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2012年2月21日 (火)

タン・マラカの功績

2月はタン・マラカにかかわる「今日は何の日」が二つある。2月10日カー特使の仲介によるシャフリルとモークの会談の窓の外ではタン・マラカの闘争同盟の即時完全独立の声が益々強くなっていった。 
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タンマラカは独立直後の9月初めには急進派青年の背後におり行動委員会を作り日本軍からの権力奪取をしていた。9月18日のイカダ広場の大集会も彼の発案であった。46年1月彼は143の団体を結集し闘争連盟(人民戦線Persatuan Perjuanganを結集しシャフリルの交渉に反対した。一つには日本や連合軍が去った後オランダと対決するのが彼の戦略であった。2月28日、闘争連盟の大会は7項目の革命路線を採択し、こによりシャフリルは総辞職した。スカルノは国連の支持を得る交渉をやれるのはシャフリルしかいないと再度シャフリルを指名し、3月、闘争連合の幹部を逮捕した。タンマラカは48年9月マディウン事件まで獄中にいた。
釈放されるや彼はPKIとは一線画しムルバ党Partai Murba(人民党)と呼ばれる新政党を形成する仕事で1948年末までジョクジャカルタにおり、その後オランダとのゲリラ戦争を指導したが1949年2月19日、国軍の何者かに狙撃され死亡した。
この死亡の日は4月16日と言う説も有力である。 完全独立をなし得た一つの大きな要因はインドネシアにタンマラカと言う伝説の革命家がいたと言う事である。
写真はGoogle 映像の kc.goclowner.comから借用したもの。

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