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2011年12月13日 (火)

昨日は歩兵の日 アンバラワの戦い

1945年12月12日-15日スマラン上陸しマゲランからアンパラワに向う連合軍をイ軍が撃退。この日は歩兵の日となっている。この.アンバラワの戦いをサトリアマンダラのジオラマは以下のように描く。
「ベテル旅団は、1945年の10月19日にスマランに上陸し、一部は、連合軍の捕虜を解放するためにマグランに向かった。しかし、彼らは、その後町の中の秩序を乱した。TKRのマグラン連隊は、M.サルビニの率いる青年達と共に、彼らが、インドネシアの国民の尊厳を彼らの思うままに踏みつける事を黙って見てはいなかった。彼らは、青年達に取り囲まれたが、スカルノ大統領が青年達をなだめる事で介入した為、青年達に徹底的に痛めつけられる事を免れた。連合軍側は、その後、町の中に必要な数のみの部隊を駐屯させる事を約束した。青年達の圧力があったため、連合軍の部隊は、密かにマグランの町を離れアンバラワに向かった。彼らの動きに、A.ヤニ、スルヨスンペノ並びにクセンの大隊がついて行った。まもなく、アンバラワの町でも連合軍との戦闘が開始された。彼らの進軍は、ピンギットで停滞し、彼らは、ビンギットの住民を脅かした。バニュマスや、サラティガ、スラカルタ並びにジョグジャカルタからTKRの大隊が到着した。戦闘の一つでは、イスディマン陸軍中佐、パニュマス連隊司令官が、戦死した。
アンバラワで戦っている部隊の調整を行う為に、マグランにおいて戦闘司令本部が設置され、各部署が設置された。イスディマン陸軍中佐が戦死した為に、第5部隊/バニュマス司令官のスディルマン陸軍大将が、戦場へ出陣した。
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彼は、各部署の指揮官を招き、アンバラワは、戦略的に重要な町であることを確信させた。その町より早急に敵を追い払わなければ、中部ジャワ全土を奪う為の足場とされる可能性があった。そして、すぐに全面攻撃を行う事が決定された。攻撃の時間は、1945年の12月12日4時20分と決められた。その日の夜明け前に激しい戦いが起こった。3日間戦いを続けて、我軍は、アンバラワの町より敵を撃退することに成功した。」
このジオラマじゃアンバラワのオランダ人墓地で起きた戦闘を示している。
写真はBapa tjahnjalinのBrogより借用、スデルマンの像である。この地は日本軍がオランダ人15,000人を収容していた地でもあり、47年にもアンバラワの戦いがあるので混同するがこちらはいずれ。。

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