった。

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2011年12月17日 (土)

門ではないゲート 大正大学

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門シリーズが頭にあり写真に撮ったのが巣鴨にある大正大学の入口の門である。一寸変わった風貌があり、隅を探すとさすがに学究、ちゃんと紹介文があった。大正大学はその前身があり、この地に明示41年に建設されたその名も宗教大学そのもので、大正15年に大改修大正大学と改称したものである。その際宗教大学の講堂の車寄せをイメージしたゲートを作ったものがこれである。
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この講堂は高さ15mのバロック風の堂々たるもので真ん中がその屋根が四角のドームとなり左右両翼に建物が伸びている。この講堂はその時に解体されたが、講堂真ん中にあった車寄せは有形文化財として今犬山市の明治村に移設されていると言う。道理で変わった風貌なのである。門であるのに開閉されずいつも開いている。思いついた人に警服である。

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2011年12月16日 (金)

SESKOALの好きな唄 Bubuy Bulan

SESKOALからSESKOADを調べているときにこの軍の頁にBubuy Bulanと言う似つかわない言葉、何か懐かしい唄の題のようで確かにYour Tubeにも出ていた。関係があるのか歌詞を調べて見たがスンダ語で次の様であった。
Bubuy bulan, Bubuy Bulan sanggray bentang
Panon Poe Panon poe Disasate
Unggal bulan unggal bulan abdi teang
Unggal Poe Unggal poe oge hade
Situ ciburay laukna hase dipancing
Nyeredet hate Ningali ngeplak cina
Duh eta saha nu ngalangkung unggul enjing
Nyeredt hate Ningli sorot socana
月と星、太陽は毎月新月に追われ、私は1日とて貴女を探さない日はないとか愛の歌であった。スンダはジェイポンガンの踊りが有名で、誘われて行くうちに静かなEs LilinからMojan Priangan に来て、何時かMilla BarbyのKucing Garongに出会うとは驚いた今日であった。
これも1行だけ、Kelakuan si kucing garong、Selalu ngulati sasaran、Asal ndeleng pepesan、Wajah bringasan…また意味を聞きに行かねばならない。

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2011年12月15日 (木)

SESKOADでスハルト躍進

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SESKOALに対して、SESKOADと言えばスハルトの話で出てくる。1959年10月13日彼が未だ38歳、大佐でデポネゴロ師団長からバンドンのSESKOADの学生に左遷された時である。師団に来たのが1956年であるがこの幕僚長から師団長になる時代、彼は彼の部隊の為にハディスペノ・スマラン市長やスジョノ・フマルダニ少佐、ボブハッサン達と金集めに精を出した。師団長からナスチオンの副官になるガトット・スブロトはスハルトのこの汚職を切る為に温情的左遷をしたとされ、後のちスハルトは心ひそかに感謝した形跡がある。何故温情的になったかと言うとボブハッサンはガトット・スブロトの養子であったのである。SESKOADで彼はナスチオンの地域管理理論(市民の任務)に傾注した10ケ月を過ごし60年に准将、62年に小将と逆に出生していく。1961年ナスチオンの夢の実現となるKOSTRADの司令官として中央復帰したのである。写真はバンドンに行った時撮り損ねたので、Sinung Baskoroの写真集から頂いた。この陸軍参謀・司令官学校は陸軍幹部大学とでも訳するほうがいいのか、ただ陸大ともちょっと違うようだ

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2011年12月14日 (水)

AKABRIよりアカデミTNIへ

この1年「今日は何の日」のカレンダーを作ったが、原典の不正確さと手元のVistaパソコンで別途作った年表で年月等の縦の列のみの挿入機能などが働き、正確を期すのには大変苦労した。最終月の12月を開くとAKABRIが1965年12月10日と16日及び1967年12月に出ており、また間違ったかと唇をかんだが、AKABRIの歴史を読むとそうでもなくホットした。
AKABRIは最初の1945年10月31日、YogjakartaにTKR参謀のU.Sumoharjoが設立したMilitaire Academiに遡るがその後種々各地のSekolah Perwiraや4軍それぞれのAkademiの歴史があるが それを統合したのがGatot Subrotoで1965年12月10日の制定法律でAKABRI(Angkatan Bersenjata Republik Indonesia)と言う名前で.発表され、16日設立されたようだ。YogjaからMagelangに移ったのはその前1957年のAMNの時代である。
1967年はAKABRI UDARAT(UmunとDaratの2部門)として再発足したのがその年の12月である。1984年更にABRIの組織としてし別途陸軍のAKABRI Darat変更はAkmi(Akademi Militer)となった。
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現在、このAKABRIは1998年リフォルマシにより1999年4月1日の警察軍の独立という組織変更により消滅し現在はAkademi  TNIと言う。 SMAを卒業した人が入学の資格があるPerwira(将校)養成の学校であり、どうもこの上がSESKOAD/ALのようだ。一昨日Seskoを陸士と準じるとしたが 陸大に当たると思われ至急訂正しておこう。
前国軍司令官Djoko Santoso陸軍大将の略歴を見ると1975年AKABRI卒、1990年SESKODA卒とあった。

サトリアで読むと:「インドネシア共和国軍事アカデミーが設立される前に、それぞれの軍と警察軍は、すでに士官学校を持っていた。陸軍は、国立士官学校(AMN)を、海軍は、海軍士官学校(AAL)を、空軍は、空軍士官学校(AAU)を、インドネシア共和国警察は、警察大学を持っていた。
インドネシア共和国軍の中に軍事アカデミーを設立しようとする考えは、陸軍副官ガトット・スブロト陸軍中将によって表明された。この考えは、その後国軍スタッフによって推進された。1965年に0.B.シャアフ少将が長をつとめる、軍事アカデミー設立委員会が設立された。この委員会は、審議の結果として1965年12月10日にインドネシア共和国軍事アカデミーの設立に関する大統領決定書を発表した。この決定書は、A.ガニ準将の率いる軍事アカデミー指導センターによって実現された。1968年1月29日(筆者注:決定は1967年12月と推定)にマグランで、防衛安全長官、M.M.カルタクスマが、軍事アカデミー(普通科Umum)を公式に開校した。
軍事アカデミー開校の実現は、教育の分野でのインドネシア共和国軍の統合を示している。」
この写真も借用 どこにあるかは未だ未調査 http://junaidieightpm.blogspot.com/より。

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2011年12月13日 (火)

昨日は歩兵の日 アンバラワの戦い

1945年12月12日-15日スマラン上陸しマゲランからアンパラワに向う連合軍をイ軍が撃退。この日は歩兵の日となっている。この.アンバラワの戦いをサトリアマンダラのジオラマは以下のように描く。
「ベテル旅団は、1945年の10月19日にスマランに上陸し、一部は、連合軍の捕虜を解放するためにマグランに向かった。しかし、彼らは、その後町の中の秩序を乱した。TKRのマグラン連隊は、M.サルビニの率いる青年達と共に、彼らが、インドネシアの国民の尊厳を彼らの思うままに踏みつける事を黙って見てはいなかった。彼らは、青年達に取り囲まれたが、スカルノ大統領が青年達をなだめる事で介入した為、青年達に徹底的に痛めつけられる事を免れた。連合軍側は、その後、町の中に必要な数のみの部隊を駐屯させる事を約束した。青年達の圧力があったため、連合軍の部隊は、密かにマグランの町を離れアンバラワに向かった。彼らの動きに、A.ヤニ、スルヨスンペノ並びにクセンの大隊がついて行った。まもなく、アンバラワの町でも連合軍との戦闘が開始された。彼らの進軍は、ピンギットで停滞し、彼らは、ビンギットの住民を脅かした。バニュマスや、サラティガ、スラカルタ並びにジョグジャカルタからTKRの大隊が到着した。戦闘の一つでは、イスディマン陸軍中佐、パニュマス連隊司令官が、戦死した。
アンバラワで戦っている部隊の調整を行う為に、マグランにおいて戦闘司令本部が設置され、各部署が設置された。イスディマン陸軍中佐が戦死した為に、第5部隊/バニュマス司令官のスディルマン陸軍大将が、戦場へ出陣した。
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彼は、各部署の指揮官を招き、アンバラワは、戦略的に重要な町であることを確信させた。その町より早急に敵を追い払わなければ、中部ジャワ全土を奪う為の足場とされる可能性があった。そして、すぐに全面攻撃を行う事が決定された。攻撃の時間は、1945年の12月12日4時20分と決められた。その日の夜明け前に激しい戦いが起こった。3日間戦いを続けて、我軍は、アンバラワの町より敵を撃退することに成功した。」
このジオラマじゃアンバラワのオランダ人墓地で起きた戦闘を示している。
写真はBapa tjahnjalinのBrogより借用、スデルマンの像である。この地は日本軍がオランダ人15,000人を収容していた地でもあり、47年にもアンバラワの戦いがあるので混同するがこちらはいずれ。。

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2011年12月12日 (月)

SESKOAL は海軍兵学校

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1ケ月前のSMP Hang Tuahハントゥア中学校は実はCiplir(クマヨランラマ)のSESKOAL海軍士官学校を見るため行った時発見したものであった。SESKOALは日本の昔流に言えば海軍兵学校、陸軍で言えば陸士であろうか。正式にはSekolah Staf dan Komando Angkatan Laut (海軍参謀・司令官学校)である。そうした組織になったのは提督 E.Martadinata提督の時代1962年であるので今年で50周年程度である。
海軍参謀長の直属の組織で 学校長(Danseskoal:DanはKomandanから)と副学長Wadanseskoalが候補生Pasis(Perwira Siswa)を教育する。現在の校長はLaksamana Muda Arief Rudiantoで小将である。大体小将のランクで玉にKommodor准将がある。 今年50周年で28代目とあるので皆2年弱、記憶にある様な名前は見つからなかった。

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2011年12月11日 (日)

SEA Gameには勝っても

11/1 世界経済フォーラムの男女格差ランキング:イは90位、日本はさらに低い98位。
11/2 贈賄指数:イは25位、下から4番目。トップは蘭とスイス、日本は4位、最下位は露。
11/2 UNDPの人間開発指数ランキング、イは187カ国中124位、アセアン上位5ヵ国中でも最下
11/3 G20サミット:SBYが出席、ギリシャの経済破綻による欧州経済の低迷が中心議題。
11/4 日鐵商事、クラカタウらと合弁でミトラ・カラワン工業団地に自動車部品向けコイルセンター
11/8 河合楽器販社・河合ミュージック・インドネシア設立。
11/11 ガルーダ航空、羽田~デンパサール便就航へ、来年5月
11/12 新規7社がタックスホリデー申請中:韓国ポスコの製鉄事業($60億)、韓国系湖南石油化学の事業他
11/12 東南アジア選手権大会(SEA GAMES)、ジャカルタとパレンバンで開幕、23日まで。
11/17 バリでアセアン・サミット、東アジアサミット、オバマ、野田、温家宝、
11/18 ライオン航空、B737MAXなど230機購入合意、計217億ドル、来イ中のオバマ調印立会
11/19 日中韓首脳会談:3カ国FTA検討加速で合意。
11/21 首都の来年最低賃金、18.5%もアップの1,529,150ルピアでほぼ確定(28日)
11/28 イ経済規模、2020年に世界10 位、30年に同6位に:スタンダード・チャータード銀予想。
11/27 中古車両購入に絡む不正:住商に18.5億ルピアの不正利益返還要求。鉄道総局長に禁固罰金
11/27 マハカム川鉄橋の崩落事故:建設から10年の事故で公共事業省に汚職の目。大臣喚問の構え。
11/28 クリーンな役所、1位はBKPM、ジャムソステックは3位だが、労働省は下位:汚職撲滅委調べ

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2011年12月 9日 (金)

初冬の明治座

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明治座は人形町 甘酒横町の先にある。清洲橋通りに面しており奥に浜町公園があり丁度銀杏の紅葉が見ごろである。途中の公園も人もまばらの初冬の静けさがあった。明治座12月公演は前川清、秋元順子特別公演のNice Guyと言うものであったが本人も言う通り劇の成り行きも解らないなんでもありのどたばたであった。第2部オンステージは宝塚女優8人も参加したきらびやかもので、最後の前川清のヒット曲6(?)連唱は圧巻、ステージを降りて謳いながらの握手しまくり、2階、3階にもエールを送り、小生も思わず手を振ってしまった。人に向かって手をふるなどもう何年もやったことがなく、生きてる人間に戻った感じであった。彼も63歳、唄は会場の人達の青春とかさなり、思い出がよみがえっているようであった。小生もドイツ駐在から帰国した頃であったろうか ずいぶん昔、ジャカルタで景品のウイスキーボトルを2~3回頂いた「逢わずに愛して」も良かったが初めて聞いた「雪列車」も今度レパートリーにいれよう。
会場の人達も平均60歳強、8割がオバサン達であった。

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2011年12月 7日 (水)

スドモ提督は御自宅か

HT大学の図書館の名前になったスドモ提督は、大学や図書館と何か関係あるかと思ったが大学の設立時代1987年頃は労働大臣をやっており、海軍提督以外は特に関係なさそうだ。正式な名前はLaksamana TNI (Purnawirawan) Sudomoと呼ばれているからである。
彼はスハルトより5年若い1926年マラン生まれである。最後のDPA議長は最後から2番目、Kopkantibも最後から2番目である。小生の仕事面では直接関係はないが関係するとすると労働大臣時代、或いはラーマングン・ゴルフクラブの総裁時代(支店長のメンバーシップ取得)である。 このクラブ・プレジデントは70年から1997年と長期に支配しており、そのあとはボブ・ハッサンであるから、二人してスハルトとに同伴パートナーを務めたことであろう。スハルトとの仲は1962年頃マンダラ作戦ごろスハルトの副官となってからである。スハルトは1945年頃からPETAで顔を出し、1949年3月ジョグジャ占拠戦、1950年アジスの反乱、1957年対プルメスタ動員とくるがこの過程では余り接触はなかった。
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略歴を示すと下記の通りであるが、現在は故アリ・サディキン邸のはす向かいの私邸に住んでおられる筈である。
1969-1973:国軍海軍参謀長
1973-1978:Kopkamtib 秩序治安回復作戦副司令官(スハルト司令官の下で)
1978-1983:同上司令官
1983-1988 :労働大臣
1988-1993:政治・法務・治安担当調整大臣

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2011年12月 6日 (火)

Singaporeの絢爛ヘリテージ

もう日本に戻っているのに未だシンガポールについて書くことはある。
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Hill Streetにあるこの建物の写真は物が物だけにうまく撮れているから是非記事にしたいからである。
シンガポールのHeritageは玄関近くに紹介プレートがあるので観光客はここが何たるかその歴史を知る事が出来る。
この絢爛たる建物は1909年完成の中央消防署(Central Fire Station)で現在も使われているようだ。シンガポールは密集した街でよく大火に見舞われたそうで1888年このHill Streetを含め三つの消防団がおかれた。そして1905年にMontague Pettと言う専門家を招き消防の近代化を図った、その一つがこのCentral Stationである。玄関から塔は言わずもがな全体が良く保存されているが古い部分(どこなのか?)は歴史を示すギャラリーになっているらしい。昔の消防団 Fire Brigadeは現在はCivil Defence Forseと変わった。

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2011年12月 5日 (月)

航空券なしジャカルタ通関

日本に戻る日、たっぷり時間はあったのに、間際になって大慌て、一度は部屋に戻って見たものの探す記憶の一片も無く、ええいままよと空港に向かった。無くなったのは航空券である。
車の中で入口を突破出来ればガルーダのカウンターで何とかなるのだがとか色々知恵を回した揚句、パソコンはあるので e-チケットは後は印刷するだけと、そこまで思いついて、どうにか入口でパソコンを広げeメールにあるeチケットの頁を見せてなんとかなった。エクゼクティヴ・ラウンジで、しろ身の煮付けや牛角などでビールを2本きこし召し、小生用に2座席フリーとなったエコノミー最後尾に陣取り「日輪の遺産」を見る事が出来た。
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今日のエアーバス330も満席、最後尾の真ん中二つが女性クルー用に確保してあったが、日本人の若い男が前から下ってきてパーサーの説明にも耳を貸さず押し込み居すわったので、小生にとっても折角の一夜が台無しとなった。
反対側の最後尾の2席も旧知のK氏が陣取っていた。多分この二つだけだったのであろう、彼も小生とほぼ同じ30数年前にジャカルタの土を踏んだその道41年のベテランなのである。
ガルーダ・エクゼクティブ・カウンターではパスポートを見せるだけで、チケット提示も事情説明もマイレージカードも見せる必要が無く、彼女らの応対を見ていると多分パソコンが無くともなんとかなったと思うほど簡単にあしらわれた。それが本来のeであって、入口の検査は本来不要なものである。

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2011年12月 4日 (日)

シンガポールのフリーメイソン

シンガポールでインドン人の運ちゃんに示した場所はHill Streetの切手博物館で(Sin Philatelic Musium)であったが、その隣にシンガポールのフリーメイソンのロッジがあった。
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シンガポールのフリーメイソンは1845年に始まり、この建物は1879年に建てられた。英国のThomas Cargillの設計で正面FacadeはDoric柱の玄関で2階部分はアーク、イオニック柱、Pediment、Balastradeが特色になっている。インドネシア蘭印のフリーメイソンはシンガポールより早く1764年頃から始まった。ラッフルズも会員だったというが多分インド時代やバタビア時代がそうであってシンガポールの1845年にはラッフルズは既に無くなっている。フリーメイソンで有名な人はモーツアルトやワシントンであると正面の紹介文にあったが詳しくは小生の「インドネシアとフリーメイソン」をご覧ください。
ここはColeman通りとも書いてあった。
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インドネシアのブディ・ウトモ通りのロッジの写真も貼っておこう。
日本に帰る日、未だシンガポールでの書き残しがあるので今日はこれにした。

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2011年12月 3日 (土)

インドネシア企業経営 11月号

インドマルコ社の月刊誌「インドネシア企業経営」2011年11月号を紹介します。 今月は保税地域と保税倉庫に関する税務大臣決定のその2です。その他マスターリスト解説、当月に発行・入手したインドネシアの会計・税務・輸出入手続き等の法令の紹介など下記の目次の通り。詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又は k2433@ae.auone-net.jp或いはwww.indonesialink.net/indomalco/に照会下さい。
1. 今月の経営情報・事例研究 枚 頁
  1 ) インドネシアの 今月の税務法令アップデート 3 2
  2 ) インドネシアの 今月の経済法令アップデート   6 5
  3 ) インドネシアの 会計原則 149 (無形固定資産 5) 4 11
  4 ) インドネシアの マスターリストの関連法 2 15
  5 ) インドネシアの 投資拡張のマスターリスト 邦訳 4 17
  6 ) インドネシアの 株式会社の登記データへのアクセス 2 21
  7 ) インドネシアの 賃金について二題 2 23
  8 ) インドネシアの サービスのネット収益に対する源泉徴収税の変遷 3 25
  9 ) インドネシアの AC FTAの原産地証明審査手順の変更 2 28
  10 ) インドネシアの 公共事業の建設業者調達基準 2 30
  11 ) インドネシアの 租税の納付と申告手続き アップデート 2 32
  12 ) インドネシアの 輸入水産物のリスク分析 2 34
  13 ) インドネシアの 保税地区規定の改定 その2 3 36
  14 ) インドネシアの 保税倉庫に関する財務大臣令(要旨)その2 3 39
  15 ) インドネシアの 今月の労働関連トピックス 2 42
  16 ) インドネシアの 医療機器輸入・製造関連法令 2 44
   
2. 今月の政治・経済情報  
  1 ) 2011年10月度 下旬 政治・経済トピックス メール配信 2 46
  2 ) 2011年11月度 上・中旬 政治・経済トピックス メール配信 5 48
  3 ) 2011年Q3GDP速報、物価・貿易2011年11月発表 メール配信 3 53
   
3. 暮らしの随筆・その他  
  1 ) 橋本政彦 「明日の街角71~法然と親鸞に学ぶ」  2 56
  2 ) 広沢勉 「ジャワ島上陸作戦」 2 58
  3 ) 拓海広志 「アルバトロス・オムニバス その2」 3 60
  3 ) 西見恭平 インドネシア 今日は何の日 12月のクロニクル 2 63
   
4.今月の金融・経済関連データ  
  1 ) 今月の月次経済指標 2010-2011トレンド メール配信 2 65
  2 ) 今月の会計・税務用換算レート メール配信 1 67
  3 ) 今月の為替株式金利の動き メール配信 1 68
      ニュース性のものについてはご希望の方にメール配信もしています。    
表紙写真:中部ジャワ州クドゥス市内に立つムナラ・クドゥス。16世紀ごろにジャワでイスラム教を広めた9聖人
の1人、スナン・クドゥスの拠点モスクとして、現在も多くの巡礼者が訪れる。


発行:PT. Indomalco Info Center
Plaza Sentral 3rd , Jl.Jend.Sudirman No.47,Jakarta 12930 Indonesia
TEL: (-62-21-)570-9767, 570-9768(直通), Fax:570-9769, 574-1923
Handphone:0816-726585, 0811-996071 E-Mail: risa@indomalco.com 主幹:西見、兼松
ホームペイジ:www.indonesialink.net /indomalco/

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2011年12月 2日 (金)

シンガポールそぞろ歩き

シンガポールの地図を広げて見ていたらOphir 道路の名前が目についた。このブログでも過って取り上げたジャカルタの道路名である。
それは宿泊したベイビューホテルの北、2~3ブロック北にある。そこまでは足を伸ばさなかったが翌朝、10時頃、帰りの下調べの為地下鉄に乗り、まずホテルから1分CC線Brass Basah駅へ、そこから北上しPaya Lebar駅、ここはWE線で後Tanah Merah駅経由Changi飛行場へ行ける事を確認して逆にWE線(West/East)を南に下りRaffles Placeに行った。00dsc03144


駅から地上に出ると、にぎやかにプロモーションをやっているがそこでかわいい二人のガールを写真に撮り、大学生にここの名所を聞いたが全然だめであった。川とかマリーナは無いのかと聞いたがオーチャードロードのショッピングを紹介するだけで感で歩いたその先は何と、ラッフルズ像が立つ対岸のマリーナだったのである。
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そこにはFullerton Hotelもあり、遠くにカジノも見える。近過ぎると言って文句を言うタクシーでHills Streetに行ったがこのインド系の運ちゃんにはソンボン・ガラックだと捨て台詞の残し、またそのあとそこから近い宿泊ホテルにタクシーを使うのを遠慮して約1時間弱歩いてホテルに汗びっしょりで辿りついた。
シンガポールは歴史建物を無造作に且つ大切に保存しており、小生のHeritage 建物シリーズはシンガポールに行くときりがないのではないかと思う。ブログのタイトルのインドネシア新旧あれこれからして関係ない土地に飛び火するがシンガポールはインドネシアのスリウイージャヤ帝国時代の版図にあったことで許してもらい特選画像をお送りしよう。

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2011年12月 1日 (木)

Kopitiamはどこが本店

シンガポールでのホテルは人任せでなくnetで探してBayview Hotelにした。この地域はOrchardに近くマリーナにも近く値段も手ごろなホテルが多い。難点を挙げるとアラブ人が多いと言うことであろうか。帰る間際位になって何とここは3年前に人任せに泊まった宿だと解り、折角探した苦労が泡と消えたが、むしろ気安く土地勘もありその方がいいのである。昔はその都度違う物を求めたが。。  00dsc03115_6


近くにIrish Pubもあり入って見たがフイリピン女性が一杯いて、友達集合のテキーラの一気飲みについ叱りつけた所、素直に謝ってくれた。腕と首に入れ墨をしていたが本心はそれを後悔しているようであった。小生のカメラ腕ではこの程度である。
Irish 生麦酒で16ドル、タイガーでは12ドルと US$ 100=abt.S$127が消えていく。この元凶はドルにある。金はあると錯覚したドルはそれ程でなく、くそ紙幣であったのである。
シンガポールの物価は高いと思われるが翌日行った隣のフードコート KopitiamでのTiger Bierは大瓶S$4の安さで思わず中国店主にお礼を言った。 ここで自分でトッピング(アワビ、豚足、黒のり、練り物揚げ各種、竹輪、野菜各種を選んでヌードルスープにする店や隣は豚の料理 バックテー等を食し満足した。昨日不運の10種をあげたがこの日の夕方4時まではかくのごとく不運は何一つ無かったのである。
このKopitiamは何故かシンガポールに行くと、良く訪れる店である。20種類ぐらいの店があり、日本のヌードル店はかわいそうなくらいであったがここで日本ラーメンを食うのは、数少ない機会を失いので失敬したが、このKopitiamと言う名まえは何であろうか。 00dsc01583


これはジャカルタ、本店はJaran Sabanにあるインドネシア切っての伝統あるKopitiamであろうか。 今や東南アジア各地にあり札幌など日本にもあるようだが、やはりJl.Sabanの店の雰囲気とコヒーの独自性からはこの黄氏創設のKopitiamが大本だと信じる。

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