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2012年2月の投稿

2012年2月29日 (水)

BKPM事情

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事務所の机の前にユドヨノ第二次内閣の閣僚一覧写真がはってある。これには一人未だ決定されてなかったポジションがある。
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昔からよく忘れられるBKPM投資調整庁である。しかし今は別の意味があるのではないか、多分現在の投資ラッシュでもう海外からの投資促進を扱う役所は要らないのであろうかと勘繰りたくなる。
前回はNItimiharjoさんだったか工業大臣だったかに栄転したが、今回はGita Wiryawan長官が商業大臣に栄転したあとで、こうなると登竜門の一つになった感がるが、後任だったか前回は投資促進資金をつまみ食いした不祥事も起こした人がいた。
そのずっと昔1998年頃、長官が居なく副長官(Yu’san)が投資承認の署名をしてくれていた時代は申請後5日程度で決済をもらったものだ。当時は副長官室にもアポなしで行けたが今はそうはゆくまい。
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BKPMのサイトの組織表で確かめたが未だ長官はGitaさんの名前のままである。そうすると決済は副長官がやることになろうが、何と今の副長官の一人(Kurniadi)は当時懇意にさして頂いた人がなっている。今度挨拶に行きたいが、お土産に適した良い投資案件を待ってからにしよう。
今は彼らが選ぶ時代なのである。

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2012年2月27日 (月)

日蘭交流のライデン市

読売新聞、「地球、時の散歩」で蘭日交流の記事が目についた。何故日蘭でないか不思議であるがオランダは小生のテーマ インドネシアを通じて次点のテーマである。鎖国時代、日本が国を開いた国で最大の交流トッピックスはシーボルトSiebolt(1796~1866)で、彼の作った礎が今受け継がれているライデン市の話である。シーボルトが持ち帰った日本からの収集品が、ライデンに持ち込まれ彼は1832年から1845年までここに住み日本研究を続けたと言う。現在はシーボルトハウスと言う博物館に保管されている。又オランダでの由緒あるライデン大学はシーボルト存命中の1855年に日本語学科を設置した。東日本大震災にはこの学科の学生たちは3,000羽の千羽鶴を折って祈ったそうである。
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写真はライデン市風景、読売新聞から。
シーボルトはドイツ人で1823年から長崎のオランダ商館の医師をしながら、日本に関心を持ち研究を続けたが1828年のシーボルト事件で追放された。、この1855年当時はドイツで余生を送っていたが、鎖国が解かれた1859年に再来日し日本人の妻であるお滝さんと娘のイネと再会している。再開の下りはは杉本苑子女史の小説「埠頭の風」に取り上げられこのブログでも明かしている。
シーボルト事件は彼の帰国の時の積み荷に伊能忠敬の日本地図の彼が作った写しが見つかったことが発端となって、幽閉され最後1831年に追放されたがその他のコレクション12,000点は携行できたようだ。これら蒐集品・記念品はライデンだけでなくドイツのボン大学、ボーフム大学にもあり、その一つにシーボルト自筆の「蝦夷地図」があり(ボン大学所蔵)、その没収された地図を彼の驚異的な記憶力によって再現して大著「Nippon」におさめたものの下絵があるそうで、いつぞや日本で展示の為里帰りしていた。


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2012年2月25日 (土)

インドネシアの紅ハコベ

伝説の革命家タンマラカは出生年も1896年か1897年か不明であり、死亡も1949年の2月19日と4月16日の両説があり、「伝説の」と言う言葉を頷かせるが、20年にも及ぶインドネシアを離れた海外生活も官憲に追われ、「獄中から獄中へ」と現れては消えた生きざまは怪傑ロマンである。
出身はミナンカバウの母方が貴族の流れにあり、ミナンカバウの男子の伝統的出稼ぎに似た、星雲の志躍如たるものがある。この様な生きざまの背景はミナンカバウの長老が彼をオランダに留学(1919迄5年間)させそこで共産主義など政治哲学を学んだこと、農園クーリー生活から、オランダの支配への戦いへ、そしてインドネシア共産党を指導(1921年議長就任)し、そこからインターナショナルコミンテルンに近づき国際コミンテルンから東南アジアの指導を任されたこと、妥協を許さぬ革命性はロシア革命に触発され又イスラムとの両立の立場からインドネシア共産党からの離脱し、植民地独立はヨーロッパコミンテルンからの離脱となり、寄って立つ所は人民の中であったことである。
この時代、1905年頃イギリスで書かれた「紅ハコベ Scarlet Pimpernel」と言う小説は、行きすぎたフランス革命が無実の貴族たちをギロチンに立たせ、この救助に立ちあがったイギリスの怪傑紅ハコベ団の話が劇や小説、映画で一斉風靡しており、これを翻案した大衆小説「インドネシアの紅ハコベ」はタンマラカを暗にしめしており彼の名声に繋がった。
これで彼がインドネシアの紅ハコベと言われるのかの背景は解ったが 秘密結社の名前となった紅ハコベの由来は解らない。ハコベは庭先に生えている雑草で鶏のえさなどに使うが人間も春の七草のひとつで食するものの、紅ハコベは日本にはない。

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2012年2月24日 (金)

サトポル パモン・プラジャは警察軍?

Sevelの法規順守状況のチェックにSatpol PPも駆り出されていたが、今頃あちこち見回っているのであろうか。
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このSatpolと言うのはSatuan Polisi Pamong Praja の略で地方自治体が持つ一種の治安警察隊ともいえる怖い存在だ。ラマダン時のアルコール飲酒等を暴くのも彼らの任務で、選挙など大きなイベントの時はここぞと活躍する。
Satopol PPはちゃんと法的バックアップがある組織でジャカルタで言えばDKI市長の下で実際はDKI政府官房が指示している。県市にも置ける事になっているのでこの場合は県知事の指示に従う。
歴史を辿ると1950年3月3日にジョクジャで初めて組織され、この日がサトポルの記念日となっている。写真はパトロール中のよく見かけるSATPOL PPの車である。

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2012年2月23日 (木)

Zaraは一杯、M & Hは

ジャカルタのモールを歩いているとZaraの店舗を目にした。若い女性のファッションには知識がないが、なんとなくユニクロ的なfast fashonの店であることは理解していた。Forever 21等もそうだが世界的にはスウェーデンのH & Mの方が多く店舗展開している。最近の人気度は知らないが,スペインのZaraはもう古く1997年に日本に進出、既に32店舗も持つ、全世界では1600店以上と言う。 
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ジャカルタではここPlaza Indonesia の他、GRAND INDONESIA 、SENAYAN CITY 、MAL TAMAN ANGGREK、PONDOK INDAH MAL、Mal Kelapa Gadingと東西中南北とカバーしているのだ。
H & Mの方は日本が2008年進出で、Singapore 2010年だから未だ根強い傾向性はあるのであろう。 アジア進出が遅れている分、ジャカルタは未だの様だ。 
Fast Fashonとはイメージとしてデザイナーを多く抱え、どんどん新作を出していくが、多くを在庫せず直ぐ売り切れる、自分だけのファッションを格安で楽しめると言う所だろうか
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ZARA Indonesia はオープンな広いフロアーの店構えであるが、女性専門かなと思って入るのが気が引けたが、男性用もあるようだから今度はよく見て見よう。 この間通りすがりにカメラに撮った銀座店は一つのビルであった。

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2012年2月21日 (火)

タン・マラカの功績

2月はタン・マラカにかかわる「今日は何の日」が二つある。2月10日カー特使の仲介によるシャフリルとモークの会談の窓の外ではタン・マラカの闘争同盟の即時完全独立の声が益々強くなっていった。 
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タンマラカは独立直後の9月初めには急進派青年の背後におり行動委員会を作り日本軍からの権力奪取をしていた。9月18日のイカダ広場の大集会も彼の発案であった。46年1月彼は143の団体を結集し闘争連盟(人民戦線Persatuan Perjuanganを結集しシャフリルの交渉に反対した。一つには日本や連合軍が去った後オランダと対決するのが彼の戦略であった。2月28日、闘争連盟の大会は7項目の革命路線を採択し、こによりシャフリルは総辞職した。スカルノは国連の支持を得る交渉をやれるのはシャフリルしかいないと再度シャフリルを指名し、3月、闘争連合の幹部を逮捕した。タンマラカは48年9月マディウン事件まで獄中にいた。
釈放されるや彼はPKIとは一線画しムルバ党Partai Murba(人民党)と呼ばれる新政党を形成する仕事で1948年末までジョクジャカルタにおり、その後オランダとのゲリラ戦争を指導したが1949年2月19日、国軍の何者かに狙撃され死亡した。
この死亡の日は4月16日と言う説も有力である。 完全独立をなし得た一つの大きな要因はインドネシアにタンマラカと言う伝説の革命家がいたと言う事である。
写真はGoogle 映像の kc.goclowner.comから借用したもの。

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2012年2月20日 (月)

UNO家の思い出

この所よくマダム ウノさんに会う。会うと言っても雑誌の上で小生が見てるだけであるが。昔の小生の社宅のオーナーは今やインドネシアでMost Powerful Womanの一人で1995年はWoman of the Yearに選ばれたり表彰は数えられないくらい多い。そ の一人息子さんは若干43歳でインドネシア経団連の副会頭且つ大富豪ランキングのでインドネシアRichest No.57 にランクする。 
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会った一つはGarudaの雑誌のBukopin銀行の広告で良き顧客として描かれている。Most Powerful WomanはGlobal Asia誌である。この間のC&RではTutut女史のパーティにも現れていた。小生はCALTEXの部長であった旦那さんと親しくしていたが、家内はウノ夫人の仲良しで、スハルト時代も80年代の大昔、日本の鈴木首相が来イされた時首相夫人をタマンミニに招待したTien夫人のイベントとに二人して応援に駆り出された事があった。
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当時のカメラマンとカメラの出来が悪くこの程度であるが、背の高い人はYoop Abe観光大臣夫妻である。
ウノ夫人はMien R. Unoと言い、よい所の出なのか、スハルト家に近く又しつけなどにやかましく
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自分でDuta Bangsaという会社・学校・財団を持って人格形成に関する本とか執筆・出版もしている。 こっちは既に忘れられた存在かもしれないが未だ現実に会うこともあろうと記録しておく。

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2012年2月19日 (日)

スハルトの子供達は今

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空港のターミナルのマガジンショップで買ったタブロイドはC&R(Check & Recheck)と言い表の表紙を飾っているのはバンバン・トリハトモジョとマヤンサリで タイトルは「チェンダナの家族として迎えられるマヤンサリ」である。
Mayansariは1990年代の歌手で小生も“Tiada Lagi”や“Harus Malam ini”位は唄える。
二人の仲は古く バンバンが最初の妻Halimah Agustina Kamilと生活していた時代の1999年頃らしく ゴルカールの活動で知り合い2006年には娘Khirani Siti Hartinahも設けていた。この不倫と離婚は当時かな
りのもので、実際Halimahとの離婚訴訟はついこの間終わったばかりである。
3人はMbak Tututの結婚40年の記念の宴に訪れたのだが、先に来ていた先妻の娘Gendis Siti Hatmanti夫婦は別の部屋で会うことはなく良かったと言っていたそうだ。
Ibu Tien亡きあとはTututがスハルト家を背負った形であるが、その日は長男のSigit Harjojudato夫妻が子供Ari Sigit夫妻等を連れてきた他はTommyは現われず又二人の姉妹Siti Hediati Haryadi(Titiek) とSiti Hutami Endang Adiningsih(Mamiek)は今パリに在住でTitiekの先の夫Prabowoとの一人娘Diditはパリでモデルをやっているそうだ。
Tututは“Ayo makan Yuk、masuk ke dalam”と優しい声でBambangとMayansari親子を招じ入れた。

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2012年2月18日 (土)

ジャカルタ コンビニオープンは慎重に

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リテールビジネスの盛り上がる要求に対しジャカルタ市は6年間続いた凍結条例を解除したが、違法営業にどのような態度で臨むか一寸悩んでいるようだ。
現在ミニ・マーケットとコンビニは2006年の4倍の1,868店舗がある。内1,443店舗が条件を満たしてなく、内37店舗が伝統市場と500メーターの距離を置いていない。
2002年第2号条例によるとモダーン店舗の許可条件に伝統市場との距離がある。面積200m2以下のミニ・マーケット、コンビニは 500メーターで200m~1,000m2では 1,000メーター、スーパー、ハイパーマーケットは 2500メーターである。
市長命令No. 7/2012はモラトリアムを解除はしたが新しい条例改定には未だ時間が必要としている。その為市は現在の店舗状況の評価を行うべく市のSATPOL PP等を動員している。
条例では、これは閉鎖させる事となるが、通常5年のレンタル契約があるので3年間の猶予を与える方針だ。1店舗当たり10人従業員がいるので1,000店舗以上が閉鎖されると大きな就職問題を起こす事を憂慮している。
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日本のセヴンイレブンは57店舗あるが内許可条件を満たしているのは15店舗に過ぎない。Seven・Elevenはレストラン許可でSevelと省略されている。

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2012年2月17日 (金)

ultimate solution for traffic jam

怒涛の自動車産業に贈る渋滞解消策

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山盛りになり道からあふれかえる様なジャカルタは今世界一の渋滞後進国である。そこであっと驚く渋滞解消対策を教えよう。
1) この写真の渋滞は基本的に高速料金所があるからそこで入ろうとする車で詰り、その尻尾で出る車も出られない:CawangからGlogol迄は高速と一般道の境を無くし片道10車線での一般道化する。
2) Uターンする場所が少なく無駄に反対方向に走っている車が多い:バスウエーの間の境界植樹を無くしどこからでも、どこでもUターンが出来るようにする。すなわちバスウエーの共用へ供出
3) ビルの出はいりで渋滞:全てのビルにそのスペースを供出させ四周を道路にさせると、ビルが並ぶほどに裏道が完成し且つビルに入る車は正面からでなく左折れの道から入るようにする。出る車は裏の道へ
3-1)道が少な過ぎる。 いつまで行っても左折して逃げる道がない。未だあちこちに空き地がある今のうちに土地収用するべきである。その道ネットづくりに3)は有効である。
3-2)一切の警官或いは政府が作ったブロックを無くし自由にする。他の車の負担において成立する特急は生活のルール違反だ。空いている先にある渋滞、渋滞の先にある閑散は常に一定の緩やかであるがスムーズな交通が出来る事を暗示する。
4) 信号の待ち時間が長い:U-ターンが簡単に出来るようになったので右折車用のシグナルを無くす。右折車は直進し300メーターほどでユーターンし信号の所に来たらいつも青で左折出来るようにする。
5) 信号の長さを一定の60km程度の速度を守る車両は常に青になる様(Blue Wave)にセットし思い思いのスピードで走るのを統一する。
6) 追い越し割り込みはブレークでなくアクセルを使うとか技術教育が必要。或いは渋滞を避けようとする技術もない。いつも渋滞が好きではないかと思われるほど運転手達の渋滞を起こす行動に感心する。
7) チップを取る交通整理の少年達や勝手に割り込ませるビルのSatpam等を取り締まる。
7-1) 交通警官を半減し浮いた政府予算で道路を作る。 警官一人一人で勝手に渋滞を作っている。
8) そして何よりもMoralとdisciplineの向上が必要だ。Maaf Silakanの精神で言葉を出して意思表示をする。権利の主張ばかりでは衝突する。
9) その他色々あるがそれは小生の渋滞をスリ抜ける・早避けるノウハウであるので公開はしない。

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2012年2月16日 (木)

怒涛の自動車産業

日本の自動車メーカーが愈々インドネシアで本腰を入れだした。
たまたま1月にそのニュースが目白押しである。
1/4 スズキ、工業団地GIIC内に新工場建設計画、130万平米の用地取得。
1/18 いすゞ・アストラ、スルヤチプタ工業団地に新工場建設へ、14年稼動目指す。
1/18 トヨタ、カラワン第2工場の生産能力を18万台から23万台に引き上げ、2013年
1/25 三菱自動車、プロガドゥン工場拡張、投資2,500億ルピア。「アウトランダー」の生産
この前に
昨年1月  ダイハツは10万台規模の工場を80万m2をsuryacipta団地で立ち上げ
昨年10月 豊通が車部品企業向け賃貸工場の建設開始:来年6月完成、
昨年11月 日野自、5割アップの5万台生産能力増強などに98億円投資
車売上も2010年76.4万台、2011年89.4万台、今年は95万台と見られている。

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2012年2月15日 (水)

ジャカルタ 日本人も急増か

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前回プロマスゴルフクラブに行った時、レストランに4組の日本人グループを目にして世の中が変わったのかと思った。それまでは韓国人がチラホラ出てきており、ここもいづれ彼らに占領されるかなと不安な気になっていた所であったので、援軍が来たと言う力強さを感じる事が出来た。 只或る組は4人グループで皆ボールを二つずつプレーしているのではないかと思うほどスロープレーで後ろのインドネシア人3人組はあきれ、諦め上がってしまった。我々はホール④でいやと言うほど待たされたので④のあと、⑧に行きそのあと ⑦、⑤、⑥,⑨と彼らをかわして痛快であった。
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その夜はブロッグMのレストランに出掛けたがどこも日本人で一杯、天狗等は座る所なく諦めたがむしろ心地よかった。カラオケなどもトップ尾根いさんは一晩に2回お勤めするほどだと言う。統計を見ると1月のニュース二つ:
1/6 イ在留邦人数、2011年11月時点で12,469人、前年同期比6.6%増。
1/16 滞在ビザ発給、昨年は6%増の111,752人。日本人は13,179人で2位。トップは中国人。
在留邦人数など普通は殆ど動かない数字であったが2009年から約1,000名も増えている。

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2012年2月13日 (月)

1月のトピックスからスト/デモ

1月のジャカルタの滞在はストとデモでスケジュールが翻弄された。着いた翌週だったか最低賃金を巡る労組のデモは結局10日頃から30日まで新聞をにぎわせたことになる。
1/11 ブカシ地区最低賃金、経営者協会が無効求めての提訴に対し、金属労連が大規模デモ呼びかけ、高速道路閉鎖、各工業団地閉鎖、企業は休日出勤や午前中での早退を繰り返し、16日には経営者協会提訴取り下げたたり20日10-20%程度の代替案提示したり、結局裁判所は凍結と揺れデモは続き26日には形だけの勝訴を得たが、それは再度労使三者協議を行うと言うもので最早この段階では問題の知事の問題の決定と変わらぬ線で妥結 30日迄尾を引いた。
一時デモの集団の真ん中を通る羽目になったが。。  大統領も閣僚も今や所得倍増へ後押しする時代になった。低賃金を求めての進出は考えものである。
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1月12日には帰宅を急ぐ小生の、スマンギに至るや警察がスナヤン方向に全車両を誘導しどこまで行っても帰れる気配なくしぶしぶブロックMへ凱旋する事になったが、あれはSBY退陣訴える6千人規模のデモが国会になだれ込んだため、前の大通りが封鎖されたものであった。農民団体、労組、NGOなど77団体が、ヤシ農園開発で農園内に住む農民ら農園の自警団や警察などに虐殺されたり、暴力を振るわれたりする事件が近年頻発していることに対して抗議らしいが それ以降国会前を通るのは帰国の日で2月5日、未だ国会前はデモ農民等がテントを張り寝泊まりしていた。これも殆ど1ケ月続いているのだ。

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2012年2月11日 (土)

独立宣言後蘭イ間仲介のイギリス

1946年2月10日はインドネシアとオランダの交渉(Perundingan2)の開始の日とされている。それまでもスカルノ、シャフリールやハッタとファンモーク副総督との間で会議はもたれたが共に共和国全領域の完全独立を主張した為流れていた。スラバヤの戦いやバンドン、スマトラの軍事的緊張は高まり、抑留オランダ人10万人の危機もあり、連合国主導のイギリスはオランダと会談し環境を整え交渉を再開する事でイギリスからクラーク・カー特使を派遣しシャフリール・モーク会談を斡旋した。この場でもオランダは連邦国家を提案するだけで、シャフリールも黙るしかなかった。カー特使は イラクー中国―ソ連―米国の大使を歴任しており、インドネシアに特使としてきたのはソ連大使の後で、このあとアメリカへの大使となっている。
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余談であるがこの交渉は前田精海軍武官府で行われたであろうことは写真で見て突き詰めた事がある。 外ではタン・マラカの人民戦線の即時完全独立の声が益々強くなっていった。 彼らはシャフリルの交渉そのものに反対した。写真は独立宣言文言の検討会議、45年10月ごろのクリスチソン中将仲介の会議、及び46年10月ごろの、リンガルジャティ協定を討議するキラーン卿仲介の会議、いずれも前田海軍武官府の建物で、肝心のカー特使の会談の写真はみつからなかった。この建物は前田中将が去った後イギリスの大使館となっていたのである。
このテーブルはジャティ製であろうか、アンチークとしても億ドルは下るまい。

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2012年2月10日 (金)

PWI と SPS

昨日今日は珍しくインドネシア「今日は何の日」で1946年で連続記念日となった。
大した日ではない。昨日1946年2月9日は 「インドネシア記者連合(PWI)記念日」であり、今日はオランダとの本格的正式交渉開始の日である。インドネシアにいるとスハルト時代長くプレスを抑えてきたためPWIの活動が活発だと印象を受けてきたが、それはインドネシアの古い映画の「追憶」で見るように、地下活動をするジャーナリスト達の歴史がそうさせているのであろう。2月9日ソロで記者が集まった会議を行ったがその主催者はSeomanangとSeomantoroで、Seomanang氏が結成されたPWIの会長となった。 ここで新聞出版者組合(SPS)も提案されたが、これは同年1946年6月8日に成立した。 どちらも現在も活動している。インドネシア人でも今時感慨をもつものはいないだろう。

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2012年2月 9日 (木)

早い成長の樹木 Angsana

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インドネシアの早い成長に掛けた 成長話3題目である。 会社の裏の駐車場広場に植えられた街路樹が この間バッサリ剪定され、枝なしの大木の姿をさらしていたがホンの1週間か10日で既に小枝が出てきている。 確か1~2年前もバッサリ剪定された姿を見たので1~2年で又うっそうたる樹木になるのであろうか。運転手によると小枝をそのまま土中にさせば根付くそうで、従い材質も柔らかで、余り家具には使われないと聞いた。日本に帰る日、どうしても木の名前を探り出せと運転手に言っていたのであるが、今日それが届いた。Angsanaだと言う。
Googleによるとフイリピンの国樹で オーチャードロードの街路樹としても使われたそうで、黄色い花を咲かせ、木質は赤く利尿剤にも使われるとか、日本名のカリンと親戚みたいな事が書かれていた。
銘木で国際撲滅保護樹木ともあったので、色々種類が多いのであろう。 東南アジアが主体であるが名前も国により千差万別である。

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2012年2月 8日 (水)

ムバ トゥトゥッの子供達

空港で買ったタブロイドC&RにCendana 家族の動向がGosipされていた。
一寸前になるがMbha TututとIndra Rukmanaの結婚40年の記念の宴が多くの友人達(Handai tolan)を招いて開かれたがそこにLulu Tobingは夫とも一緒でなく護衛官(ajudan)に伴われ一人で現れたのである。
Lulu Tobing はバタックであるがムスリムに入信し(mualaf)、ムバ・トゥトゥットの末っ子(bungsu)のDanny Rukmanaと2006年に結婚、それまではシネトロンの女優として有名(kondang)であった。この6年彼女は活動をやめてCendana 家族の一員として固く結ばれていたが最近鳥が運ぶニュース(kabar burung)ではうまく行ってない話がある。ただ離婚訴訟迄の事実はないがその日はフイルム活動に復帰しておりそれが多忙であったためとしている。
Tututは彼女が働くのを禁止はしないが以前ある時彼女に皮肉を言う事が(sempat menyindir) あった。Tututは言った"Eh Lulu tumben(珍しい・変ね)datang? Kemana saja sih” Luluは “Iya nih、Ma. Sibuk cari uang”と答えたと言う。
もう結婚生活の酸いも甘いも(asam garam kehidupan)食べているTututは、この息子夫婦に再度輝いて(semarak)貰いたく子守(momongan)を付けたがっている。末っ子のDannyの二人の兄 DandyとDanty Rukmanaたちはもう子供に恵まれているがLuluは未だ妊娠もしたことが無いのだ。 それにしてもどちらかが不倫しているのだろうか この書き方は夫人に分が悪いが。。

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2012年2月 7日 (火)

ムストポ大学の海軍中将

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クバヨラン・コスモ前のBulungan通りを北上し Hang Lekirが終わるスナヤンシティが見える所に来ると目の前にこの大学の看板が現れる。ムストポ大学であるが省略してもUPDMとProf Dr Moestopoの名前がきっちりと表現する。歯科学部、政治・社会学部、経済、コミュニケーション学部があるが、Moestopoの専門は歯科医(Dentist)である。軍歴もある国家英雄(2007)である。1913年7月13日クデリ生まれ、スラバヤのSTOVITで歯科を学びその後もジョグジャで勉学し後に1941年STOVITで教鞭を取っている。
42年日本が上陸した時一時は逮捕されたが後に日本軍の為の歯科医者を務めるも直ぐ軍事訓練を受け義勇軍PETAの大団長司令官となっている。有名なのは1945年英軍がスラバヤに上陸したスラバヤ戦争(英雄の日)、彼はブントモと一緒に英軍マラビー准将軍に対抗し指揮した。その後も軍歴をこなし1952年にはGatot Subroto陸軍病院の部長となった大佐時代に自らの住居を歯科学校を設置、これが今の大学の発祥で、米国研修から帰国した1958年カレッジとなり大学となったのは1961年である。
1986年に亡くなったが1978年海軍副参謀長になったムストポ中将がいるが同一人なのか 富士通のVistaでは時間ばかり取られ確認できなかった。
ガトットスブロト病院は陸軍であり海軍はGeneralでなくLaksamanaを使うので別人だろう。

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2012年2月 6日 (月)

帰国の日のスカルノ・ハッタ・ターミナル

日本に戻る日のガルダは8割程度の搭乗率、いつもの33C に陣取る。日本映画は1本のみKANJI 2(東宝)。 食事サービス等すべて33C が最後となる。普通はパーサーが後ろ側からサービスアシストするのであるが。。日本食はおも湯に丸切り人参と芋がごろごろ入っている戦時色濃いもので、おかずは大学芋に人参と大根の細切り酢の物では一寸手が出ず。
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スカルノハッタのデュティーフリーショップにLotteが進出、この店の一つ置いた先にもあった。
ずっとDゲート方向に行くといつも寄るマガジンショップがあるが、インドネシアには日本の週刊誌的なものはなく経済等固いものかおしゃれものばかりで買うものはないのでタブロイド版でごまかした。
日本に戻る前の日にパソコンのCデスクが満杯となり稼働しなくなった。デスク整理中にお気に入りの中身が全部喪失した。 このVisaの富士通パソコンは本当に出来そこないで苦労させられる。

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2012年2月 5日 (日)

インドネシア成長2題

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インドネシアに来る2日前か、ジャカルタは大暴風雨に見舞われた。この時の状況はブログに書いたが、あれから1ケ月になると、暴風雨に倒された木々も又芽を吹いている。あの日アパートの下のバナナ畑も全てなぎ倒されたが誰も、どうともしないので不思議に思っていた。今日みると殆どまた立ちあがったり新しい葉も茂ってきた。倒れたバナナはそのまま肥料になると言う仕掛けであろう。
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その前の空き地に先月20日頃だったか住宅の建設が始まった。細木細工の様で珍しかったので写真をとったが、こちらも今日完成していた。約2週間程度の建築である。

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2012年2月 2日 (木)

気取ったメニュー名

どこかで貰ったレストランのメニューを見てスタッフが面白いネーミングだというのでブログを書きだした。
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このレストランもこの間、例のビアガーデンで何気なく見まわしていた時なんとその隣だった事が解ったからでもある。レストランの名前はRadja KetjilでPlaza Summangi 10階である。辞書に出ていたら付記するが
Ayam Rendam Sore(rendamは水に浸す:Ayamが味汁に浸かっている、Rp38,000、Rendam Pagiもある)、Udang Naga Hijau(青龍はブロコリー Rp36,500)、Nasi Goren Pingin Kawen(結婚したい:ジャワ語風 Rp24,000)、Gurame Bulan Purnama(満月)、Ayam Siocia-Siocia(Saus Mentegaらしいが意味はインドネシア人に聞いたが解らない)、その他一杯あるがそれ程感心する事はない。

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